445(よし子)のページ「今日という日」日高よし子更新2009年4月29日 21:33 445TOPへ 今日という日TOPへ 詩歌集『夢幻』へ マイメードソングへ
* 『NHKの「台湾」偏向番組の』に諫言
司馬遼太郎氏「台湾紀行」より八田與一のこと』/『珊瑚潭のほとり
           『NHKの「台湾」偏向番組の』に諫言
 民放に比べ教養的番組が多いNHKを支援する者として、NHKに一言諫言したい。
 4/5放映の「NHKスペシャルシリーズJAPANデビュー第1回『アジアの一等国に』」の台湾を日本が統治した時代の事が取り上げられた件で、インターネットのブログ等では余りに偏向的だったと言われている。私は見損なったので、どの部分がと明確に指摘出来ないが大阪のよみうりテレビの『そこまで言って委員会』でもそんな指摘があった。
 台湾という国は近隣国の中でも特に高齢者、日本統治時代の人たちには愛日家が多い。著名人でその代表者は元台湾の総統李登輝氏や評論家の金美麗氏で、日本統治時代を、『日本精神』という基盤(教育)を植え付けられた事が台湾の近代化発展をもたらした、と称えてくれている。この言葉は台湾のその当時の年代の人達の代弁と言える。現在でも短歌愛好会があると言う。
 現在進行形的に現代人が把握出来ない過去の事を取り上げる場合、特に『歴史』に於いては偏らず、多角度から捉えて放映すべきです。だから次回『台湾日本統治時代』の第2弾として、下記に掲げた「八田與一氏」を中心に取り上げる番組を制作放映して中立性を示して下さい
 「公正」等は電波法の基本でもある筈です。
 特にNHKは国営放送ともいえる国からの補助金と国民からの聴取料で成り立っている。
ならば『国』益までも考慮するという姿勢が求められる。
 今日4月29日は昭和天皇御誕生の日「昭和の日」だが、以前の『戦時国際法廷』という題名だったか北朝鮮系、元朝日新聞、日本の社民党だったかの女性ばかりが「検事」となり、弁護士なし、被告昭和天皇を裁くという『遊び』のような番組を本当にNHKが制作放映した。
恥を知るべきです。何処の国の番組かと疑いたくなるようなものを何故国営放送がつくったのか?
このことを不問にした為に、こういう輩の類いが又今回の様な偏向的番組をつくったと思える。
 愛国教育一辺倒の近隣国と正反対の我が国の『嫌国教育』と『嫌国放送』、民法ならいざ知らずせめて国営放送のNHK位、そろそろ愛国的視点からの放送にすべきです。
 日本を亡国にせぬよう。
                  ◎◎◎◎
 司馬遼太郎氏「台湾紀行」より<抜粋要約>
          『八田與一(はったよいち)のこと』
 【台湾の雄峰の峰々の中には日本の富士山より高い山もあり、阿里山は天下の名称で18峰
、樹齢1000年から2000年という桧が山の至る所に息づいているそうだ。
降った雨が土砂を西へ押し流し平野をつくった。どの川も水勢が強く渓という谷川となった。
嘉南平野は大陸のように一望出来る平野だが、20世紀のある時期まで不毛の大地だった。
渓と呼ばれる河川の数が少なすぎた為だった。
 17世紀にオランダがこの野の海岸に港を造り田をつくらせようと水を確保のため台南市東北の高地に小さなレンガ積みのダムを造ったが僅かな作物しか潤せなかった。その後は清王朝がこの地を「化外の地」(獣の地)と見捨てた。

  日本領時代の(大正時代)、八田與一という土木技師がこの平野を美田にしようとし成功した。山中に八田の銅像が残っている。顎あごの丈夫そうな額の骨の硬そうな風貌を持っている。
作業ズボンを履き腰をおろして現場(台湾人と共に造った烏山頭の珊瑚潭の水が広がっている)を見つめている。烏山頭水庫に貯えられた水が嘉南平野に配られる。その巨大な水利構造について謝新発氏は、「万里の長城以上」だという。嘉南平野を縦横に巡っている長さは1万6千キロ、万里の長城はほぼ2700キロでしかない。これは当時もいまも『嘉南大セン』と呼ばれ『水の長城』といえる。古川勝三著の「台湾を愛した日本人、八田與一の生涯」に依れば八田のさ銅像はこの工事に参加した人々の発意と拠金で出来たらしく、昭和6年(1931)珊瑚潭の畔に据えられたという。やがて、嘉南の農民がこの銅像の前を通る時、誰とはなしに手を合わせて拝む姿が見られるようになっていった。(同著より)又、”中華民族傑出人物”伝記集『台湾名人伝』にどういう分けか「八田與一」も中華民族の一員になっている・・・・。
 八田與一は石川県金沢の人で政治19年(1886)生まれた。先述の謝新発氏は金沢を歩き寛永9年(1633)に前田利常が金沢城内に上水を引き入れるべく犀川から取水させた構造の『辰巳用水』に着目している。犀川の水を9キロ用水路で運ぶのだが、途中4キロも岩盤をくり抜き、更にサイフォンの理を使って水を高みに揚げたりしている。少年の八田與一がこの文化財をみて将来土木技師になる事を夢みなかったか、どうか。四校を経て明治42年東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、台湾総督府土木局に勤めた。
              『珊瑚潭のほとり』
 明治政府は貪るように外国の土木技術を吸収し、最初は外国から権威を雇い、次いで留学から帰って来た日本人と交代させた。
 八田與一が明治40年東帝大の土木科に入学した時、留学帰りだった古市公威教授がいて既に50代になっていた。滞仏中、刻苦勉励している古市に下宿の女主人が同情し”少し休んだらどうか”というと古市が『自分が1時間休めば、日本が1時間遅れる』と言ったという。
又、八田は広井勇教授にも接した筈。札幌農学校卒業後アメリカの土木技師を経てドイツ留学後北海道庁勤務”小樽港”の設計をし一貫して現場を指揮し、誰より早く、誰より遅く”現場に”を実行。コンクリートを自ら練った。小樽港は日本の港湾の中ですば抜けた傑作だといわれる。明治32年広井は東大に招かれ土木学を講じた。八田與一も聴いた筈の哲学的な話だった。『なんの為に工学はあるのか』ーーー『もし工学が唯に人生を繁雑にするのみならば、何の意味もない。これに依って数日を要する処を数時間の距離に短縮し、一日の労役を1時間に縮め、それによって得られた時間で静かに人生を思惟し、反省し、神に帰るの余裕を与えることにならなければ、われらの工学は全く意味を見出す事ができない』(「現代日本土木史」より)農学校同窓の内村鑑三は広井死去の際の弔辞の中で広井の事を『工学的良心』とよんだ。八田與一はこの師の影響を多量に受けた筈である。古市公威、広井勇、内村鑑三、いずれも幕末に生まれ明治期に活動した時代の典型といえる。八田與一はその末端にいた。】以上、朝日新聞社刊/司馬遼太郎氏「台湾紀行」より。