ユミ・シャロー

旧姓・高木弓。東京・麻布生まれ。女子美術大学油絵科、セツ・モードセミナーで学び、在学中より装苑のスタイル画の仕事をする。’67年、パリに渡り、フリーで「ELLE」「ジャルダン・デ・モード」のデザイン活動やファッション・ジャーナリストとして活躍後、デザイン会社レラシオン・テキスタイルに入社。’69年、フランス人エンジニアのジャン・クロード・シャロー氏と結婚。東京ブラウス(株)パリオフィス設立に参加。「アンアン」(テンデイズマガジン時代後半に連載された編集後記「au cafe」)「エル・ジャポン」「マリー・クレール」誌等に参加。2001年現在、パリ在住。

当百科事典の「ショー」(長沢節さんの拍手の件)と「ルイ・ヴィトン」(アンアン創刊前に金子さんとパリに行った件」は、ユミ・シャローさんの作品です。
ユミ・シャロー プロフィール
東京・麻布生まれの田園調布育ち。小・中・高校を雙葉学園で過ごした本物のお嬢さま。女子美術大学油絵科在学中に、長沢節さんが主宰する「セツ・モードセミナー」にも通い、重い油絵よりイラストのほうがおしゃれ! と方向転換。”セツ”の先生になってしまった。その後、長沢節さんの紹介で、当時、最もかっこよかった広告制作会社「アド・センター」でファッション関係の仕事を始め、花井幸子さん、金子功さんと机を並べる。同時にフリーでイラスト、ドレスデザイン、手芸の仕事を目一杯する。
1967年、あまりにも恵まれすぎた環境を断ち切ってパリへ。当時、高田賢三さんが勤めていた「レラシオン・テキスタイル」という既製服会社で、彼の助手を2年間務める。で、そろそろ帰ろうかなあと思っていたところ、ボーイフレンドだったフランスのエンジニア、ジャン・クロード・シャロー氏がパキスタンに転任。そこでちょっと彼に会って、その足で帰国しようとパキスタンに寄ったところ、二人が乗った車がものすごい事故を起こして入院。傷ついた身を案じ合ううちに情が移り、結婚。一人息子、ジャン・ポールをもうけた。
フランスに戻ってからは、アンアン、エルジャポン誌等の取材記事を手がけていたが、やはり服作りがしたくなり、5年前に東京ブラウスのDCブランド「カランドリエ」を設立。パリ−東京間を往復しながら、パリのエスプリが息つ゛く、さり気ないのにこまやかな気配りを感じさせる服を作っている。旧姓名・高木弓。しし座、O型。(装苑1989年11月号 「ユミ・シャローが編集するパリ式手作りノート」より)

ユミ・シャローさんは、子供の頃からデザイナーだった!

「そもそも小さい頃から自分の着る服の絵を描いていらしたとか?」というインタビュアー(奥恵美子さん)の質問に対して、ユミさんはこう答えている。
「そうなの。家に縫ってくれる人が通ってきてくれてね、私が絵を描いては縫ってもらって、それを着てたんです。で、学校は女子美の油絵科に行ったんですけど、油絵は途中であきらめちゃって…。それでもともとデザイン画とかお洒落が好きだったんで、長沢節教室に夜通って、ファッションイラストを始めたんです。(流行通信1988年8月号 DESIGNER’S INTERVIEW「着る人の”らしさ”を出せる服を作る。」より) 

百科事典に戻る