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夢幻         445のページtop 

【445(よし子)のページ】更新2014年10月17日 更新  第2部「母」「父」 著作日高よし子

    ようこそ! ごゆっくり ご覧下さい。
   詩歌集第三集第三集『夢幻』公開ページ『夢幻』公開ページ                         
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『夢幻』本の内容を当ホームページにて公開しています。下記目次からクリックして進んで下さい。
 尚、著作権は著作者に帰属します。 引用(作品名、著者名等を明記のこと)はご自由です。
詩歌集 第三集「夢幻」        
(個人発行・書店販売していない)
★著作・装幀・編集・発行・印刷・製本     
日高よし子
平成13年2月11日 発行
          ★ ★         
第1部  約束された人生 
第2部  「母」「父」  
第3部  「甥子」      
第4部  「夢幻歌」俳句・短歌
第5部  「♪マイメードソング
・歌詞楽譜」

          ★
全目次詳細ページへ
第1部(第2部)(第3部)
(第4部)(第5部)
<頁>  <題目> 
1 目 次(第1部)
2 詩歌集「夢幻」について              
3 第一部 約束された人生             
4 「愛」知りてこそ『或るときの・・』)         
5 十才頃幸福感(朗読へ)クリック
  美しき子供達よ        
6 子供の頃約束された人生            
7 とき                            
8 木の緑木の視線                  
9 変わらぬ大樹黒の色彩個性          
10 精魂郷愁 (朗読へ)虚脱感                
11 芸術とは?木魂
   あなたは愛
♪歌あり)          
12 木の精神性遥かな木宿命の形        
13 春の朧絵一体美醜                 
14 木のバランス性ザブーン(朗読へ)      
15 宝船音の第一歩まれびと
   太古と現在
    
16 生命の躍動胎動感               
17 美しい心ノクターン・                
   フニャーニスプリング                
18 四月に!・タウンテラ                 
19 バッハ無伴奏バイオリン 魂 
  ・ハーモニー            
20 1990年・スペイン                   
21 楽園シャコンヌアダージョ            
22 フーガ噴動♪歌あり) 
  ・春の息吹き             
  もっと光を・初めての演奏会            
23 その翌朝                         
24 一週間一ヵ月仰ぐ峰               
25 楽しみな期間ときめき去年             
26 ときめき夏二度目の演奏会            
27 与えられた光景の内側人間界の公式 
     
28 コンピュター2000年の幕開け         
29 地球は青かった                    
30 世界一美味しいレストラン(朗読)              
31 日本の道コンサート翌朝              
32 六月チャイコフスキーバイオリン協奏曲
   ・蟻の視界                       
33 (朗読new一粒の生命                   
34 天上絵辛夷花(語れ真の愛)           
35 美の波紋光の天使                 
36 雨が降る科学と芸術                
37 此処においで                  
                                       
第一部 「約束された人生」 了     戻る
p2                                       
   詩歌集☆第三集「夢幻」 
     第一部 『約束された人生』 
               
★                            
   『 「夢 幻」について
  本、詩歌集夢現第三集「夢幻」は自伝ではない。
 自伝を書く程偉業を成し遂げた分ではない。       
 又、自分史でもない。それを書く程、
 興味深い人生を送った分でもない。                                          
 はいくぎり 心象風景  ワンカット”       
                                           
   敢えて名付けるなら心象的記録書。                   
  日々の営みの中、自然界の、音楽の(クラッシック)、
 その心銘されたワンカット、ワンカットの積み重なったものが、
 本書である。                                                     
  現在在る私達は、その昔宇宙の中の塵の一粒一粒の、
 地球生成の為に選ばれた星々なのです。      
  二十世紀の始まりがライト兄弟が考案した飛行機なら、
 二十一世紀の始まりは、人工知能凌駕の
 ロボット化台頭ミレニアム。                                  
 「優れているもの」、仲々常人が成し得ないものだからであり、
 それが簡単に皆の手に得る様になれば、それは「ただのもの」。                            
 「優れているもの」が素晴らしいのではなく、それを得る為に
 経る過程、そして、それ故得られる達成感と言う「感動感」
 素晴らしく、「優れているもの」なのです。           

  一粒一粒の寄せ集めの人間、それこそ、その過程。        
  現在迄積み重ねた人間の叡智を傾ければ地球の延命も可能かと。 
 ■■しかし、ロボットが食べるものは「電気」だけですね■■   
 ■■オールラウンドな言葉「愛」■■                   
  その為に、それ故に、ただ一途に「地球」も成り立った。                     
 ■■その「愛」と言う感動感の喜びから受けた、
 心象的メッセージを綴った本書が、二十一世紀の人間の針路の、
 万分の1の磁石にでも成る事が出来ればと願いつつ編纂しました。                           
 『感動感!それは人類が勝ち取った 最高の栄光である。』
(『にゃこリン「夢現」シリーズペーパーマガジン』掲載文より) 

               ★                           
  p4 『或るときの…』                                                                    
   「或る時」の                                 
   蝶のような 風の 掌が                          
  蕾を 撫でると                           
   花 自らが 花弁を 解く ように                          
   「或る名画」が モノトーンの中より                    
  老若男女 表通りを歩く 人も                       
  路地裏の 人にも                                  
  それこそ ロイヤルシートに座る 人も                   
 「天上桟敷の人々」 にも                          
  等しく与えられた                                  
   「愛」という 珠玉の 色彩を                        
 浮かび 上がらせる ように………                        
   「或る音楽」が 私の心の                          
  魂だけを 取り上げて                           
  優しく 抱きしめる ように………                          
   たとえ 大洪水が                                
 全て 流し 去ろうと                            
  「重要」な ものは そっと                          
  残して 行く ように………                             
  「或る時」の 持続性を                         
  芸術に 感じます
────                             
(平成八年五月二十九日 記・「夢現」より)             

「愛」知りてこそ  愛を 語れり      

                ★    
p5 詩歌集「夢現」第三集 『夢 幻』              
 平成十二年十月編  日高よし子                          
 本「夢幻」第三集は、昨々年(平成十年)七月以降から、平成十二年十月迄に書き留めた『俳句、短歌、散文、詩、エッセー、作詞・曲、その他』集です。第一集「夢現」、第二集「夢弦」、そして第三集「夢幻」と、一年〜二年毎に、その足跡の結果として編纂する度に、前年とは違う自分を発見している。
  「子供は二度造られる」
 産まれた時の「身体」そのものと、両親の生き方という「環境」から。 第一集、第二集時には到達出来なかった「域」。一番否定したかった亡父との「瓦解」。それ故、人生は、歳ふむ事は、素晴らしい。
それは、自然、芸術から受けた感動感が作用し、私に及ぼした結果である。本編は、此れを基■に、第一集、第二集を総括して纏め上げたいと思う。
                *
 此の詩歌集全体の表題「夢現」は、私が十歳頃に発した人生への最初の「問い」、む なる うつつ と うつつ なる む と。

 覚める 夢 覚める 現実 それも 夢 
   宙に夢見た お河童の頃 ”


  あれは十才頃 
 その頃住んでいた家の 中二階の部屋で 寝転がって
 天井を見ながら 想った事……………     
  寝ている時に 夢を見る  起きてから その夢を想い返す
  ならば こうしている自分も 夢の中の自分で             
 目が覚めて これも 夢だと 思うかもしれない…………
 と、そんな事を 考えたりした。
 (夢の中が 現実で  現実が 夢 と)
 今から、四十年も前の事の、「その時」の                
「自分の事」を はっきり 思い出せる 不思議さ!

 色んな事を 経過して来て 少女の頃も 遥か彼方。   

 遠い「過去」の中で 十才位の時に そんな事を想った自分も
 不思議に 思うけれど 
 現在も 「その事を」 憶えている事を もっと―――想う。
            「夢現」より
             *
  それは、終わることの無い「夢」の連なり。
 天井を見詰めながら、今尚、問うている、所以からである。
「夢」という不可解なもの、だが、それにもきっと「道理」がある筈だ。
将来、科学者が「これ」にも公式を作るかもしれない。
 ただ「現在」いまより一番近い「過去」から、もっと遡った「過去」迄、
過ぎてしまえば「夢」。眠っていた時の「夢」と、何ら変わりが無い。
 寝ていた時の夢には、「明日」という続きがないだけ。「それだけ」。

    ──────── * ─────────   
P5 『幸 福 感』 (「夢現」より)(朗読あり)クリック

  夢器 おかわり何杯 満腹感? 

  蜘蛛さんも 夢を見るかなァ。    
 多分、産まれて 未だ日の経たない、体調が一ミリ程の蜘蛛の子供が、ベニヤ板の壁面を、登ろうとしていました。
が、少し登っては、滑って 落ちて、再度挑戦して、又、落っこちて、
今度は、その横の柱の方を登って、何とか、上って行きました。
 それは、一ミリの肉体の空腹を満たす為の「満腹」と言う「幸福」を
 求めている 必死な姿でした。
 大昔の、人間の先祖の姿を見る様な、虫達の身体分の「幸福感」 
   ───それだけで、良かった頃───  今日が終われば、もう昨日になる。 過ぎれば、昨日の積み重ね。
 ───眠っていて 夢を見る  良い夢でも 悪い夢でも
      目が覚めれば 過ぎてしまう─────      
  「現実に 楽しかった事」と 「夢で楽しかった事」の
   違いは 何?
 本当に 眠ってしまう時には 永遠に 覚めない夢の中──。   

  で、あの蜘蛛さん、降りる時 今度は 簡単に
  スルスル 降りて行きました。
 ──────────  *  ───────

P5  「美しき子供達よ
陽に引かれ 幼子おさなは走る 枝葉ごと  
                      
幼子は 美しき現在を 知らず 年きて 
  いま我 みる 美しきを
☆ 

 たまたま見かけた、2〜3才位の子供、手にある玩具と遊ぶ、その無心さ。花や小動物のように、何とあどけなく 可憐なことか。。
 それは、文明を幾ら積み重ねようとも、「自然」の様に、変わらぬもの。そんな、自然と一体化した幼子を見るに付け、その頃は分り様がなかった自分自身の「美しさ」と重なり、言いようもない「感動感」を覚えた。
 結局、人生とはそういうもので、今、歩いている向こう側に、
 ちゃんと道が用意されていたのでしょう。人生の結果としての。
 誰も、決して自分自身を観る事がない。
気品ある美しい人」も自分が、その様に美しい姿である事を、知らない。けれど、「美しさ」に感応し切った人だから「その姿」を、人に与えられるのだと思う。
 「美しき子供達」よ。人生を生きるという事は、美しさを捨てていき、
  そして、それを取り戻す、自分自身への帰還の旅です。
 願わくば、「世の子供たち」の 「二度造られる」過程の      
 安からん事を 祈って・・・・。

                ★
P6 『子供の頃』  (♪巻末に曲)

 子供の頃 雲は 綿菓子みたいに フワフワとしていて
 温かそうで 柔らかいと 思っていた 大人になって     
 それは 氷の粒の 集団だと 知った

 子供の頃 月の輪の中で 本当に  
 兎が お餅をついていると 思っていた 
 大人になって それは 岩石の 塊だと 知った

 子供の頃 離れた風船は 高く 昇って 行って
 いつか空の 国へ着くと 思っていた
 大人になって それは 息切れして 墜ちていくのだと 知った

 子供の頃 道は ただ一筋に どこまでも 真直ぐ 
 続いていて 心の侭と 思っていた
 大人になって 言葉に 二本の道が あることを 知った

 子供の頃  子供の頃  子供の頃
 (平成十一年七月十九日 創)
               ★

P6 【夢幻】
 第一部 《約束された人生》

 子供の頃、私はいつも精神的に「空腹」であったと思う。      
 それを当たり前として。                         
 肉体的には、と云えば、終戦一年後の生まれなので、現在ほど「豊」食ではなかったけれど、車の為ではない道路や、原っぱという豊かな空間の中、自在に身体を泳がせて遊んだ後の夕食は、「どんなものでも美味しい」という満腹感があった。その内には、家の隙間を仕事から帰った母が埋める「その時間ときだけ」の温もりが含まれていたのも確かである。              
   の胸 一言(弦)ごとの チェロ聴きて”

 { 少女の頃 
  吸い取り紙のように 雨を拭って行く 大地
  一粒 一粒の 言葉を  相槌を 打ちながら
  優しく飲み込んでくれる  「母」のよう
  明ければ 朝が 夜の 母が  忙しく 俎に走らせる
  包丁の音の その途切れ目から 
  見え 立ち昇る 夕餉の湯気の
  ホッとする 温かさのよう─────

   母は いつも 隅っこにしか 居なかったけど
   でも「救い」でした。────── 「夢弦」より}

 ────── *  ─────
 私が七歳の頃、二番目の妹(昭和五十八年死亡)が産まれたが、その前後二週間程、母に代わって私たちの世話をして呉れた、少し年配のおばさんの事。普段構ってもらった事が無いだけに、学校から帰ればその人が居て何かと、心配りをしてくれる。おやつの、ぼた餅の美味しかった事!
  “今はもう 顔も忘れし 人の味 
    丸き
 ぼた餅 美味しさ 悲しさ”


               ★
P7  『と き』
 目には見えない、透明な空気を注ぐと出来上がる「ボール」と共に、
私は、此の世に「生」を、与えられました。子供の頃、それに気付かない侭、何時も、ボールと一緒に、大きな空の下で遊んで、動いている時も、小さな家の中で、眠むって、動かずにいる時も、一緒に、大きく成りた。が、一度悲しい時、産後の母の為、手伝いに来ていた、おばさんと(他人)との別れ。悲しい時に、ボールだけが、先へ進んでしまった事がありました。その時に、初めて「ボール」の存在を知りました。     戻らない「時」と云うものを。                          でも又、直ぐにボールに追い付いて、前に、前に、一緒に転がって行きました。何時からか、「ボール」も膨らまなくなり、いつか萎んでしまった。 そして「私」が、先へ 先へ進む。動いていようが、止まっていようが寝ていようが、おかまいなし。が、たまに、「私」が停ま│時が│る。 美しいものに触れた『刻」└──┘クラッシック音楽を聴いている空間にそれを 感じる。「与えられた刻」―――自然との融和―――空気と細胞の。 
  でも、それも束の間、 又、「私」は 先へ 先へと
  私を 置いてけぼりにして、進化してゆく。  (「夢現」より)                        *             
 それは、今迄に食べた事のない、プラス、アルファの含まれた「大好きなその人の味」だった。別れの日、誰にも見えない所で、泣いたっけ・・・・・。人間不信―――その芽生えがあったとしたら、その時かも。  その別れの日、雨が降っていたらしい。傘をそのおばさんに貸して上げたそうな。「返しに来はらへんねん」母と父の会話。
「返しに来ると、言いはったのに」。その時に、はっきり、私は、あのおばさんが嫌いになった。早過ぎる、人生経験の第一歩でした。

 人は「約束」と云う 言葉に何を、イメージするだろう。        
其処には、人間が介在する。約束は破られるもの、という慨念となった、この事柄を先ず思い浮べる、私の「貧しさ」。この事は、後の私の人生の、人間関係の希薄さに、無意識的に帰結したように思える。
                 *
 人間は、先天的なものより、後天的なもの───環境───が、人を造る。将来の「夢」と云う、自分自身との「約束」を交わせなかった、家庭環境。

 “現実に 定める夢の 架け橋を 懸けず人生 虚空の軌跡”

 後年、私は友人との待ち合わせの約束を「気が変って」時々スッポかした。私がいつも、甥子達に(私の直ぐ下の亡妹<平成五年死亡〉の子供)に云う言葉、「出来ない約束はするな」「守る為に約束はある」。
 善、悪、世の中の決まり、というものを、大人は子供に教えるべきである。その習慣を、身体に浸透させければ―――「子供であった時」がある「大人」として、そう思う。
 生まれ来て、人が歩ける道は一つしかないけれど、もう一度歩ける道がある。それは、食べ損なった食物を、いつ迄も空白の侭だった器に一つ一つ埋めて飾って行く様な。

 甥子の部屋の窓のカーテンレールには、一杯てるてる坊主が掛かっている。
 “甥子は「てるてる坊主 お天気に───
  照り返る空  夢見て眠る”

 少女の頃、私は作ったかな、と思う位、記憶に滞まっていない。
だから「てるてる坊主」に夢を託せる約束を、甥子達と交わし、私も少女になって「約束」を守った。東京ディズニーランド、白浜サファリパーク、明石海峡大橋、海水浴、遊園地、他、等。――そして、参観日。

 来れぬ母  知りて探した 参観日 ”

“「白浜」へ 真向いざして 甥子と我 
      来る来る未来 往く過去ばかり”


 振り返る人生に、人は、どれだけの「約束」した数の花束を、持っているだろう。心の礎というべき、人と、人の信頼関係という交流の束を担って、増やしていく事が、その人の懐の深さに、成っていくものと思う。
 多種多様な「幸福感」があるけれど、それは、その個人の器にしか、入らないものである。私は、その器を持ち合わせていない、と思っていたが、平成九年の夏、前橋汀子さんのバイオリンの、衝撃的な音色との出会いにより、精神の陶酔感と「満腹感」。地球の命脈と連動する、生命の躍動感を識った。 究極の「幸福感」。

 “弦が斬る 一刀両断 分水嶺”

 “不意打ちの 感動に 戸惑えり 
   以前より 深き 高き 幸


 “感動の 器の素地は 悲しみが 
   彫りて 深き 芸術を容れ”


 “悲しみが 或る日突然 襲うよに 
   喜びにも 又 見舞うる心”


 まるで、私という地球に彗星がぶつかって、軌道修正され、自身を「ディスカバリー」した様な。そして、向井千秋さんが再度(平成十年)飛び立った宇宙に思いを馳せる今、「蟻」の視点ではない「宇宙的」な視野から、全て「約束された人生」であったと、思えるのである。 (了)
 以上は、昨々年(平成十年)十一月、テーマ「約束」のエッセーに応募 投稿文に、少し加筆した。

 “我 投稿 「約束された人生」も 入賞だけは 約束されず”                            
────────────* ─────────
P8  “木の「緑」  わかく背景  いま全景”

 「約束された人生」の其の道筋は、一葉の「言の葉」が、
指し示していた。

──それは、不思議な予言の様に 一葉の木の葉 ────  

 「色は、何色が好き?」 
若い頃、友人の問いに、見回す廻りに添う色が無く、強いて挙げたのが、──木の「緑色」という、言(こと)の葉────

 現在から三十年余前、車の免許を取った時に最初に買った車が、「緑色」。十三、四年前乗っていた軽四も、若草の「緑色」。
 どちらも、知人から推められ、格安なので購入した中古車。
 十年程、勤務した会社の社名にも、思えば「緑───」が、付いていた。
 そして、緑葉育む、木の霊が棲むバイオリンの、その音色の最高峰の、夢弦に行き着いて、それだからこそ、初めて「生」の喜びを得られ、
夢現第一集、第二集の言の葉の「葉実」となった。

 クラッシック音楽の感動という「母」から生まれた、
もう一つの生命の発露」。一粒、一粒の「真珠の言葉」
 しかし、前橋汀子さんの音楽に出会わなかったら、こういう形の「結晶体」には、成り得なかった

 現在も、人間を潤している多彩な色彩の数々も、原点は、自然の中の、その色を擬似しているのであって、普段忘れているけれども、見える形としての自然の恩恵そのものの中で、生きているのである。
 (その擬似出来る、人智────或る面、それは素晴らしい。
この音楽の感動は、伝達手段の現代の通信及び、受信機器技術なるものを否定しては、語れない。そして、人間にこの「感動」を与える為に、各、天才にその「任務」を負わせたのでは、と考えてしまうのである。)
 いつの場合も、芸術家が点す感動の燈明は、原点を、指し示めしている。
 何気なく言った、「緑色」────私の体内のものが、云わせたのか、それ共、そう言った事で、其の「精」が、私の細胞に潜り込んだのか、究明できる筈もないが、その色が折りにふれ、降って来た。
──その最高の色が、平成10年6月26日のコンサートの、
 ───彼女の「グリーンのドレス」

  木に惹かれ、木のバイオリンの音色に魅せられ 
  それは、不思議な予言のように
  「一葉の 緑色」。

“木の化身 濡る緑なる 衣裳着て
 バイオリニスト オーラに 現わる” 
                      
                (「夢弦」より)  
 ──────── * ──────────
P8   『木の視線』
   何時だったか
  私は、ふと 其の 視線に 気が付いた
いや それは 「私」ではないものが 引き付けられたのかも知れない

 信号停の 車の運転席から 右手側の その方向を見ると 
 真さに  “色どりを  脱いだ彩り 冬木立”       
 が、其処に 凛然と 墨絵の様に 浮かんでいた 
「その刻」に 初めて 色彩を持たないものの 美しさに 見惚れた
  それ迄にも そんな 冬の樹木を 見て来たであろうに
  何故「現在いま」 そんな風に 此の上ない 極彩として
  出現したのだろうか? 
 それは、まるで 天からの 巻き物が 降って来た様な
 今迄に 見たことも無い 描写の絵の 様だった

  若しかしたら 見惚れていたのは もはや 「私」では無い
  その木立と同じ様に 一衣も纏わぬ わたし かも 知れなかった─

   あれは、平成八年九月に亡くなった、生前の実弟の           
入院先へ向かう、道程での事。    (「夢弦」より)


P9  『変わらぬ大樹』

 “太陽の 瞬き 遮断 別天地 木陰おれば 根元に いこう”   
  それは、梅雨雲を何処かに、押しやった 太陽が燦ざめく 
 平成9年7月5日(土)の、甥子の小学校の 校庭での事。
 その日、私は校庭解放の当番で 其処に居た。             

 そして 太陽を避ける為 その大樹の 木陰に抱かれた。
 太陽が描いた、大樹の木陰に 憩い 瞼を閉じていると       
 葉音だけが 沙羅めいて 其の周辺を 織り成す 
木陰の部分だけが切り取られ 何百年、何千年 昔に 
タイムスリップした様な体感を 覚えた。

  全開の 太陽と  全界の 地平線に 息遣く 大地
  碧空に 寄り添う 白い雲
  そして 風を 手招く 「大樹」

 陽と雨の 暑と寒の 傘であり続けた 神木 
 時代は移り 文明は巡ろうとも 
  変わらず 滅びないもの 

 「涼感」という 時間ときの 時空を超えた 一体感──
瞼を開けると 何千年も 昔の 私が 現在に 還ってきた様な
 ───まさしく「実在感」───── (夢現より)
   ───────── * ─────────   
その三日後だった。(平成九年七月八日)その音楽に出会ったのは、

 “魂の 悲哀 号泣 気高き 響き 充弦なり 刻のみつど”

“きし迄は 産まれ持ちたる 「時の海」 
  呑まれ 流され 編みて 際立ち”


“一つの 方向性を 弦前に 節目 節目の            
    感動あり 今日(橋)”

“『月の「月」 世に天才は 満つれども 
  前橋汀子 天才の「天」”

              ★

P9   『黒の色彩』
                          (「夢現」より)
  その中に佇んでいる。
 例えば、空────限りない水色の空に、浸っている。
  或いは、ブルーの海。 若しくは、風に翻めく若葉。
 音楽で云えば、魂を震わせる、透明なバイオリンの音色──
 それが基調(ベース)────
が、「その中」に、未だ、奥があったのだ。  
 それは、「肉感的な魂の響き」とでも、表現したらいいだろうか?
 「肉体」をもつ魂など、在り得いと思っていたが、
 そうとしか言い様のない音楽が在る。
そのベースの、もっと深層には、「暗黒(くろ)」がある。
 そして、赤は、直ぐに紫色に封じ込まれ、他の色彩も絡まり
乍ら、「その人の色彩」を奏で、人を、圧倒する。
 「暗黒」が「色彩」を知ってしまった、嘆き───
「暗黒」に還らねばならない…………。
 今は、夏だけれど、冬空の下で、あの冬木立と共に聴けば、「哀切感」極まって、涙が溢れるかも知れない…………。
               ★
P9    『個 性』

 素材(曲)を、超えた個性。「人間」を超えた、唸りの音色。
 煌めく五月の陽の、新しき生命への、溢れる眼差しに、
 風と和ろむ、若葉!  でも、直ぐに、倦怠の夏が過ぎ…。
 命の終りの、予感の秋に、最後の血潮が滴る…………
 そして、さまざまな想いの葉が、それぞれに、散って行く……

 “ 息の根が……落葉の絨毯 秋 終焉 ”

 それは、肉体を失くした、死んだ人間の「魂」が、裸で晒されている様な、悲痛と、哀切感に打ち震え乍ら、次の生命の為、ひと呼吸、ひと呼吸に その冷気を、浴んでいる……。
 その呻きが、木魂が、冬木立から見え、聴こえて来る。
 それは、死んでしまったものが、「此方を見ている」
 「死者の奏でる音楽」。
   その音楽に、出会えました。─────
  (以上 平成九年七月記)

               ★
P10    『 精 魂 』

 芸術家の「精魂」には、数知れぬ「無体」の魂が、吸い寄せられ、それが、「有体」の魂に、木魂となって共鳴し、人間を「魂の郷愁の頃」に、誘って行く。──────
そして、 もうひとつの「精魂」を観た。

 (平成十二年)三月、NHKで放映された、『「妻と私」その後』、「妻を書く男達」を見たが、乳癌で亡くなった、「妻」の思い出を、本に纏め上げている「夫」を通して、紹介された遺された
日記、彫刻等から、生存中のその「想い」が、窮迫してくる。
 乳癌を宣告されてから、彫り始めたと云う、彫刻の数々。
勿論、若い頃に、その下地を積んでいたから、あれだけの物を造れるのだろうが、あの自画像と思える、裸体像の滑らかな
稜線。
 何故?、「不条理」なものへの不安と、哀しさの、デスマスク(お面)。 又、右乳房喪失像には、脱ぐ、その服で、目蔽しされた「眼」、「見たくない」、「見て欲しくない」と、訴えているかの様────死と向かい合った人間の魂の、成せる業──
その「死」と云うもの自体に、「深さ」を感じないではいられない──既に、「魂」だけとなったもの達の応援の、「合作」と云える様な、その像は、テレビの画面を破いて、現わに肉迫して来る。
 「芸術」と云うものは、かくも凄絶なものであると云う事を、
改めて、認識する。
 「死」と云うものと対峙する緊張感の中でこそ、作品は、芸術となる。
その窮迫の時に、泣いて、産まれて来る、赤子となる
その表現が、「芸術」として、人に感銘を与える。

 此の先、根源的に、人は「芸術」を捨て切れないと、思う。
それ自体、「生命」そのものだと、思えるから…………
  昔、平均寿命が、五十才で、現代、八十才程と伸びても、  芸術と云う文化 は、現存している様に…………
   ふーっと、魂の「郷愁」の、海をみるだろう──

 それにしても、故江藤淳さんが呼び寄せた様に、「妻と私」以降、その種の本を書く人が増えたそうだが、見知らぬ町の片隅に、あんなに素晴らしい才能を持ち合わせた人がいたとは…………                  
  現在も未だ、その映「像」の余韻が、消え去らない──。
     (平成十二年三月十五日)


            ★
P10    『郷 愁』 (朗読へ)

  充分な 青い空  でも もっと もっと  
    碧い空が─────         
    見たことは ないけれど────     

  充分な 青い海  でも もっと もっと  
    透明な 深海が─────      
    見たことは 無い けれど────     

    し っ て い る    
          

             ★
P10     『虚 脱 感』
                      (「夢現」より)
 その音色を、聴いた後の、此の虚脱感は何だろう?
まるで、深海の魚が、もっと深く、もっと碧い域に潜り込み、
そこから出た後は、いつもの青さも虚ろで、ああ、もう一度あの深さへと、希う様な……。
 若い頃なら、理想の人に寄せる、片時も、頭から離れない
思慕の想いに、似ているだろうか………逢って、別れた後の、その想いにも…………。
 その人は、「音色」でしか知らない。けれど、その音楽を奏でる人の、音楽への限りない慈しみが、一ミクロンの細やかな息遣いとなって、人の心の細部に、その情感を烙印し、魂にくい込んで、身動きさせない。
 その人の、生きて来た人生の深さ────
その人だけの人生の味────勿論、その練磨の日々────結局、それが「音楽」の結晶となって、聴くものを魅了してしまうのだろう。
 しかし、もっと早く、出会いたかった、とも、知らなければ良かった、と思うことさえある。           
 (平成九年七月二十五日 記)

               ★
P10   芸術とは?

  “伝書鳩 磁力に 呼ばれる ノスタルジー”

 今年も、朝顔の「伏し目の憂い美」が、夏の片隅を彩っています。「去年と同じ花」を、「去年と同じ私」が見つめています。
辿れば、そう、ずっと「同じ花」であり「同じ私」なのです。
 細胞という、遺伝子の連なりの「もの」の、「私」は或る意味で到達点。
 一本の永い数珠のような「命」を、逆流すれば還る「うみ」へ、「水」、 「細胞」の 一粒へ。「水」から生まれ、偶然、という必然から、「人間」という形になった。進化という過程で得た、「二本足」で立つ機能。
 それは、心と肉体のバランスを、保つ為。
一つの片寄った見方、聞き方をしない為の、
二つの「目」と「耳」。
一つの、「方向」と、高い「志」を持つための「鼻」。
一つの、真実を語る為の「口」。
───形には 全て 意味がある───  

 生命の連続性を保つ為、動物全てが本能として持っている「食欲」と「肉欲」。そして、人間は、進化の過程で人間性に覚醒め、「魂」の存在を識る。
 それは、「人間」に成った時に、根座したものなのか?。
精神性の果てに見える、その存在。限り無く求めているもの─── 「人間」に生まれた事の「幸福」とは?
この精神性を極め、その「喜び」を、体感出来る事。
 全細胞が、満場一致で双手を挙げて、一ヶ所に集ってくる様な───それは、今迄の遺伝子達(死んで逝った者達)が、集って、憩って居る様な──「感動する心」
  どうして、美しいものに 感動するの?
それは、生まれた頃の記憶に還って行くから?
 そして、自然界との共生感に、人間は辿り着く。
私の「存在」が、「無意味で無かった」という 共生感にも。
 芸術、芸術家が伝導している本質そのものが、「魂」であり、自然界の聲であり、自然界のメッセージで、あろう
 前橋汀子さんという、一人のバイオリニストの音色から得た、魂の陶酔感の起因性と、帰着性の道筋。
 真さに、芸術家なり!。


           ★
P11   (夢現より)
 ♪ (こだま)』(「スラブ舞曲」に寄せて)

 何時か 見たやら あの水色  
 ハーモニー奏でる 海と空
 何を 見たやら あの海の果て
 一隻の舟が ただ過ぎて行く
 産まれる前の 母なる海の 
 寄せ引く波は 呼吸の息
  いつか聴いた 潮の合唱  あの音色が
 今 此の部屋に 岸へ 抛り上げられる 舟の様に 
  人は 生まれ 出でたか

 何時か 見たやら あの空の色
 暮れ切る 間際の 藍色の空      
 何を見たやら あの空の果て
 流れる雲が 呑み込まれて行く
 産まれる前の 青い碧い その 
 空の青さが 恋しくて  
 太古むかしへ 連なる 水の記憶  あの音色が
 今 此の部屋  塵に 土に 混みれようと
 仰ぐ空の  碧さに 溶けて行く

 何時か見たやら あの樹の海
 陽と風が紡ぐ 若草の色
 何を見たやら 樹々の歴史
 年輪刻む 深い孤独
 産まれる前の 沙羅めく葉音
 現在いまも変わらぬ 生命の礎 
  死のある生を 四季に織り あの音色が
 今 此の部屋に 数え切れぬ程に 
 生まれ 落ちた命 木魂となって 響く
  木魂となって 響く   
   (夢現・創詞曲より)
            ★
p11あなたは愛歌 へのリンク(作詞曲歌演奏 日高よし子)前橋汀子のベートーベン
「バイオリンソナタ」に寄せて)

 ああ 何んて 懐かしいんだろう 風の様に 透明で
 自由で 伸びやかで 優美で  
 木の様に 真直ぐで 気高くて 
  何んて 切なくて 哀しくて 厳しくて 激しくて 
  でも どうして こんなに 幸福なんだろう 
 そんな 音色を 紡ぐ あなたは 何ものですか?

  身体の 一部に バイオリンを 具備していて     
  身体が 唱っている様な すすり泣いて いる様な        慟哭している様な

  あなたは 何ものですか?

 何んて 全てを 溶かすんだろう  
 心と身体 朝と夜 未来と過去 天と地の ように
 嵐の様に 全て 奪い去って 
  それでも 何んて 幸福なんだろう 

  此処は 地上か 無上か
 懐かしいあなた 「あなたは 愛」 だったのですね
  (夢現・創詞曲より)


             ★
P12  『木の精神性

 道を極めた人────土にズッシリ根を張り巡らせる樹の様に、そして、そこから、変わらぬ、又、変えられぬ自己決定の
意志を、幹から、か細い枝の先々迄、(あんなに、繊細なのに、引力の重圧にも、風圧にも屈せず)凛然と聳え立つ。
 それは、まるで「或る人が」心の根の芯を重心にして、歩み、歩んだ一筋の道の道標を、天に見たなら、一本の木に成るが如くに。
…………
 天の啓示の様な、冬の、落葉樹の清々しさに、私の体内の、地殻変動後の 清々しさが、重なる。
 地球の歴史に 及ぶべくも無い、人類になる為の人間への過程。─────私達、遥か彼方には、その人間になろうとした長年に至る、人類先祖の苦節の歴史がある。その、生物の圧力に屈しない要素こそ、樹木の精神性を、その遺伝子に宿す、要因となったと言える。 
 「或る人」が、一筋の道を極める。そして、その音楽に、人は惹かれて行く。又、人が、真直ぐなものに、憧れる。それは、木の、精神性──人類になろうとした発端の、人間の神秘の遺伝子を、現在の私達が、見出だしているのかも知れない。   
  一方、他の「木」は、地球をも、超えた。
この現代の、高度な文明────限りなくロボット化して行くであろう人間の涯てには、もう一度、人類のその前の段階迄、降りて行ってしまう様な、気がしてならない。何故なら、その「木」は折れる迄、伸びるしか無いだろうから …………。   ただ、その中で、人間が、人間たる所以の、精神性に目覚めたなら、人間は何処に向かって生きているのか、何を求めて生きて来たか、と言う、人間たる所以の、答えに辿り着くであろう。
 或る芸術家に根付いた、その「木」の根元に、現在いまの私は、在る。

  ──────  * ─────────

P12  ♪ 『遥かな木・オブジェ
              (「夢弦」創詩曲より)

  地下道の 階段を上がる  白昼の 道を歩いて行く
  コツ コツ コツ  突然 足音が 消える        

    その中に 足を 踏み入れていた          
    実在する 黒の中に 真実の中に          

    冬の それ自体 一日中 オブジェの様な         
    葉を捨てた 冬木の 群れの中に             

   真直ぐな 木の体から 張り巡らした        
   明確な 意志を 形に 絞り出した聲の          
     繊細な 言葉の様な 枝先                

   ずーっと 変わらず ずーっと こうして        
   ずーっと 此処に  あるんだと…………        
   私の中の 遥かな木…………             

   葉を 羽織っている時には 感じない        
   その中を 歩いていると 安らぎ 和み          
   ホッとした 気持ちに なるのは 何故?         
    それも 木の心 木の言葉               
    人の 温もりを 待っていたの?            
    私の中の 遥かな木…………             

 散り損なった 枯葉が 目の前の 空間を 破いて行く   
 コツ コツ コツ  突然 足音が 還る         

 薄暮 私は 元来た道を 地下道の 階段を 
 降りて行く コツ コツ コツ コツ・・・・・・・・・
 (平成10年1月27日 創)

p12    「宿命の形」              
 それは 好むと 好まざるとに 拘らず その宿命の形で───

  人間は 鳥を見て 空を飛びたいか             
  でも 鳥は 地を 歩きたいと 思っている          
  魚の様に 海の中を 自由に泳ぎたいか           
  でも 魚は 草原に 寝転んで 見たいだろう         
 極端な 対比で 無くても                
  例えば 樹 ─────冬の 落葉樹と 常緑樹        
 冬の いつも 曇天の 空の様に 無表情な         
 精気の 萎えた 常緑樹の葉───
 思い切りの悪い人間の様に  
 或いは 若さを 知らなかったかの様な     
 空虚ろな 眼差しの 如くに──────           

  その横に 滝に打たれた 後の 仙人の様に         
 清々しく 全てを 落とし 流した 落葉樹─────     
 冬空に 背筋を ピンと張り 魂を 息遣かせている      
  その 命の ダイナミズムと 感性の極意の 姿にこそ    
  共感を 覚える────                   
 ──常緑樹と 落葉樹───        
  
  それとて 「宿命の形」で                 
                     (「夢弦」より) 
 ────────────────────

p13  春の朧絵(おぼろえ)』  (「夢弦」より)

    “春の芽(目)の 朧気(木)緑 未だ 墨絵”

 芽ざめた樹々の、初々しい恥じらいの言葉に エコーが掛々った様な
落葉樹の 木肌色に 淡い 淡いグリーンを忍ばせた
美しい 墨絵の様な────春の朧絵────遠い夢の中の「目触感」
 そちらの方へ 一歩 足を踏み出す
───「美しい幻想」を きっと 破く為に───            
 でも「きっと」では無いかも知れないと云う 想像力に 引っ張られて
  或る地点で 気が付いた  私は 下へ 下へ 下りていた
 歩くたび その道は 下へ 下へ 下っていく様だ
 「あの樹」は消え はっきり 木の芽の 芽吹きが 見え
 樹液の 還流の音を  頂度 側を流れる              
   淀川の流れに 聴いた…………。
      早春────太間公園。
 ────────────────
 p13  『一 体っつい』 朗読                   
 背中に感じる 息流                      
人間の 体内を 巡る 酸素を供給する 樹               
その 人間の 排出ガスを 「酸素」とする 樹              
これで 「一体」  人間の 「背 と 腹」             
生きもの 皆は 地球の中の 「樹の一部分」              
 人間が 在なくても 樹は 生きられる                
でも 樹が 無ければ 人間は?                  
 ──────────────
p13    
                  (平成12年8月15日)
 人間だけが持っている、多彩な色彩感覚。犬の視覚は「モノクロ」であると言う。その代わり嗅覚は、人間の比でないが。蝶々は、「赤外線」の眼で蜜を見分ける事が出来る。各生きものは、その「素材」の内に、生命を全うして行く。人間に与えられた、その視覚の美観は、「美醜」を持った。
 風ひとつそよがない「風景画」の様に静止した、風景の美しさ。
それは、おどろ荒れ狂った嵐の後にもたらされた、人間の精神の平安の「風景画」。その風景画に収まる、色彩のある、静止した植物の「美」しさ。 古来から、生きて行くというのは、いつも、一つの選択でしかなかっただろうから、選択外だったものは「醜」、言いかえれば「悪」。色彩のない、又、「敵」にも成り得る「動」物は「醜」と判別した?
 但し、色彩を持つ、飛泳、海泳動物は、例外だった?
 その感を強くしたのは、先日テレビで見た────あの丹頂鶴の舞い姿。

 “魂の 歓喜の姿態 大雪原 丹頂鶴の しなやかな舞”


 愛の交歓後、数羽の丹頂鶴がひと群れとなって、おもいおもいに舞う姿、「振り付け」は皆違うのに、それが声のハーモニーの様に、雪の舞台と溶け合って、此の上なく美しい────気高さと、しなやかな姿態───どんなバレリーナも、あの丹頂鶴には、適わない。
 きっと、人間は、適わないものを「美」、「善」として受容して来たのでしょう。
 しかし、やはりテレビで見た動物であるけれど、「静物」と言いたくなる様な「ナマケモノ」。猿類かと思わせるその姿と動き、だが、動くのは「珠」。
  “源流の 木の尖端で 「ナマケモノ」
        木の眼の様に ただ 宙空のみを”
 川の源流の樹の尖端で、一日の二十時間を、木が眼を持っている如く、ただ空だけを見て生きている。一日の食事量も樹の葉三枚のみ。動かないのは、 エネルギーを消耗させない為とか。母を慕う子供の様に、ずっと木に掴まって、まるで、その樹の意志から生まれた様な、生き物。
  “空(くう)を くう 「ナマケモノ」は 哲学者”
 何の為に?じっとする為にだけ生まれて来た?だけ?
「悲しみ」も、故に「喜び」も、拒絶して─────生まれて来た事自体が、罪の様な。
  “地をみずに ただ空ばかり 「ナマケモノ」
        悲しみ 喜び 一切 拒否して”

 それは、地球の表情の様に見える。その顔、目を見ていると、樹の声が聴こえてきそう「生まれる前の、宇宙空間が恋しい」と。
 生き物の率直な「生き方」────それこそ真理。生き物は、地球の言葉。 「美」「醜」を見分ける「眼」を与えられた人間。
「それが人間だ」と、地球の聲が聴こえてきそう。


p14   『木のバランス性』朗読
               (平成11年7月26日)
    (地球の上)                                  
 私は 地面に 立っている  
   「私」は 左側に 倒れそうだ    
   遂に 右足 最初の一歩を 踏み出した。
   「木」の 出来損いの 「人間」だ

   「私」は 地面に 寝そべる
  左手が 地中に 引っ張られる─────木の「」に
  右手が 宇宙に 引っ張られる─────木の「」に

   立っていても 寝そべっていても 
   木の バランス性を 感じる

   [重力と 浮力] [引力と 膨張] [作用と 反作用]
   「木」には 「宇宙」の メッセージがある。

────────── *  ─────────
p14    ザブーン(朗読へ)
             (平成十一年七月二六日)
 「ザブーン、ザブーン」
  遠い、遠い昔、現在と変わらぬ波音が、波音に重なる。
 けれど、その海と空の色は、現在では、想像もつかない、絵の具や、   
 クレヨンにその名残りを見付ける、紺碧────

  春一番の風が、海から陸へ、水平に、滑るように流れて来ました。
「今年こそ!」。離れた処から、毎年、真っ新らの塩気を含んだ、松風の香りの「松」に憧れた、「もう一方の松」は、遂に、肝はらをくくりました。
 「あそこへ、行くんだ!」
 すると、不思議な事に、本当に、不思議な事に、その「松」が、木の足を、一歩「右」から 踏み出しました。一歩、二歩、右足、左足を、前へ、前へと進んで行きます。
 遂に、その「松」の前へ、辿り着きました。
「何て存在感だろう、どっしりと、そして、一直線に空に伸びて」
 挨拶の積りで、無意識に「右手」を差し出しました。が「何しに来たの?」見落ろされた侭、そう云われた様な気がしました。
 そして、気付きました。あの、大好きな塩の香を含んだ、松風の匂いを感じないことに…………
 もう一度、元の、あの場所へ帰って見ました。が、風は、もう、通り過ぎてしまっていました。「その松」は、もう植物でなくなった、その松は、陸を、もっと陸を、進んで行きました。
 「又、一年後に、元の、あの場所へ還って来よう」「甘やかな、あの香りに又、出会う為に」────進まずに、元の場所に、留まるべきだった「その為」なら…………距離を保って、寡黙な侭「高さ」をこそ、目指すべきだった。  

 そして、「似非(えせ)の香り」に惑わされ、益々、遠ざかって行く…………「現在」から、其処へ還ろうと思えば、風がよこしてくれる、魔法の宇宙船にでも乗らない限り、とてもじゃないけど「生きている間」には、無理な事。  「ザブーン」「ザブーン」
 「美しさ」への感動────木の側に、佇めば、樹を見つめれば、その聲を聴く事が出来れば、見出だす、思い出す………
  根元の「美」
 ──「愛」から「人間は、生まれた」──。

 ──────── *  ─────  
p14    『  船 』

 “彼女の人と 「時代」の海に 同乗わ
     宝船なり 航
路実感”

 見渡せば、涯しなく広がる海の様な、「時」の波の中で、彼女と言う芸術家と同じ「時代の船」に乗り合えた事は、世紀末と言われる、此の時代の渦の泡に呑み込まれ、溺れそうになる人間の「魂」の、先導的な防波堤と成っただけでなく、此の空気さえも、其の年、ヘールポップ彗星に巡り会った様に、稀有な空気と感じられ、此の時代に生まれ、生きている事さえ、喜ばしく思えるのである。それは、平面的に言えば、地球と言う生命体にも、極北の氷だけの地帯、又、極暑の砂漠の「死」だけが、埋くまっている地帯がある中で、四季折々の、花鳥風水に恵まれた風土に、「俳句」と言う文化を根付かせ、其の脈々とした底流の中に息遣いている、地球上稀な「日本」に生まれた、日本人である事の喜びに、通ずる想いである。

  【俳句詠む 紙の 砂漠に うみ 川が】 

  そして、地球上の其の位置の、現在の「日本」に生きる私達が、此の丸い巻紙を解いて、長い、その年譜を辿る歴史上の位置付けをする時に、此の今の、日本の文明の繁栄が辿った、其の足跡渦中の何処かの部分と合致する国を、TV等で観た時に、貧しい国ながら、堪らない郷愁を、覚える。
 地球上恵まれた風土を持つ「日本」には、「日本人」の誇り高い特質があった筈。「意気」、その、貫く意志を以て、「気」と言う風の流れを造ってきた。地球上の砂漠、或いは、極寒の地から見た「日本」の位置。
 歴史上から見る、日本の現在。そういう視点を持って見れば、自分の内部に持っていれば、此の現在の「刻」とも融和し、此の空気の中に、喜びを見出だす事が出来るのである。


              ★
p15   『音の第一歩 』
 「知」の先祖の言葉の「音」────人が、一番最初に耳に触れるのは、誕生の時の自身の泣き聲。どの子も、産まれ出づると言う事は、哀しいだけと言わんばかりに、今、尚、哭き続けている。
 喜怒哀楽───端的な、表現作用として、発せられたであろう、聲、声、そして、「音」────それは、真っ暗闇から、頭を覗かせた一筋の、面映い光への驚嘆の、一撃!
 或いは、光を吸い取って行く、太陽への、慟哭の連打!
 そして、再光への「祈り」としての、───「音」───それは、「言葉」としての、第一聲かも、知れなかった。…………
 何時だったか、昇る太陽の荘厳さに、ちっぽけな自分を思い知らされた様な…………。
               ☆
p15 (朝のイメージ) 
    太古むかしと現在いま            
  角を 折れると いきなり                
 太陽が 産ぶ声を 上げて 真視界に 飛び込んで来た     
 円の 輪郭から 発せられる 荘厳な 光の 塊       
 そうだ 全て これだったのだ!             
  初まりも そして  終りも!              
 (何という 人間の ちっぽけさ)            
  太陽が 伸びて行く 其の道の 角を 折れると  又     
  「影」に 入った                      
   「ふと 想う…………」              
 太古の人が 全視界に 太陽を仰ぎ            
 「朝」「昼」「夜」を 測り  大自然の          
  愛の中で 生きていた頃を                

人間の 叡智の宿命が築き上げた 現代に在る 私達      
 「人類の進化」と 「自然の退化」             

 そして 人は 何を 持ち 得たか?            
一分一秒の 時間との 闘い?
  心の翳り?        
 
                                  
「太古むかし」と「現在いま」と  生きる喜びは?        
                        (「夢現」より)  
              ☆
 想像を絶する程に、空は、碧く 青く、雲は、白く、しろく、樹木は、広々とした空間に、ゆったりと 澄んだ空気の中、其の葉の緑を、深く、息遣かせて…………。
 「感動」と言う言葉を識らなくとも、きっと、身体に食い込む様な「美」感を得た。その「域」へ────人間の第一歩─────
  (動物と、動物たる人間の、分岐点)

               ★
p15     『まれびと
 日の出の、生まれるものの喜びと、日の入りの、去って逝くものの哀しみとしての、人間の表現であった、「音の起源」(それは又、心の起源)が、主観だけだった、表現から、客観を伴った音楽としての形式─────誰かの言葉では無いが、文明の最高の花─────クラッシック音楽(精神性の極致の音楽)────それが、前橋汀子さんの音楽。何枚かに亘る楽譜があろうと、それは、いつも、最初の第一ページから──音楽も又、知性の積み重ねの如く、何枚も綴られているが、その第一ページを飛ばしていない音楽、第一ページが感じられる、技術の粋(技術に加味された「音の起源」が時空を超えて、地が天に訴える様な、唸りの音楽)の、音楽にこそ、人は感動を覚えるのであろう。
 そして、積む修練は、勿論として、そこに、演奏者の教養────その、作曲者の意図を辿る為の作業───それを感じさせる音楽─それら全てを兼ね備えた、
「まれびと」の音楽に巡り会えた、私も又、稀人であった。


              
p16  ♪まれびと(稀人)』♪  (「夢弦」創詞曲)    

 まれびと なる 言葉ありて                      
 ひととせ(一年)に一度  幸もち来る人と
  我に その人は 来し 
  羽根鳥 海泳の如  地虫 空泳の如
  地の噴動と  天の清澄と
  天地溶心の 響きなり
  我に その人は きぬ 
  一生に一度の 幸もちて                     
  ♪真さに まれびと なりて
   まれびと なりて  
 ♪

               ★
p16  『生命の躍動リズム
 
     “「春」なりて 感動の 山々 波々 と”
 土中の温みに、今、目覚めた様な虫達の、ゴソゴソと 落ち着かない気配。
 生まれたばかりの、子魚の、海面を飛び跳ねる音。       梢から 初めて 飛び立つ、小鳥の 羽根の音。
──それ等は、皆んな、ずっーと 歩いて来て、遠くの何処かの道に、置き忘れたものかも知れない歩かなくなった道───
其の、遠い記憶を、呼び戻してくれる、音楽。              
てんてん 手毬の ゴム毬そのものような、少女の頃── 
  あのリズム、リズム感 ───  打てば響く鐘の様に 暮れる事のない空の下 ゴム毬の押せば返す 大地の浪──大地の息吹き──その手毬は、 大地の浪の侭 転がる。

 毎年、春になれば、桜の開花前線に乗って、聴く雀達の、張びやかな、誤魔化しの無い、喜びに充ちた唄声。(哀しい時も、同じ様に唄うのだろうか?) その音楽には、その連続性 ────停止していない、今の生命の、轟き(生命の躍動感)───例えば、南方の雀から発せられた、春を告げる歌声が、順に連鎖して、連続線上(春伝線と言う、一本の途切れる事の無い 線上)に、波打っている様な。
 その年の(平成十年)の、雀達の唄声は、スタッカートの様な、生命の刻みの力強さが、感じられた。(そう言えば、その前年の秋の、鈴虫や、コオロギの鳴き聲が、今迄、耳にした同じ虫の音と思えない程に、何と胸に沁み入る、澄んだ音色であろうと、気付いた事を思い出す。)
 あの音楽の、音色の根源の一部を、「あの道」に、見付けました
              ★
p16   胎動

 私は、子供を宿す縁(えにし)を持たなかったので、胎動なるものは解せぬが、その人との音楽を聴いて受ける「地球の胎動感」、確かな地球の、今の激しい鼓動を共有する事が出来る。
 それは、冬の終わりの月が沈み、春の曙が、空を真っ新な暁の色に、 染め上げる頃─────
  地中の虫達の 騒めき感
  舞台の奈落の底から 出番を待つ 花の緊張感
  初めて 光を見た 若葉の 瞳の 輝き!
  蛹から 頭を覗かせた 揚羽蝶 
  蜜の雨と ランデブーする 紫陽花の花
  雨と ハミングする 大地の歌 ───

  それが どんな「愛」であれ
  それを 知れば 地球が 理解出来ます
 その時 人の心は 何を感じますか?
 その心を例える時に 此の自然界と「一体」となって
誰もが 詩人に 成る事でしょう
 「愛」は 何を 教えているのでしょう?  (夢弦より)
  ────── *  ────── 

p16前橋汀子のドビッシ
          バイオリンソナタ』
に寄せて 

 揺らめく灯 甘美な想い出   渦巻く 疾風
 押し寄せる 烏の 大群の 黒夜
 押し返す 凍火の 白夜

 揺らめく灯 仄かな命   墜ちてくる 空                
 逃げて行く 水  悲惨という 赤い河

 僅かな 空間から 壁を 押し退けて
 立ち上がる 人

 揺らめく ………   一筋の 希望 
  ──次世代────


p17   美しい心

   美しい心を持っていますか?と 問われて
  それを 自分で どう 答えられるでしょう
    ただ 私は
  美しいものが好き!  美しい自然が好き!
  美しい朝の 序曲の 「美しい夕暮れ」が好き!
   舞扇の 様な 冬の 落葉樹が好き!
  厳冬下の 夜明け 
  その樹木と 一級品の風が 奏でる 
  美しい音楽が 好き!
   と、ただ 答えられるだけです。

 美しいもの、余りに、美しい音楽を 聴いていると   
 果たして、与えられている この美しさに、       
 自分は、値するだろうか?      


               ★
p17   『ノクターン』 (ショパン)

  “「雨だれ」の  五線譜の 跡  「ノクターン」”

 そのバイオリンの、弦から沁み落ちた、一滴の露は、此の部屋を、
此の町を 越えて、砂浜を、そして、海まで、一面、哀色に染めて行きます。
 ─────悲哀と、真正面に対峙している音色。─────
 何か、見てはいけないものを、見た様な…………
 その音楽を聴く時は、或る種の勇気が、必要です。          

   “此の現(弦)の 哀色 全部 「ノクターン」”

              ★
p17 フニャーニの スタイル』(クライスラー)

  “ 境界に 幻(弦)なる 螢 「雪国」火 ”

 何処をどう降りて行けば、どう昇り詰めれば、あの「音色」の正体を掴む事 が出来るだろうか?
  哀し過ぎる、美し過ぎる、バイオリンの音色。
 雪を溶かせる 火の様な 火を黙らせる 雪の様な
 雪の中の 火と 火の中の 雪の葛藤────
  底知れぬ 音色の 哭響
 それを 想えば  何と 甘っちょろい 人生────
 雪も 知らず………  火も 知らず……… 

「芸術的な、余りに芸術的な」、音楽を聴いていると、ただの傍観者である観客と、その「演奏者」の、「温」度差に、歴然としてしまう。 何故か、川端康成の 「雪国」が、だぶった………。

暗い海 白い舟  暗い空 白い三日月    
舟跡 涙の雫……三日月から 涙の星……  
夜の 深さに 三日月は 口を大きく 開ける 
満月は 「夜」 の 月            

                ★
p17  『スプリング』 
(前橋汀子のベートーベン バイオリンソナタに寄せて) 

  何処からか せせらぎ 跳ねる 水の音             
  あれは 峰の 何処かの 雪解け水の 音               
  一本の水 縫う 水車の音                       
 
  凍えた体に 駆け出す 血液の様に                  
  静止画の絵に 太陽が 昇る様に                 
 
   何処からか ひんやり 温かい 風の音             
  地底の熱の 膨張を 釣り上げる 浮力が               
  ガードで 固めた 天の 冷気の  堰を 放く 引力と なり    
  
   地球の 初めての 春のような                 
  冴え冴え と 潔々しい  高嶺な 頂きの   
  「春」の 味わい……………           「夢弦」より      


              ★
p18  『四月に!』         「夢弦」より

    それにしても 四月の この 陽気さよ!
   桜は 着実に 開き切った 傍ら
   こそばゆ気に 若草色の 乳葉を
   リボンの様に 枝先に 結んだ 木
   生まれたての 新芽が 落っこちないように
   母に しがみ付いている 木

    颯爽と 車を 走らせれば
   あの 扇形 帚型の 落葉樹も
   うっすら 淡草色に 彩づいて
   紛れもない 春 旬たけなわの  生命が
   揺らめいているのでした

   此の 四月の 町を 歩けば
  夏の予感の様な 日差しの中
  風は スキップ しながら  草笛を 奏で
  真っ新な 生命の 息吹きの 鼓動を
  刻み 始めている

  口元が ほころぶ様に  木々の 新芽が
  羞かし気に ほころんでいる
  生命が ほころぶ 様だ!

 冬の幕が 降りた 後の 「生命の 目覚め」の
  春の 歓びを 体感する
  そして 気付く これら 全てが
  「あの音楽」を 聴いて 感ずるのと
  同一で ある事に。…………

“「亜麻色の 髪の乙女(音目)」は 春  雨の           
 日は 汲み上げる  ひと芽(目) ふた(二)芽と”


             ★
p18  『タウンテラ』

“哭きじゃくる 弾きじゃくる 弦 「タウンテラ」”

 昇る太陽の その 丸い侭 映える 初草の 円の中          
 何処で 見た事のある 赤ん坊が 座っています
 
 「ガラガラ」の 音  「ペチャクチャ」 おしゃぶりの 音        
 積み木とも 分からずに 放り投げる 
 
「ゴッツーン」 嬉しい音?  悲しい音?
太鼓の 未だ ドーン ドーン には ならない 
「トン トン」 
突然 あの 太陽が欲しい!と 言い出して  
泣きじゃくる 音
  
「オギャア オギャア」 
オギャアの音が 遠ざかる程 
太鼓の音は 濁音を増して─────
 「ドン ドン ドドーン ドーン」 
                     「夢弦」より
  ─────── *  ───────
p18バッハ無伴奏バイオリンソナタ
        「  」 

“無伴奏バイオリンソナタは
 かのバッハ 前橋汀子においていきし ”
  

 “涙露つゆを みる 魂の純潔さ 高潔さ”

 此処の空間には それがある  決して侵されない 聖域
 全てを 超越した世界 透明な 硝子の様な 氷に覆われ
 光 輝いている 哀しい迄の 何という 美しさ!
  透明な それ自体 「魂」かも知れない
  「涙の露」が 其処へ 吸い寄せられ
  舞い上がって行く  そして
  天上で 溶け合う──無伴奏──
  「魂の 解放の 瞬間」

 “「無伴奏」 難々解々 原典を 
    綴
ひも解く 人と 弾き徳 人と” 

 バッハの曲と言うだけで、誰もがその「境界」内で弾いてしまいそうな中、彼女のこの「無伴奏」は、深い洞察力で、自身の人生を転嫁させた様に、 全体章を構成している。
 ソナタ第一番の第一楽章の「アダージョ」、人間の生まれた宿命を弾き落ろす、第一弦!。人間の「業」を、その透徹した精神を持ってしても、難行苦行の山を、一弦一弦、弾き解く様に越えて行く、彼女の嘆きと、祈りが、私達をも引き摺って行く。そして、ソナタ第二番及び、パルチータ三番の、天上の域へ、誘って行く。聖典の、音符一音一音を翻訳し、弦で見事に表現し得た彼女こそ、詩神と言える。まるで、バッハが前橋汀子さんの為に作曲した様な、又、彼女はバッハを演奏する為に在った様な───技巧的な難解さを感じさせない、滑らかな流麗さ───身体の重力が失せて、浮力だけになり、鳥の様にフワーッと天上
に招き上げられた様な………。

“「無伴奏」 今日から 無色の 静寂なり 
   天上の流麗 鳳凰の星 ”


 其処には、無色でただ煌めく星座の群れが──呼び寄せるのは、五百年間不死の星座「鳳凰座」───【砂漠の、不死鳥伝説の鳥、此の世に一羽しか存在しない、金色と朱紫色の羽根に飾られた、例え様のない美しさ!
 死が訪れる時は、自ら香木を積み、火を点けた後中に飛び込んで終命し、次の瞬間、その灰の中から甦り、再び空高く舞い上る。】ナツメ社「星座」より──空想が生んだ、伝説の星座──
 でも、人間の頭で描ける事も、それも地球と言うか、「可能性の形」。
其処に何を見るかは──それこそ、個人差。
 「鳳凰座」の中の、バッハの前で、直律不動で弾いている、前橋汀子さんを見る様な、聴く度に素晴らしい「無伴奏」。

 “ 魂に 酸素 巡りて 「無伴奏」 ”

 魂をはっきり識(み)るだろう! 魂の息遣い! 震き! 歓喜! その実在を! 私のこの感嘆符を全て書いて行けば、何処迄連なる事だろう! この、バッハと、前橋汀子さんの「ハーモニー」に依ってこそ、成し得た「天上界」の具現!
 バッハと、前橋汀子さんの素晴らしさに、星の瞬きに負けない位の喝采を!

 “「無伴奏」 無色  空色 殉教者”

 “重力と 浮力の 狭間 「無伴奏」”

“聖道に 仏音 伽藍 冬木立 
  「無伴奏」とも 我
  一体感”

“「無伴奏」 入口 出口 水平線 
   此の世の 光 集いて 眩し”


             ★
p19  『ハーモニー』         

 “充ち澄みて 冬の蛍火 「無伴奏」
   二乗の魂 高らみ むげん ”   
                                  
 人生を生きる、生きて来たと言う事は、何れは過去を見詰めると言う事、 其れは、各自の過ぎた風景に他ならず、それしか、見付け得ないもの。昨日があって、今日、明日と続く、永遠の中で、生と死の、その境目だけで、全て終わるだろうか?                      地球から生まれた私達───その昔、仏法の、輪廻転生の思想は、どのようにして生まれたか?現代に生きる私達には、地球が回っている事は、科学が証明しているが、……。人間の、表現出来る、している事は、それ自体が全て可能な事だからこそ──在り得る事──でも、知らない世界の事だから、そうではないかも知れない。         でも、又、そうであるかも、知れないのだ。                 仏法も、キリスト教も学んだ分けではないが、それを、人間が記し、描き得た事にこそ、「意味」を憶する。                      人間の興味をそそられるもの、「好きなもの」、この中にこそ「真実」を見る。それこそ、地球の「」だから─── そして、その涯に何を見るかは、その「結果」。 私の涯にあった、この前橋汀子さんの「シャコンヌ」。この風景を識った事は、生きている時だからこそ、意味がある。 ずーっと先に、彼方から振り返った時にも、きっと、見る事の出来るものだから…………。                             何百年前から、現在を見た場合──今の此の世界を想像し得たであろうか? その時代、時代が産んだ天才と言う光が、光を生んで、スポットライトとなって、指し示す一筋の道、文明然り…………       同じように、私達は、何百年後を想像し得るだろうか?         例えば、「魂」=死後の世界の領域に迄、人智は及ぶのだろうか?  それ共、「魂」と言う言葉は死語になっているか。              人間社会を営む上で、必要な「決まり」という、時代によって変わる、常識社会で生きていく中で、何が信じられて「真実」かと言えば、自分の心の動静だけ──その時代と言う枠の中で、それでも、魚は生きている。    
 私は、求道者でも、ましてや宗教家でもないので、特別に神を崇めるとか、(宗派は浄土真宗)そういう事はないけれど、それこそ、自分の心に逆らわず生きた中で、その仏典の、聖典のほんの一部分に触れたと思える時がある。 

 スぺイン          ☆               スぺイン
p20  『1990スペイン9年前
ポッケリーニの「ギター五重奏曲」に寄せて                  
  (平成11年1月21日)

 “彼のスペイン フラメンコダンサー 目に熱し       
    「ギター五重奏曲」 現在いま 耳 熱し”     
                                
 {  カーン カーン                    
 ガウディの 槌の音と フラメンコの 蹄の響き 
 彼方 9年前より 近付きぬ                
 此のポッケリーニの 「ギター五重奏曲」 聴けば      
 眠れる生命の 涌き起きて  万感の 共鳴音        
  時空を 溶かさん 
  }                 

 情熱の国────と云われる、スペイン。          
 実際に見た事はないが、闘牛士の持つ「赤い布」。       
 その色に突進する「牛」。                  
 
 最後の海外旅行となった、9年前の正月、当地スペインのグラナダで観た「フラメンコ」の踊りは、その闘牛の牛さながらに、ダンサーのタップの足さばきは、赤い地面に身体を放遂させた様に響き渡り、真さに、「スペイン」と云う国の、血源を見た様な気がした。過去に、侵略覇者と云う歴史を持つ「スペイン」。 赤い色の侭に突き進んだ。 ───           
 いつ果てるともない「時」の谺の様に、永遠の時空に向かって、現在も刻まれているであろう、バルセロナの「ガウディ」の槌音。
それは、現地の人の、永遠の祈りの「鎮魂歌」の様にも聴こえる。

 「ガウディ」の囲りを、フラメンコダンサーが、
 輪を描いて踊っている。
                   

 ─突然の「栄光」と「没落」・「生」と「死」─ 
  
  「カーン」 「カーン」 「タッタッタタッー」       
  「光」と「翳」 、 「動」と「静」              
  スペイン人の「国民性」を、今、改めて思う。          
スぺイン             ★            スぺイン

 1989年から発売されている、この「無伴奏」に、その頃でなく1997年、巡り合ったと言う事に、何か両極の対比 ────当時は、仕事上では、バブル全盛期、自分自身にとっても、その頂きに(あくまで、自分自身にとっての)近い位置を感じたことのある時期であった。
 それで得た物は、此の世で生きて行く上で必要な、「将来」の為の、物質的満足感────老後と言う、将来の不安に対する、安定感(そして、早すぎるけれど「現在」がある)──。私は、何時も、幸福でも、不幸でも無かったけれど、けれども、今思う、あの頃は何と不幸だったのだろう と。 孤独癖があるけれど、もっと孤独で、仕事と言う鎧を被って、自分自身を偽り、虚構の中に身を置いていただけ───それが、物質的豊かさ、と言うものだった。心の中には、何も無かった(比例して失ったもの……) 

 「全てに、時あり」──聖書の一文と思うが、以前読んだ本の中で印象に残った言葉。 若し、そのバブルの頃に、前橋汀子さんの音色、そして、このバッハを聴く機会があったとしても、きっと、通り過ぎてしまったであろう。道に未ず、クラッシック音楽と言う芸術の入り口にさえ、居なかったのだから。育った環境からして、クラッシックには全く縁の無い、四〜五年前から我流で始めたエレクトーンが、FM放送を聴く動機となり…………
 今迄、何事にも決して溺れることは無く、自分を解放した事が無い分、その音楽によって、堰が外され、進むべき、還るべき海に向かって、ドーッと溢れ出る川の如き「生命」の解放感───そんな川があった、だなんて───その感動という喜びが新鮮で、仕事を辞めて以後、クラッシック音楽に出会ったこの時期程、充ち足りた時間はなかった。

 「生命体の地球」としての、要素として、先ず太陽が必然だった。
地球それ自体だけからは、「生命」の「愛」も、存在し得なかった。地球と太陽の「ハーモニー」、生きものの生命の継続行為も、「ハーモニー」で成り立っている。文明のエネルギーの命も、電極の「ハーモニー」から。
 「ハーモニー」として交えるには、太陽の光が多過ぎても、少な過ぎても、近過ぎても、遠過ぎても、生命は、生じず……。
 魂の「ハーモニー」は? 此の、バッハと前橋汀子さんの「ハーモニー」に依って成し得た──魂の歓喜──「天上界の具現」!
 時代が生み出す「天才」──事物を開化させる者もあれば、魂を開花させるものも………。
 そして、「その時代」の「その時」に噛み合う歯車の様に、呼び合う電極の様に、「その時」に呼応し合うものとの共鳴感に、自分を放れて飛び立つ「魂」。
 私であって、最早、「私」でないような………。
そして、改めて認識し得た事─── 一人で「愛」は生まれない、と。
 それに、合致出来る「自分自身であった事」が、
 「その時」の産物であると…………。

 ──「生きる」に「時」あり、「聴く」に「時」あり。───                         (「夢弦」より)


                ★
p21               

 きっと 其処は やはり 野原だっただろう      
歩いているというより 風に運ばれる様に  
それでも 確かに 一歩ずつ 進んでいたのだろう        
 
 目的地が あった分でもない  ただ 気が付くと
処々 花が 咲き初め 道案内人の様な 蝶の後に従い
其の道を 歩いていた よく見ると その 空間の中は
何時も 柔らかな 日差しと 花々と 蝶に溢れ
 楽園だった…………         

  そうだ 私は 死に掛けていた
──それは肉体が───
  そして 到達して 本当に 死んでしまった       
──目を閉じ 息をせずに───        
  
  「魂」だけが 活きている               

──其処は確かに天上界だった
───生き還る瞬間───

──前橋汀子さんの「無伴奏・シャコンヌ」を     
   聴いている「刻」────
                   〔以上 (「夢弦」より〕

                ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
p21 『シャコンヌ』              
 
一斉に 鳥が 飛び立つ   
一斉に 星が 流れる

 それは 光の 合図だろうか?                    
それが 呼び水となって                         
海から 空へ 雨が 噴き上がる              

回っている 「地球」故に 掴み処のない「天」
若し、一つの「天」と 「地」が あるとしたら             
この、私の 魂 という  小さな 宇宙の中              

 「シャコンヌ」の 光 の 中                    
歓喜の 杯(露)を  飲み干そう!                   

    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

p21 『パルチータ第三番「アダージョ」』                                                   
それは 雲の 揺り篭の中?               
風に あやされ 引かれて 心地よく 漂っている

 或いは  海の 吐息の中?                     
その海の中に 吸い寄せられ                       
深く 深く 還ってゆく                  
              ☆
p22   『パルチータ
・第三番「フーガ」』                                               
 ピンクや 黄色の 野花達の 無造作に 咲き匂う
 原っぱの中 ──じゃんけん ぽん あいこで しょ──    
  ワァ 勝った! 両手を挙げて 屈託の無い             
  少女の 満面の声   「身体全部が喜び」の             
  無邪気な頃────                   


p22 ♪『  歌 へのリンク              

1.富士の山に 憑かれた人が いるのならば
  音楽に 魅せられた 人が 居ても良い筈
その 魂の 感動の 噴灰を 
これからも 積んでゆけば

 やがて 富士の山に なるかもしれない

2.真っしぐらに 海へ還る 川があるなら 
   溢れる泉が 川を創って いい筈
その 魂の 感動の 噴水が
これからも 噴き上げれば

 やがて 湖に なるかも 知れない

3.地球体の 遺伝子を 持っているのならば
  鉄の塊の 赤い エネルギーが ある筈
その 魂の 感動の 噴動を
これからも 繰り返せば

 元の 地球に 戻るかも 知れない  (夢弦・創詞曲より)
 ♪                             ♪
 “生きものは 一つの遺伝子 地球「体」
   感動は 地球の 喜び”   


─────────*────────  
 p22 春の息吹き

 『世を暗い と 嘆く人よ! 
目を 転ずれば 点じて 転ずる』


 灰色の コンクリートの 地面だけを見て 歩いていた人も
 町を歩けば 春の風に その 重い頭を 持ち上げられ  
 木々の 真っ新な 光の 芽と 目が合う

 ああ なんと 喜びに 生命に 充ちている事か!
目の前に 足元に それがあるのに
そして 「あの音楽」にも
春の只中の 息吹きが 溢れています。

────────☆──────────────
 p22  『もっと を!』

 ゲーテの臨終の際の、有名な言葉、「もっと 光を!」。
此の世の、全ゆるものに目を向ける事で、詩が生まれ、それを読む人の心に、その「光」の芽が点り、芸術に触れる程に、光の輪は大きくなり、やがては「夜」さえも「光の朝」に──
─── 「永遠の時間とき」にも…………
 私にとって、書物にも、光を、蓄積されたが、今、こうして、それを身を以って理解するのは、例え、歩く道に、虚しさの影を見ようと、その影を後方へ追い払ってしまう、その音楽の「光の海」にあるからであり、世の人々にも、もっと、この「光」を識ってもらいたいと、思う。
 この事から、私は、ゲーテの、その言葉を、「宗教」の伝導心なるものを、理解する。
                   (以上「夢弦」より) 

 ────────*─────────
 p22  『演奏会』

  “クラッシック 演奏会は 夢とおき                       
  部屋の隅々 感動 いきて”


       ☆☆☆☆☆☆☆☆☆       
1998年6月26日『初めてのコンサート』          

平成10年6月26日 午後7時 於 シンフォニーホール
 「前橋汀子とイタリアの名手達」 開演        

───彼女は現れた。
此方に向かって、いや、木の舞台の定位置に向かって、
パールの如き、グリーンのドレスをたゆらせ、ゆったり、大らかに──

 ★木の化身 濡る緑なる 衣装着て                
   バイオリニスト オーラに現わる      

 ★彼女
の人は 「人間」の姿で  現われり            
                                  
 ★何度でも 心は眼に 訴えり                  
    あれが かの人 「前橋汀子」       
                                  
 夢に迄見た、そのコンサート、「夢」は眠っている時のもの──
「時」を掴めたら………と想った。   
 が、彼女のその、バイオリンの音色────CD等で耳慣れた、その音色と、現前の音色が合致して、胸は轟き、夢が、彼女が「現実」のものとなった。
 ☆弓は 地を掬い 木に 風 巻き薫ゆる

 動のバイオリニスト───そういう姿を、今迄一度も見た事が無い。
クラッシックコンサートに自主的に行ったのは、今回が初めてで、テレビで観る、どのソリストにもない、この姿にして、この音楽あり!と、納得させられる程に、感動的であった。
 木が、地中から手を伸ばして、我が身を削りながら、慈しみ、弾いている如くに、又、ある時は、いつ息を遣くのだろうかと、思わせる程に、一心不乱に、小手先でなく、身体毎、弓で地を掬い、風を巻き込み、その姿は凛然と美しく、音色は木魂の唸りの如く響き、六月の湿った、物憂気な空気も、このシンフォニーホールだけは、別世界に、逡巡してくれました。

 ☆コンサート 喚流 巡る 森の一員

 それは、「引力」「放力」───バイオリンを持つ手と、弓を持つ手
が交差したその部分は、嵐の先陣の、台風の目の如く、或いは、地球の基軸の如く───その引かれるけれど、寄せ付けない、近寄り難い、集中姿──例え、雨が降ろうが、槍が降ろうが、一旦、弾きだしたら終わる迄、止めないのではないかと思わせる──その引きを切らぬ集中姿は──地球の引力──その生誕の時の、限り無く吸い寄せられ、一気に駆けてくる星塵達──核に向かって──そして、纏めながら、大気と言うガードを造って行った地球──その「引力」と「放力」を持つ、人間の小地球(地球の海流の如き、体内を巡る、生命の血流)を見るようだ。
 人間誰しも持っている一面─── 一つの事に熱中している時の「美しさ」───それは、その精神と肉体が、混じりっ気の無い「一つのもの」と成っている時の、放美。
 その「気」を積む鍛練───「気流」を呼び込むべく、それは、人間の体内の血流と、地球の命脈とが、さながら、連動する如──の成果。
 故に、風の様にも、花の様にも、蝶の様にも、嵐の様にも、噴煙上げる火山の様にも……地球そのものの具現者たる、芸術極意は、その荘厳な姿にこそ──難問を解いた様に、コンサート鑑賞の充足感に、浸ったのでした。      
 ★神々しき  ヴィオロン弾く  その姿             
                                  
 ★そんな風に  夢は突然  溶解す               
                                  
 コンサート終了後、楽屋口で、前年の「夢現」と、第二集「夢幻」を手渡し、サインも貰った。見て貰えれば嬉しいし、そうでなくとも、それは、問題ではない。供給するものと、供給されたものの、それは「結果のもの」だから……。目の真ん前で、そして、二言、三言、話も出来たのに……
「夢を忘れて」いた……。そんな風に、忘れて行く………
 でも、直かに触れた、彼女の「素顔の印象」は──全てのものを拒まない不思議な雰囲気を持った人。──人間に宿る、芸術と言う表現に必要な本質──それは、地球上のものが、其処に集いたくなる様な、風も、小鳥も、花も……それ等のものを、味方に出来る包容力を漂わせた、やはり、「その音楽」と、合致した人だった。
  ほんの、一瞬の、私の「直感」です。

★「もののけ」に  シシ神は きぬ あの「木魂」         
                      (以上 夢弦より) 
                ★             
 その 翌朝 ────今日しかない朝
 シンフォニーホールの、昨夜の大きな波が、今朝も未だ、それでも、穏やかく、さざなっています。
 六月の、気脱るさと、そのさざ波がミックスされ、心地よい充足感となり、今朝の私をくるんで呉れます。
 確かに昨夜、風が鼓舞して、物憂気な大阪の空気を、一巡して行って呉れました。───私は、昨夜、ちゃんと、風を見送りましたよ。──


                ★
p24 あれから一週間 『金字塔』

 “杯満つり 「ローエングリーン」は 失いし        
    無限の距離の 星舞い来たりて”

  私は、山頂で 待っていた            
  あの何億光年 彼方の 天空の星を          
   ただ その輝きに 魅せられて           
  ずーっと 諦めという 無限の中で          
  それは 或る意味で 永遠だった          
   幻を 見た                   
 あの星が 直ぐ其処に 真前に 緑色の輝きを     
 躍動の 生命を 放っていた             
  遠さ その侭を 近くに見ている と 云う位     
  輝きは 一致した。                 
   幻は 消えた                  

 でも、昨日と明日が すっぽり重なる日々の中で     
 あの 幻の一夜は 別世界の             
 其処だけ 切り取った絵のように 燦然と輝く     
 私の心の 金字塔と 成った            
  私は 山頂を 降りるだろう           
 私は 登り切って しまった もう 降りるしか無い 
  今も 天空の輝きは 彼処にあるけれど        

 変わらず あるだろう───。      
       (平成十年七月三日・記)夢弦より
  ────── *  ──────
p24  二ヶ月目

 “コンサートの曲 聴想す 感動真前  正真 照明(正銘)”

 コンサート会場で買った、演奏曲「二つバイオリン」「四季」のCD。

 “夏 還る 三年ぶりの 『四季の「春」』ビバルディ ”

 平成七年の夏、N響の────
 “真夏午後 部屋中に満ち 『四季の「春」』
    風も うっとり 葉に 戻る”


 FM放送から流れた、この『四季の「春」』は、私にクラッシック音楽の感動の花を、最初に咲かせた「春」だった。
 でも、翌年、本当の春が巡った頃には、花芯も枯れてしまって………
しかし、現在(いま)、又、彼女の手の中で、ピチピチ跳ねる様に、春、夏、秋、冬の各季節が、それぞれ、自己主張するかの様に、息遣いている。 絶える事の無い、命の、地球の波の様に………

 “四季の「四季」 波 追い駆けて 又 波の
      生命はしりて 巡り 巡りて”
───────── *  ─────────   
 “五線譜の  一線上を 弦が 引(弾)く”         
 “波は引(弾)く 「美しき夕暮れ」 緞帳を”        
 “あの弦は  骨身に沁み入る  削り来か”

 “甥子は 「ポケモン」ばかり  我「汀子」ばかり”
 “直感動  弦 研ぎ練りて  全能曲”

 “彼女かのひとは 作曲者の衣裳 弦に着て
   「熱演女優」 詩神の魂”   
 
  ★★★ ★★★  ★★★  ★★★★
 p24 『仰ぐ峰』 (春の生駒山)
             (平成9年7月8日 記)
 それは 山だけではないかも 知れない
登山家ではないので、登山の事でなく
  一般に、例えば 生駒山
 見上げれば 高い山  
 遠くから 見れば 形 輪郭も くっ切りと

 その山に 登ろうと 車を走らせる
だが その山の道を 走っているのに 
その山だと言う 実感が無い

 その山の中に 入った時 下には居ないから
 その山は 見えない ただの道を 走っている様なもの
 高さに在ると 思うけれど 
 「その山」の 頂上に居ると 思えない

  そして 下って行く  
 その山から 遠くへ 離れて 行くほど 
 あ、「あの山」を 見付ける

 でも「その山」へ 登ったとは
 やはり 思えない。

                     (「夢現」より)


 p25 『楽しみな 期間

 ──平成1129日付、夕刊紙上───
 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
 ♪ コンサートガイド欄                   
 ♪♪ 「フィンランド放送交響楽団&前橋汀子バイオリン演奏会」 
     平成11年6月12日  PM6時30分         
    於:シンフォニーホール           
  ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
 が、目に留まった。

 日、時は違うけれど、去年と同じ六月に、やはり、シンフォニーホールで催される様だ。 昨年も、この時期に、この様に新聞に載っていたのだろうか?私が去年、それを目にしたのは六月二十六日の、二週間前だった。 あの時、その文字が、嬉喜とした矢となって、私の眼に飛び込んできた。
そして、間髪を入れずに、その勢いの侭、直ぐプレイガイドに電話して、座席券の予約をし、明朝、最寄りのコンビニにて、代金と引き換えにチケットを 手中にした。天にも昇る想いで───                

 “コンサート ホップ ステップ ジャンプ 天 に てん”

 “コンサート 魔法の絨毯 チケットは
    日 迫る程 心 浮き浮き”


 その日迄、たった二週間の夢の膨らみ」、その期間は、夢に浸る間もなくただ一心に、詩歌集第一集「夢現」以降、メモっていた津々浦々迄の、その感動の記録を纏めるべくの日々だった。
 その、第二集「夢弦」は、コンサート当日午後まで掛かって、やっと、仕上がった。
 そして、コンサートへ。終了後、彼女に、それを手渡した。
(このコンサートの事、その印象は『「夢弦」追記編』に、纏め直したが)
 去年に、「今年(こ)の期間」が欲しかった。
それは、去年でなければ、得られないものだ──人生を、ある程度生き
て来ると、その期間こそが、一番心ときめく、素晴らしい時間であると云う事を、識っているから──── 
 そして、それはいつも「最初」の「前」でなければ───
叶う前の、それが「夢」だから──。

 「夢現」の「あとがき」に書いた、ザ・ピーナッツを初めて観た、高校一年の時の、あの感激。昨年は、その三十六年前を、又、生きている様に思えた。(心は、未だ初心な、ティーン・エイジャーと自賛して)
 最初が、二度目、三度目になったところで、あの感激性は一度切り
勿論、出たレコードは全部揃えた。が、昭和五十四年、それ迄、住んでいた家を引っ越す時、LPレコード二枚以外、全部捨ててしまった。
 だから、昨々年(平成九年)前橋汀子さんのCDを買う時も、結局そうなるのが分かっているから、躊躇した。が、FM放送で聴いた、感動感の方が、それを払拭してしまった。
 その成果は? 詩歌集「夢現」「夢弦」に、結実した。
そして、この第三集にも?
 
  “ときめきは 去年の夏に 使い切り”
 ────────────────────
 p25  ときめき・去年”          
                  (平成十一年二月九日)      
去年の初夏 海底を捏ねた 怒涛のように 舞い上がる         
波汐吹きの 海の皿を 拡げて                     
初めての白鳥の到来 を 待迎しました。              

 今年の夏に、その白鳥が 同じ海に 再来する事を           
  この冬の 穏やかな 波間に 聴きました。             
 見上げる星々は、あんなに煌めいて その中で             
 一段と明るい あの 緑色の星は                    
今も 変わらず 燦然と 輝き続けています。               
天空で………………。                   


 p26 ときめき・(去年) 夏』  (巻末に曲)

1.眠って しまった 時間を 揺り起こさなくては
  あの ときめきを 取り戻す為に
  叩いて 抓って 引っ張たいて
  何が 何でも 起こさなくては
  あの 落葉に  埋もれて しまったものを

2.眠って しまった 時間は 揺り起こさないで
  あの ときめきを 壊さぬ様に
  手品の 種明かしは 見せないで
  玉手箱は 開けないで
  あの 浦島太郎には 成りたくない

3.眠って しまった 時間を 揺り起こさなくては
  あの ときめきを 思い出す為に
  本の 結末は 知りたくない
  人の 心も知りたくない
 それは 終わりの 始まり だから 
          (平成十一年二月九日)
                ♪

              ★
p26 『あれから一年二度目の コンサート
───199912────

 “「急行」に 乗りて 心も 「シンフォニーホール」”

 福島駅に降り立つ。
約一年振り、去年と同じ六月、同じ道を、同じ場所へ、同じ目的の為に、歩いて行く。去年と違って、持ち傘不要の、梅雨晴れの空の下を。
 ただ、性格に測り得れば、若干、歩幅が小さくなったかも、知れない─。
 片手には、その去年と同じ人に渡す為、私が創曲した楽譜        
 「FOR VIOLIN」等を、しっかり携えて。 
 若し、夢に続きがあるとしたら、それは、去年六月二十六日と、    
 今年六月十二日が、繋がり得るという事。…………

  シンフォニーホールが、姿を現した。
フィンランド放送交響楽団     
バイオリン 前橋汀子  演奏会

 「段差」を避けようとした為か着いたのは、始まる6時30分の、10分前
だった。当日券(キャンセル分でもあったのか、それでも一番前列の、舞台に向かって、左から五番目の席が取れた。)を買って、その侭ホールへ、 程なく、開演。
 まず、最初は、ユッカ・ベッカ指揮によるフィンランド放送交響楽団の、ワーグナー楽劇「パルジファル」前奏曲が、幕開けの演奏曲だった。
 最前列に座ったお陰で、超特大の音量に吃驚「しまった」事をした、と思ったほど。──耳が、そのボリュームに、馴れた頃。
 同楽団と協奏で、前橋汀子さんのバイオリンが加わって、チャイコフスキー「バイオリン協奏曲」───
 “ききと来る 弾み深々 お辞儀する
    少女の如き バイオリニスト”


 今年は、淡黄色のドレスで、でも、内容は去年と変わらず、素晴らしい演奏でした。その演奏中は、心臓を鷲掴みにされている様で、又、その弓で、私の芯の糸が、巻き取られていく様でした。

“彼女かのひとを 去年 唖然と 今年いま 呆然と”

“魂身を 弓が打ちたり 芸術家”

 あの、凄まじい迄の、ひたむきな姿───それは、その音楽家の神髄の音楽性──其処に至る迄の道程が、凝縮されている。

 現在いまの世に、あそこ迄「生きている人」が、他にいるだろうか?
芸術家たる所以の、その、なりふり構わず燃焼し切る演奏姿に、限り無い羨望と、最大級の敬意を、捧げます。

 「夢現」「夢弦」に、彼女の事は、全て書き尽くし、昨年「その音楽の解答」を掴んだ、と思った後の、自分自身の「段差」──昨年と、今年の「」に囚われ、「なものに対する、憧憬と、知となったものに対する、憧憬の、この「」一枚を剥いだものの、「落差」、その「未」自体の膨らみがもたらしていたものの、そのものを、認める事の怖れ、それに縛られて、その、音楽を聴いていれば、それは、杞憂だと分かっているのに。
───もっと 知りたいけれど 知りたくない 
    もっと 近付きたいけれど 近付きたくない
    大事なものを 大事にしたいから ───

 今年のコンサートは、どうしようかと、又、私の母の病状(註:当事の平成10年12月2度目の入院)の事もあったしで、ずっと迷っていました。
 母の回復、その好転の流れに乗り、再びのシンフォニーホールへ、行き着きました。
 そして、その段「差」の呪縛は、剥ぎ取られ、二度目を重ねて、近付いて、二度迄、その姿を刻み、それは、杞憂と相悟り、「大事なもの」はその侭に、「神という人間」は、決して裏切らないと、以前より、親しく感じることが出来たのです。(夢に続きはなかったけれど、自戒するのみ─
                 ★
 その芸術である音楽の、当日の演奏会の三曲目は、フィンランド放送交響楽団(指揮ユッカ・ペッカ・サラステ)の、シベリウスの「フィランディア」、続いて四曲目が、同、「交響曲第二番」だった。

 “ 感動の 大浪  拍手で  打ち返す”

 “演奏後 熱気の拍手 渦の中
    微動だにせず 起立(規律)団員”


 前橋汀子さんを聴く為に行った演奏会だったけれど、、同楽団の此の二曲も素晴らしかった。或る時代のフィンランドと言う国の、雄叫びの渦中に放り込まれた様な、その壮大な曲と相交って、生のオーケストラの臨場感の凄絶さを、初めて味わった。そして、同楽団のアンコールで演奏されたのが、ドボルザークの「スラブ舞曲」。

 “「スラブ舞曲」 思わず流れ 涙ふく
    彼女
かのひと(前橋汀子)の弦で 聴きたかった”                 
   思いも寄らなかったその曲が流れ、万感胸に迫り、涙が噴き落ちた。想えば、こうして、その演奏会に在るのも、約三年前のFM放送での「その曲」が、始まりだった。
 どうせなら、彼女のバイオリンで、本当に、聴いてみたかった───。
 会場を出て、去年と同じ道の、その足跡の上を重ねて歩いた。
福島駅に向かって──未だ、瞳に張り付いている演奏姿に、二度目の靴音は、鮮明な音を響かせながら…………。

 “二度迄も コンサート いき 感無量
      「無伴奏」 みちかえる 憧憬”


 当日の、演奏曲では無かったけれど、帰路の、その道を歩き乍ら、バッハの無伴奏バイオリンソナタ等を、CDで聴いて、素晴らしい音色の「素晴らしい人」に、遠い、遠い憧憬の夢想の翼を一杯に拡いていた頃が思い出され………ましてや、二度も、あの稀有なる芸術家と、束の間でも、同じ空間と、時間を共有出来た事の、極上の至福に、感無量であった


                ★
p31 コンサート翌朝
 “ヴィオロンの ひとひ 引火 沸騰夜 
    アク浮き出でて 爽快なる朝”


 この 爽やかさ…………昨夜の 余韻の 調しらべ …………
彼女の、そして、オーケストラの演奏の炎が、観客に引火して、    
爆発した後の、山の爽快感の様な。……                
老廃物が浮き上がり焼き払われた様な、昨夜の「翌日」の、
いち日でした。

“素晴らしい とわ  あの時も 現在いまも 素晴らしい人 ”
p32   ───────── *  ─────────      

            ★
“夏が秋 コンサートいき コンチェルト
     CD聴きて すぐ 四ヵ月”


チャイコフスキー・バイオリンコンチェルト』
     (平成11年10月22日)
 二度目のコンサート会場で買った、当日の演奏曲の、この「チャイコフスキーの「バイオリンコンチェルト」のCD。毎日の様に聴いて、早や四ヵ月が過ぎた。昼前の、此の一刻「時の船」に、身を委ねる。
 カプリングされている「メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルト」と共に、この両曲に関しては、以前、他のアーチストのでも、カセットテープに録音してよく聴いた。
 クラッシック音楽というものが、ずーっと、「一つの楽曲」を数多くの人が競奏して来た、又、していると云う事を踏まえて、同じ曲が、再び聴くに値するのは、その演奏者の「持味」にしかない。
 その醍醐味は、その演奏の中の音符と音符の「間」に、演奏者の「隠し味」が施されてある。それは、作曲者も予期せぬものであったと、思われる。
 逆に、その「隠し味」は、又、その作曲者に依って、招かれたものでもある。他の曲にはない味わいが、演奏者の彼女を、活き遣かせている。
 それ故、相互作用、相乗作用が及ぼされる。
 それは、偏に、演奏者に掛かっている。

  “澄弦に 身投げしている 音楽おとの湖うみ

  “ただひとつの 月なればこそ 輝きぬ”


p27 与えられた光景の内側』
 
 地球上の、「美の極致」として表現される芸術の数々の内、人が、各 分野に於て受ける感銘とは、どういうことで、何処から来るのであろか? 蝶は、人が視覚出来ない赤外線を見る事によって、花の蜜を識別す ると云う。人間が、視覚できる紫外線で見えるものだけが、全てではない分で(遠い彼方の、彼処から此処へ、蝶が花粉を結ぶ様に)青外線か、白外線か分からないが、それが見えれば「風蝶」が、現在も何処かに居るかも知れない。その遥かを辿れば、その芸術家に「与えられた光景」に出会うに違いない。                      
 それが、それに感動する人間の線上に、体内の細胞の融合の様に、連なって来たもの。その芸術家に依って、受けた感動に「何が、見え」「何が感じられた」か、それが、その芸術家の深さを識る事であり「それ以前」を辿る手掛かりであろう。             (夢弦より)      ──────────*────────────
 結果には、原因がある。(勿論、要素も含めて)会場で購入した、当日演奏された、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲のCDジャケットの、彼女の 寄想文の中に、レマン湖畔の、恩師シゲティ師の許で、毎日、その自然美を眺め、又、背景にして、その修業時代を過ごした事が、書いてあったが、美しい自然美を身体の隅々迄、吸収した故に、彼女自身も、自然そのものに融合され、自然そのものの様に、適確な表現法を、音楽に於て確立する事が出来たのでしょう。

 その時点の、音楽家から受けた感動感を、超す事が出来るのは、一日、十時間に及ぶと云われる、練習時間は勿論なれど、結局、その類いの「滋養体」を持っていると云う事に、尽きると思われます。
 その彼女の音楽の要素の、大きな基幹となった「その場所」への誘いは、彼女が小学校低学年時に聴いた、シゲティ氏のバイオリンの音色に惹かれ、後年その弟子に成った事。その年頃に於ての、超才的な聴力と、審美感に因を発している事に、行き着く。───「選ばれし人」。

 私が、二年前に、初めて彼女の音楽を聴いて以降綴った、先述の「夢現」の「郷愁」の(もっと碧い空と深海)そして、その「与えられた光景」が、今回コンサートに行った事で、CDを買い、それに依って、具体的な「結果」の一端の嬉しい発見となり、私に与えられた、その美しい処へ、想いを馳せるのです。

 そして、芸術家が形成される上の初期の段階として、数ある演奏者の中で、彼女が指向した人の、遡れば、その延長線上に出来る、「芸術家のリレー」──血筋のリレーの如く──そのリレーの総合体プラス、アルファが、彼女の音楽であり、それはまるで、生きものが子孫を引き継ぐ様に、彼女を傾好する音楽家に、引き継がれるものと、思われる。
 その「永遠」性こそ、自然界が、芸術家に託したい、メッセージであろう

  ───────── * ──────────  
p27 『人間界の公式』

 私が、自然界に抱かれる時、素晴らしい音楽を聴いている時、「赤子」の様な幸福感に充たされる。産まれたての汚れ無き、地球の頃「美しいもの」への「感動感」人間にだけ与えられたもの。            人間界の公式──「その侭」を、映しだす鏡を与えられた人間
               *
詩歌集第二集「夢弦」百五十一頁の「或る覚悟……」 

 “遺されて 咲く 朝顔の 寂びしかり”

 その想いからの、その覚悟を心に秘めてからが、私の再生の初まりとなった。
 “五月雨の 蜜を浴みたる 若葉はふ
    我が心根も かく甦り”

 自身の「或るもの」を、放し、捨てた
まるで、何重もの膜になっていた埃や、塵が、ボロッと剥ぎ落ちて、透明になり、ものの本質その侭を感得出来る、眠っていた感性が、目を覚ましたようだった。それは、不思議な様に、五月雨、一露に滴る、若葉を発見した。
 そして、以後、この自然美に目覚めた感動感故に、「夢現」「夢弦」の、 俳句、短歌、創詞曲も生まれた。

 “うみしらず オタマジャクシは 私の子
    五線紙の川 はなしかいたり”

 惜しいものが 何もない────生命さえ。
そこから初まった、感動感の道筋 ───クラッシック音楽へも。

 その演奏者の、練磨の深さが、結果と花し、聴くものの感動感の深さに比例する様に、人間の全部を十として、引いた分だけ、入るもの。  
 足し算も、引き算も、「人間界の公式」
 当たり前の事として、太陽は、東から昇り西へ沈み、雨は、天から地へ墜ち、上流から下流へ、川は流れる。生があり、死がある。病いには、ヒトゲノムの要素を含めて、原因があり、他の要素を借りて治癒と言う結果をもたらす。 

 悪い結果の場合も、原因がある。
 1+2=3という、人間が考えた、公式。各物に記号を付し、その変容を含めて公式化した、物理学、その公式化された物は、その「物体」に成る。石ころ一個も「神の材料」……。現在の電脳社会の核心的存在のシリコンという半導体。それだけでは、ただの石ころだけれど、ケイ酸を混ぜる事によって、電流反応を及ぼし、一躍時代の寵児の如、現在のコンピーターの、主要部を位置付ける「物体」と成った。それは、時代の要望が無ければ、無用の、不用の物であった。
「シリコン」と成り得た、要素同子の結合。───新たなエネルギー源
──人間に於いても、先述の、総合体の「主体部」と成る様な。

 人間体の本質成分の、原素「水」───自分自身の「体」の、一部である「水」、それが無ければ、生きものは生きられない。食して来た野菜の植物 、動物、それ等の食習慣の過程こそが、育まれてきた生きものの「形」。即ち、欲するその「食物」そのものが、人間の、一部、一部、と成ったもの。

“生き物は 自身見ずとも 同種しる
   嗜好
(指向)の本能 生命の神秘”
 動物が、子孫継続の為に、相手を求める行為。「自分」というものが、分からないのに、どうして相手を認識し得るのか?その相手、雄、或いは雌を、認識する事こそが「自身の認識」と、言う事だろう。
 擬態にしても、自分自身が見えなくて「そうなって」行けるのだろう?
無意識の、自己認識能力──本能的同化──「生存」の為の。

 人間なら、「社会」とか「常識」とかへの、順応のようにも考えられる。その「過ぎた」反応が遠ざけたもの、「五感」。それは、人間「以前」の時の、例えば、鳥や、魚や、犬達同士のコミュニケーションに見る、極く鋭敏な感覚──言語を持たない頃の、名残りの特性──その人間に与えられた最たるものの「感動感」─────」と「引算」。
 指向する、その感動感に浸っていると、美しいそのものに同化され、自分自身が、海や、空や、樹であった事を、見出だす。

 不思議な指向──不思議だけれど、不思議が一杯重なった「生命」。 その生命の神秘の母源体である、地球の疲弊──ダイオキシン、地球温暖化、オゾン層破壊 etc。
 人間が、十分の、充(十)を知らず、繁栄を貪り、積み上げた物の結果が、現在の地球の状態です。


                ★
p28 コンピューター2000年幕開け

 “造花園 死なない花達 いきもせず どうか と思う
       この先 未来”

  ★                    ★
 私は ずっーと 永い間歩いて来た 決められた道を。   
 コツコツと そう 時計の様に 休む事無く         
  「時計」を考えた人は、                  
 私の聲に じっと 耳を傾けた 最初の人間だろう。

  その「人間」は 私の 到達点で あった         
  そして 私の 持っている 材料で             
  「或る世界」を 創るだろう。               
   其処から 宇宙へ 向かわせたのは            
   私の「老齢」である予感から────。         
  此の先 一万年か 十万年か 一億年か、         
  私という 地球の子供の 延命は
  何処まで 可能か?   
  ★                    ★

 Y2Kと言う、コンピューター誤作動懸念が象徴する様な、千年紀、  
 二千年の幕開けだった今年。無意識的な「宇宙の法則」の中から、人間が考察した「数式」の上に、成立させた「時間の概念」の暦。
 その延長線上の、この先、千年は、今から千年前、初めて飛行機が空を飛んだ様に、人間も、装具等を着けて、空を飛ぶ様に成るかも知れない。 言葉を、発しなくても、「話せる」様にも。
 又、ロボットに何もかも依存してしまって、それなくしては、にっちも、さっちも行かない、依存型無能人間ばかりに……?
 DNA解析、今日の国会の予算委員会でも、その「特許」に関する質疑があったが、結局それは、「パソコン」の「ソフト」の様なものだろう。
遺伝子治療等で、「死なない人間」や、「優秀な人間」ばかりに…………、ロボットの様な?(順序として、遺伝子治療の悪用の「負」の部分も先考すべきでは)、生命期間が延び、確定されて、それで、「得た」事になるのか?
 何時死ぬか分からないから、「生」が際立ち、「生きている喜び」も感じられる。「一生懸命」な事を恰好悪いと見る、現在の、子供の風潮。一生懸命やったから、その達成感という喜び、又、完達出来なくても、やるだけやったと言う、充実感も得られるのに。
(私は学生時代、ほとんど勉強らしい勉強をした事がないが、本当に「一生懸命」勉強したと言えるのは、昭和五十九年、不動産会社に勤めている時に取った「宅地建物取引主任者」の資格試験取得の時。今でも、試験が終わった時の、あの開放感を思い出す。「出来た」と言う事もあったけれど、(頭の中のものを)「もう放しても良い」充実感と、達成感の万感。それだけでも、値打ちがあった。
 今でも、その時の「感触「を、思い出す事がある。)
 そういうものを、葬り去ろうとしている現在の社会の反映──── 要領の良いものだけを認めた社会───その結末が子供達の意識に。そして、それが当たり前になれば、そんな社会に───それは、結局、「何もしなくていい」依存型人間に帰結と言う、未来社会の掲示でしょうか。 そして、使わない機能は、退化していくから、頭だけの球形になって転がっている? 「人間」の進化を逆算すれば、それが必然? その先は?

 そういう流れの中だこそ、これからの「人間」について、考えなければならないと、思う。「木と人間の違い」「動物と人間の違い」。
 停止する事の出来ない人間の宿命でも、其処の処に視点を据えれば、「人間の在り方」が見えて来る。  「人間の使命」。
 「出来る事」は、「する為」と言う事。地球と言う生命体の中で、人間が創られた意味合い、「人間がすべき事」。                
 倒れそうな木に、添え木がしてあるのを見ると、嬉しくなる。
 不老不死にしても、若し、死ななくなったら、今度は「死にたい」と思うだろう。それが、人間。そして、そこ迄辿った時、「生と死」の真理が見えて来るのかも知れない。
 細胞一粒からの、永い永い、進化課程──肉体も精神も、その必然性の為の、成形であった。 避けられない人間の進化──絶えず、目の前の「宿題」を与えられた人間の──それを受容している地球の、その先─宇宙全体から見れば、地球のその先の経緯も、決まっているのだろう。「死滅」と言う……。
 その地球の無意識の予感が、人間を、宇宙に向かわせている、移星の為? 「人類」に成ってからの人間。もう永く生き過ぎたのかも知れない。もう限界?その分岐点の様な、二千年。


p29    地球は青かった                 
 当然的と思っている事が、実は当然では無いのだと、気付く時がある。つい先日、気象衛星が映し出すテレビの天気予報の、雲の動きを観ていて、今、私達は、「雲」を「上」から見下ろしているんだと、今更乍 ら、新たな事を発見した様な気持ちになった。                現在から39年前(1961年)、ガガーリンが有史上初めての、人工衛星で宇宙から見て言った「地球は青かった!」。          
 あの時に、人類の風船は最高に膨んで、そして、破裂した。     

 雲を下から、拝む様に見上げていた頃、二十才代の、今から約三十年程前、初めて飛行機に乗って雲の中に包まれた、あの感激。  
 【雲が横 空を飛びたる あの実感 最初だけの たびの 若き日】  
  涯てしの無い宇宙。  涯てしの無い人間の指向。          
 二十世紀に初めて、飛行機による人類の「体」の、空間的短縮の実現(時間と距離の)。二十一世紀を来年に控え、現在のインターネット普及に依る「精神」の空間的短縮。地球の囲りの夥しい衛星は、その内、土星の「環」の形態を成すだろう。 
  頭上の雲から、眼下の雲。────遥かだった雲。         

 その内、人間の心の中も、眼下の雲の様に、見る事になるだろう。
それはイコール、人間がコンピーター化されると言う事。         
 「火星」ではない、「地球は青かった」、「青かった」。      
人間が何気なく言った言葉には、時間を超越して示唆するものがある。
何故、人間が宇宙に逃げ出しているのか?
 「地球は青かった」
いつか、そういう過去形で言う日が来るのか?            

  富士の山は美わし  変わらず美わし                   
  樹々は美くし 不動なるもの みな美くし                   
 人間は 「根」が歩く 
  緑の草原を 山を 谷を 川を 越えて                   
  砂漠………を越えて
   赤茶の砂漠に着く────            
  
  富士は美わしかった………                     
  樹々は緑だった………                       
 地球は青かった……
…。                  

 この夜は、宇宙の果て涯ての夜。この朝は、
地球だけの「朝」?
 この青い空と、白い雲は、地球だけの、空と雲?                         (平成12年3月9日)
  ─────────────────
 昭和21年生まれの私から見れば、世の中は、もう充分に便利に成った。文明は、これ位で滞めた方が良いと思う……思う……が、空論だろうか?
 “ものあまり 節約しては こう(降)景気?”

 それより、人間が未完成な様に、不完全な、地球の負の部分を担った、アフリカの砂漠地帯の緑地化と言う「遺伝子治療」の、尚、一層の推進を文明国の負担で、とTVで、肉を削いだ様な身体の人達を見る度、思う。


p30     『感性の「基盤
 寒い寒い日の、火の暖かさ
 あの広島県、呉駅で食べた、熱い、ラーメンの美味しさ!
平成八年に亡くなった弟が、若い頃、呉の海上自衛隊に入所し、その入所式に、母の代わりに私が出席した、その帰り、一時間に一本しか来ない電車を待っていた間の、底冷えのする寒さ、そして、その駅で食べたラーメンの暖かい、何という美味しさ!味よりも、その暖かさが、熱さが、有り難く美味しかった。
暖房の部屋では、決して、味わえないもの。
ああいう感覚こそ、「古代の人」のものだろう。
 それが、感性の「基盤」になっているだろうと、想う。

  肉体から、精神の旅。
 DNA解析で、これから、この「道筋」も解明されて行くだろうが、辛さ、哀しみを、「知った」から、喜びを「覚えた」───そう考える。
 何も無い場所で、一番何が欲しいかと、そういう極限に、自分を置いた事を考えれば、哀しみも、喜びも、理解出来るだろう────
  ───山の高さは、谷の深さ────
  “山間を 天から見れば 谷が山”

 感性の出発(たびだち)。動物共通の「肉欲」「食欲」の喜びと、人間だけの「感動感」と言う「喜び」。これこそが、人類の勝ち獲った、最高の「栄光」。此れを、放棄する事が「幸福」か、どうか?
 「知性」と表裏一体を為す、「感動感」が、何故、在りえたのか?
──『地球が、「子供達」に託した事』───
 人間の暦の、ミレニアムの、地球丸に乗り合わせた者達として、
2000年と言うこの年に、深考すべき事と想う。
  ───────────────────
                ★
p30 世界一美味しいレストラン2000朗読

 と、ある街、と、ある処 で、そんな看板を見付けました。      
 そして、「代金はお気に召せば無料」、タダより恐いものはないと、思いつつ、興味津々、そのドアの扉を開けました。               
 天井も、壁も、床も、全部木目のその部屋には、勿論、木の、テーブルが4つ、そのテーブル毎に4脚づつの椅子、壁にそって、やはり、4つづつの樹が、4辺にありました。
 客は在ず、取り敢えず手前のテーブルの椅子に、腰をおろしました。 が、いくら待っても、誰も注文を取りに来ません。             
 「すいません。オーダーお願いします」、がシーンとした侭、何の返答も返ってきません。仕方なく帰ろうと「椅子」から立ち上がりました。     
 途端、辺りは一面、樹ばかりの、林になっていました。        
 前へ行っても、横へ、行っても、後へ戻っても、樹ばかり………    
 日も、翳って来て、やがて、すっかり夜になりました。         
 何処からも、洩れる灯とてない、真っ黒な「漆黒夜」を、初めて知りました。「あー、お腹が空いた………」「この『状態』が終わらなかったら、どうしよう?」不安と、恐怖の侭、夏と言うのに震えて、ずっと、うずくまっていました。                         
 やがて、一ヶ処、仄かな気配と共に、闇が、動きました。       
 神が目を覚ました! 光が、だんだん、光が拡がって、まるで悪魔を滅ぼす様な勢いで、地上を覆って行きます。 私の為に「朝」が歩いて来る! 溢れる光の中、そう想いました。そんな、朝も、初めてでした。  空腹感と共に、「喉が渇いた………」。樹の葉を「頂きました」。   
「美味しい……」、こんなに美味しいものを味わったのも、又、初めて でした。切り株の、「椅子」に腰掛けて、それをしゃぶっている内に、眠ってしまった様です………………                   
 目が覚めると、さっきのレストランの、帰ろうとして椅子から立ち上がった、その状態の所に、いました。                  
 それにしても、本当に、「世界一美味しいレストラン」でした。
   [了]     平成12年1月13日)   


p31  日本の道               
 雨が降った後など、未だぬかるみの残っている道が多かった、
少女の頃。 アスファルトの道は、綺麗かったなァ。          
  足跡も残らず石ころに躓く事もなく、水溜まりもなく、汚れる事もない。雨上り等は、真っ新らに洗い流された様で、気持ちが良かった。   
 自転車で走っても、ペダルは軽く、滑って行く様だった。         

 何も遺さない道
。                            
 あれから、少しづつ道幅も拡く、拡くなって行き、          
建物の高さも、だんだん 伸びて行った。                 
それと引き換えに、拡がるほどに減少していった「もの」がある。   
 高くなるほど、だんだん、「見下ろして」いく 眼。           
 最初に感じた、アスファルトの道の綺麗さ!               
 その涯てが、「現代」だった、だなんて。              
昭和21年生まれの私は、或る意味で、日本の「戦後」そのものだ。    
一緒に大きく 成ってきた。…………                           (平成十一年十一月七日)
   ──────────────────                               ★

p31(人間界の公式) 引算の時
 太陽が、西から東へ昇る事が無い様に、自然界の公式の中での「人間界の公式」を注視すべき時ではないかと、地球になり代わり、思う次第です。
──人間の鏡は磨く程、輝き、その体は食する程、肥大化し、悪循環を及ぼす。───  
 その外側に拡がる体を、内側に引き込む、芸術──まるで、引力の
為せる業と思わせる様な、芸術魂、そして、それに、引かれる、人間の魂
 地球上に風土も含めて、「正」と「悪」がある様に、あのナチスの時代の、有名な「アンネの日記」が、読み継がれ、又、それを取り上げるメディア等も含めて、忘れ去られない事。それは、アンネ・フランクの天与の筆力の賜物である事。真さに、此の世には、神と悪魔、「正」と「悪」が同居している、典型の様…………
 “調整の 如く 地球に 善 と 悪 
     
 高山 深谷  平和と戦争”
 ─────────────────────────── 
p32    
 「一枚の絵」 ── 拙な絵
 一本の道 と 空── 蟻んこが 急わしく 空に 向かう
──よく見ると 一本の 木
 蟻の眼と視界──地面も 木も 段差も 一つの平面
眼前に 楽園──足踏み入れて 初めて分かる
 ──蟻の視界───
──「人間の範囲」で見えた事………… 。
                (「夢現」より)
   ─────── *  ─────────

p32
 その、「人間の範囲」の蟻の「視界」過中では、測り知る事の出来ない「約束された人生」も、いつの間にか辿り着いた、此の小高い丘の上からは、よく見渡す事が出来る。
 (平成9年7月8日)の、前橋汀子さんの衝撃的なバイオリンの音色との出会いから────                       
  “一つの 方向性を 現前に
  節目 節目の 感動 あり 今日(橋)”


 私の、帰着すべき岸への橋が、ゆっくり降りて来て、一年後の昨々年、その橋を渡り切った。
“この前の 橋は 生命の 接ぎ目を 踏み沁め 渡る 明石海峡”  
“生命はしる 「パールブリッジ」きょう(橋) 輝き”

 「国うみの島」、淡路島に着いた。
平成七年1月17日の、阪神淡路大震災地。
 あの朝、TVで、その惨状に衝撃を受けた侭、干し物の為に上がった、二階のベランダの西空は、冬空と思えない程に、青く青く、その哀しみを訴えているかの様であった。けれど、それは、「地球の素顔」を、曝し切った、安堵の表情の色にも見え、叉、その空気の塵ひとつ無い、清々しさに、私の体内の澱み迄が、除引されて行く様な、五感の開放の感触感を、思い出す。
 そして、現在その被災保存地の「野島断層」には、地中から、地表近く迄押し上げられた、約十万年前の、土が見える。
“地球の 憤怒の形相 標本の
   「野島断層」に 形見の雑草 ” 


 日本最古の、国生みの島の、根底を支えていた、その「土」
新たに芽吹く、生命の証の「草」。                    
その重い存在感が、目の前に、迫って来る様だ。

 浅い人間の歴史なれど、私の中の、遥かなもの達───「涙」にもなれなかったもの達、鬱積されたもの達の反乱───が、「平成9年の夏」に、やっと日の目を見たのでは、という想いに駆られる。


p33 『  』──感性── (朗読new           
   
                             
 蛇口を ひねれば 待ち構えていたかの様に      
 流れ出る 水の様に                 
 絞った心から 溢れる 涙……           
 それは 紛れもない 「私自身の一部」       
 
 私自身を 手に 取って 見た事が ありますか?
───透明な 純粋を─────         
 永い歴史の 過程で 色んな色彩に 染まったけれど
 取って置きの様に ずーっと 今迄          
 決して 染まらない「核」の芯が 守られて来ました

  だから 涙を 持っているのです           
 そして それが 「私」の聲です          
 嬉しいにつけ 悲しいにつけ 歓喜の時も 悲嘆の時も        
  私を 放って 下さい                
 その 粒が 重なる程 「涙の故郷」に 近付いて 
 本当の 自分自身に 戻って 行けるのです───

               (「夢弦」より) 
   ─────────────────────
             ☆
p33 『生命の 一粒』 
 
{ 生命の 一粒   偶然の 一粒       
  レモンの 一滴…………生命は酸っぱいです

 太陽から 搾られ 生まれた その 一滴………

  だから 涙は 全らゆる涙は  いつも
  酸っぱいです  身体の 涙の 汗も

  海は 酸っぱさが 一面…………

  真珠の涙って 本当でしょう?
  
  潮風が 山なりに  亘って ゆきます
 雨が ポツリ 一滴 落ちて 来ました…… }
        「夢弦」より
               ☆
 ─────────────────────
p33 一粒の生命
 その一粒の、生命の膨らみのいきを、今ひと度、大きく吐いて、人間は何の為に生まれて来たかと、いう問いに、間髪を入れずに答えられる「感動」という、実在感を、大きく吸い込もうではないか。
 これが、「生」そして、「死」の、処世術かと──────

 感動としての、音楽と、祈りとしての、言葉と、その両方持ち合わせた人間の、宿命として、結果的には、その意義を、自分自身の人生の意義の結論を、悟らねばならない。

  “ 満潮の 生も いつか 干き潮に ”

 生まれて来たと言う事は、ただ、死に向かって、その時を、どんな風に受け止め、超えられるか、その為にだけ、人間は、生きている様に思える。

{ 私を中心に 約百八十度 前面は 海 
   広大な 海の 大きさ
   無防備に 全ての 可能性の様に  穏やかに……
   耳を 澄ませないと 波の音も 聴こえないほど
  私の ちっぽけさが  人間の ちっぽけさが
  嬉しくなる
   海に 抱かれる事が 出来るから…………  }         

  美しき 落日 待つ間 も へ る 命 ”

 甥子達を、海水浴させ、落日を待った後、暮れて往く空の下、
車は帰路の、明石海峡大橋を、渡っていた。

 “ わかちたり 生の続きの ただ死なり ”

 そして、今、この「域」に迄達した、自分自身を「将来」の「結論」と  したい。──────

 “大橋の イルミネーション 花吹雪 中央凱旋 還りゆくなり”

 そのイルミネーションの背後、前方の対岸には「その時代」の、暗さ故に、その存在を浮かび上がらせる、命の灯が、灯だけが、点っていた。
 それは、さながら、夜空の星々の如くに…………。
 (以上「夢弦」より) 
  ──────────*──────────  
p33
 そして、帰ってから暫く経った、七月末、やはりFM放送から流れた、マーラーの「復活」の後半部分の、エリザベス・ヒュートラルとマリアーナ・リポフシェフの唱声の美しさに、私の中の感性の新らたな「子」が、産ぶ声を上げた。

“感性は 大人の中で 順番に
   目覚める「子供」 「好きなものが好き」”


“聴 変感  「見知らぬ私」に ボンソワール”

“女性一(位置) 高域声(性)は  神の意志”        

 それ迄は、耳にする事はあっても、聴心に届かなかった声楽曲、ミサ曲。
一年の間に、前橋汀子さんの音楽に培養され…………       
 何故か「待たれていた」と、そう思わずにはいられない……。


p34 天上絵  うつす 地上え  我が魂”

{ 現在も 褪せることを知らぬ 「或る人」の
  バイオリンの音色を 聴いている 刻
  新たな 感動脈となった ソプラノの唱声を 聴いている 刻
  頂きの冬の如き場所で、一本、一本、程良い間隔に、毅然と聳えて  いる裸木の、天然の絶妙な筆緻ふでさばきに見惚れる時の、幸福の  「天井」感───
   それ等は、見上げる雲の その雲のたゆやかさが、
  私に投映されて、私の中に「天上絵」となって、もたらされているの 
  でしょうか?
   それは、逝ってしまった肉親もの達の、「安らかさ」の、        
 うつし絵の様な、気がします。}  (平成十一年一月二二日)

   “かくことは 水になりぬる 通行証 ”


 {森の静寂さと、芳香な香気 立ち昇る 樹々の中を 抜けたあと
 その朝靄の 向こうには 精霊たちの 貢ぎ水で 満たされた
 湖が ありました。と いうより その空間(空も) 全部が
 境目無く 一枚の鏡のように 「透明な水」の 色です が
 不思議な事に 姿は映らず その 空間に 頭の先から 爪先まで
 包み込まれる様に─── 又 天(そら)に 飛び込む 一筋の   
 その山の煙の 浮力の先端が溶けてゆく様に───
  ただ、融合してゆくのだけを 感じているのです。}

“「真の愛」 溢る泉に 精霊の 
    汲みて たまいし しずけき 湖” 
(ダウランド「語れ真の愛に」に:歌波多野睦美)
(平成十一年一月二十九日)

 昨年(平成十一年)の一月に初めて、FM放送で「語れ真の愛を」を聴いてから、CDショップでは買えなかったのを、つい最近、インターネットを通じて購入する事が出来た、このダウランド作曲の「悲しみよとどまれ」、(約350年前の曲だとか)。
 天の使いとして、舞い降りて来る「天使」、その「天使」の頭上に何故、「環」があるのか、分かりました。

“ ダウランの 悲しみは 浄化さる
    妖精の 唱声が 摘み ゆき ”


 金魚掬いの時に使う、白い紙の環の「あれ」は、何て言ったかナ?
“ 白い 金魚 すくわれ  天使の手 ” 
                             
 疲れ切った金魚達をすくって行く様に、定期的にそんな風に、輪の中に、その「悲しみ」を、「魂」を、拾い上げて運び去るのです。       
 (永遠の美を、与む為)
 ─────────────────────────  
<ドボルザーク作曲シャルロット・チャーチ「「母が教え給いし歌」に>
 “「母が教え給いし歌」 唱う 少女                      
 春の 膝の上 開く 辛夷花”
         
p34    「辛夷花」                               
      (平成十二年三月三十一日) 

 【真っ白に 年度変わりの こぶし花】           

  朝 春の朝が 開く                           
握り込んでいた拳を 開く 赤子の様に                 
辛夷(こぶし)の花が 大きく 口を開けて 春を唱う         
曇天の空の下 洗濯物を 干している 2階の ベランダから     
左目線上 夏の洗濯物を 先取りした様な 白さが 鮮やかに
誇り高く 団結した純潔が 白光を放っています            

 3月も終りの今日  今 テレビの画面上では             
 北海道 有珠山の 噴火口から                     
 噴煙が飛び出して内部のゲロを 続々 吐き続けています      
  あの「生命」の中に 美しさも 全てある                 

 予定通りの 春が来て 花が咲き                    
花が散り 予定通り 季節は巡るけれど                
予定通りではない事が 現在                       
「テレビの画面上」で 起こっている               

 “噴熱の 薄氷の上にすむ 地球人”                      
   ─────────────────────   
  此の、俗界に咲く、の木槿の、白い花。              
 少女の、真っ紅な頬っぺの、のさざんかのような、   
 此の世に存在しない、両性具有体。ボーイソプラノとマリアの「合」唱の様に、「ボーイソプラノ」が、「マリア」の膝の上で、唱っている……
 でも、確かに、その聖域は存在しています。 「此処」に。 
 “正と邪と 文明の あか 朧々と
   溶かしゆき 白き羽根 天使環 ”


 良い心地で眠ってしまっていました。 それは、きっと、マリアの膝の上で眠る、キリストの心地でした。

「マリア」の膝に眠る キリストの
    夢を見たり 「語る真の愛」を

 「 愛 知りてこそ 愛を 語れり 」  
              ★    
 
 ───────────────────────   
p35 『 美の波紋 』  (平成十二年二月二十二日) 

 天の抱きの 胸の中で居眠りして 落っこちてしまった         
 「幸福」の  一粒の雨…………                   
 その雨の 波紋が ゆんわり 拡がって行きます          
口から口へ 「幸福」と言う言葉の 伝言を 聴きましたか?

 押し合い ひしめき合う 「善」の中から                 
 あぶれた 一粒の雨                         
 その雨の 波紋が ゆんわり 地面を食べて行きます          
 冬の焚火の様に 盛り上がって行く                  
「善」の 日溜りを 見ましたか?                
 
 うまれて 産まれて  又 「美」の中から                
 生まれた 一粒の雨                         
 その雨の 波紋が ゆんわり 息づいています              
 地から 天へ 昇った 雨の 星雲の                
「美」の 煌めきを 感じましたか?              

──光のボールを、転がし遊ぶ、天使を見ましたか?────   ───────────────────────   
               ★
 CD、bP0の『思いがかなわなかったら』、ジャケットの訳詩と、少し イメージが違う感じの、軽いタッチの曲調で、天使が光の玉と、戯れているのが、見える様です。そして、偶然乍ら、私の詩歌集第2集「夢弦」に収めた 詩編「光の天使」を、思い出しました。
               ☆
p35 『光の天使』

“「ダイヤモンド」 海面に 光の 星の瞬き
      鑑定するわ 心の天使”
 

 本当に、そんなダイヤモンドを見た事がある分けでは無いが、言葉とはかくも簡単なものである。
 私に、言わせればダイヤモンドの石より、それは、ずーっと素晴らしい輝きとだけは言える。私の心の手を取って、天上のものが、その光の乱舞の中に誘う。
 水平線の、あの光の星団の様な日溜まりから抜け出して来た、
光の天使達の、眩しい煌めき!
────これ以上の輝きを知りません。────

 ですから、一般の「石」の類いの宝石類の、値打ちは分かりません。
きっと、高価だから良いのでしょうか?それは、ただ、希少価値という高価。 ならば、そこらの石ころも、数少なければ、希少価値で高価?
 その満足感と優越感の「輝き」なのでしょう。

 例えば、鑑定家が見分けなくてはならない値打ちって、
何でしょう?

  「感動」に、鑑定家は必要ありません。   「夢弦」より
                ☆ 

 人類普遍の、悲しみ、喜び、でも、現在から見る、悲しみの窓の中の十七世紀の、人間のそれは、清らけく、浄らかです。
 赤子の様に、旋律の産まれたての、その「刻」の侭。

 “足もとに 菫 みつけり 妖精や”
 その穢れのない、天与の唱声は、スペインの「ガウディ」の如く、大英帝国のチャーチの様にも思われ、その過去を浄化して行く、鎮魂歌の様にも聴こえる。そして、物食飽溢の現在、この少女の唱声程、時代が要請したと思えるものはない。この混沌とした、空気の中に人間の見失ったの、忘れていたものを、思い出させて呉れる。
 天の使いとは、よく言ったもの。その天使の羽根に乗っかって夢見心地の「浮力の世界」へ。でも、それは、結局「現代人の土壌」の重力という引力が、呼び込んだもの。                
 この少女の唱声から「人間」と言うものの本質に気付く人は、少なくないと思う。
  ───────── * ──────────
 光の天使」と言えば、音楽で初めて「浮力の世界」を識った、ピアニストのアルツール・ルビンシュタインを、思い出す。
 3年前(平成9年)の春にFM放送で聴いた、サンサーンスの「ピアノ協奏第二番」の主題のメローディの部分のピアノの音に、地球に降った、最初の雨の様な、身震いを、感じた。


                ★                 
p36 ♪雨が降る・・・・』              
<アルツール・ルビンシュタイン/
  サンサーンス「ピアノ協奏曲第二番」
に寄せて>

 今日も 朝が来た 風も 目覚め 賑やかに ぶつかり合い
 甥子達の声の 息が  そして 駆けて行った……            
 循環された 部屋で ふーっと 一息遣く                
 風が 私の衣を 解く                          
  雨が 降る 今日も 雨が 降る                    
  最初の 雨の 一雫…………                    

私の皮膚の 地面の 大地に 泌み入る 透明な雨          
 瞬間の 魂の 躍動を 永遠に 凝縮した 文明の
傑作機器から 流れる クラッシック        

 天使の 羽根で 弾いている様な 滑らかな
 余分なものを 取り去った ピアニストの 音色
 私自身が 地球の 大地に なれる刻             

  雨が 降る 今日も 雨が ある…………                 
 大地を 潤す マシュマロの様な                     
  柔らかな 響き…………  (「夢現」創詩曲より)     
    ────────────────────
“ 雨が降る…… 宇宙空間の 地球に
    大地 我 皮膚 最初の 一粒 ”
                ★
p36・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   夢の中の 足音の様な 
  ピアノの音色 その音色が 手を差し延べて 
  過ぎ去った 全てのものの 集合場所へ
  私を 誘って 呉れる様です
    近くて 遠い   遠くて 近い…………       
    掴めそうで 掴めない   
     夢の中…………

 “水玉り 海面 跳ねけり ピアニシモ ”
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
p36 『科学と芸術』
 四季織り成す、美しい日本の象徴の様な、富士の山。
その「宿命的美しさ」。その場所、土壌に咲く、花の様に────
 厖大な花種の中で、バラはバラであり、桜は桜、菫は菫。富士山は唯一の、富士山。ピアニストのアルツール・ルビンシュタイン、前橋汀子、シャルロット・チャーチ、この三人の音楽家からは、その「らしさ」、本人らしさ、花の中の、こういう風に「咲きたい」と言う自己主張が見える。
 それは、よりナチョラルに、より自然にと言う、生きものの本来の姿の遡現の「聲」でもある。それを見、聴いたのは、私の土壌であり、そこから言葉と言う「詞」、感動という「曲」の、花が開いた。
 「感動感」と言うものに想いを馳せれば、それは、遠い、遠い日の、産まれるもっと前の、記憶感と握手しているのだと言う事に行き着く。何故なら、もっと近い過去の記憶を辿って、それを見出だした時に、覚える感情を、思い起せば納得出来ると思う。

 最高の音楽家の音楽からは、その深い深い過去へ下った、当時の地球の美しさの記憶が開示される。
 “生きものは 一つの遺伝子 地球「体」
     感動は 地球の 喜び”

               ★
 「重力」の、積み重なったものが、生命体の「形」なら、その、反作用的な、目には見えない、無重力の「浮力」。
 宇宙へ行った分でも、「煙」に成った事がある分でもないが、此れに記した音楽家の音楽からは、一様に、その無重力になった「浮力」の心地を、感じる事が出来る。                          
 「その刻」の私は、きっと、星の様に瞬き、輝いている事と、思う。
 この世の、知性の極みを「科学」とするなら、感性の極みの「芸術」。
ハップルや、すばる望遠鏡で、未知の星を捉え、宇宙ステーション迄造る、科学者と、未知なるものを具現出来る、芸術家(それ故、私の「夢現」シリーズも記せた)。
 「生」に「敏感な星」芸術家や、科学者を、「それへ」突き進ますもの、
 目指しているものは、きっと、共通のものでしょう。


 「生」が目指しているのが、「死」である様に────     


                ★
p37 ” キリストの 受難極(曲)の 遺産なり
       「此処においで」 感動の 喜び ”

 
    此処においで               
               (平成11年5月12日) 
  
   いつか 此処においで           
           

   私は 小高い丘の上に いる           
          
 此処から 三六十度 見回せば         
          
 五月の若葉が 雲のように 私を 囲んでいる  
        
 出来たての 葉緑素に            
            
 真っ新らの 生命が 息遣く         
          

  そうだ 私は 其処の その川に懸かっている   
       
 橋を渡って 此処に 着いた           
          
 姿なき先導者に 従って…………               

 
 そうだ 私は もう少し前 其処にいた               
 「あなた方」と 同じように…………                  
   いつか 此処においで           
   
   何も 持たずに                 
   丘の 大きな胸の中で 目を閉じていると        
   広がる 安心感に 赤子のように なれるから      
    きっと なれるから………           
    きっと 此処においで………。       
   ─────────────────── 
バッハ「マタイ受難曲・神よ憐れみ給え」=[唱]ヘルタテッパーに)

 “彼女かのひとが ともしてくれし 橋の先        
          幅 拡がりて  豊かな 丘陵”
                ★
 詩歌集「夢現」第三集「夢幻」第一部 『約束された人生』  了
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第2部 「母」天の川途上へ
yo45@gaia.eonet.ne.jp


詩歌集第三集「夢幻」
<全目次詳細ページ>
(第1部)(第2部)(第3部)(第4部)(第5部)
       ・・・・・・・・・・・・・・・・
<頁>  <題目> 
1 目  次  
2 詩歌集「夢幻」について              
3 第一部 約束された人生             
4 「愛」知りてこそ『或るときの・・』)         
5 十才頃幸福感美しき子供達よ        
6 子供の頃約束された人生            
7 とき                            
8 木の緑木の視線                  
9 変わらぬ大樹黒の色彩個性          
10 精魂郷愁虚脱感                 
11 芸術とは?木魂
   あなたは愛(♪歌あり)          
12 木の精神性遥かな木宿命の形        
13 春の朧絵一体美醜                 
14 木のバランス性ザブーン             
15 宝船音の第一歩まれびと
   太古と現在
    
16 生命の躍動胎動感                
17 美しい心ノクターン・                
   フニャーニスプリング               
18 四月に!・タウンテラ                
19 バッハ無伴奏バイオリン 魂 
   ・ハーモニー            
20 1990年・スペイン                   
21 楽園シャコンヌアダージョ            
22 フーガ噴動(♪歌あり)・
   春の息吹き
             
  もっと光を・初めての演奏会             
23 その翌朝                         
24 一週間一ヵ月仰ぐ峰              
 25 楽しみな期間ときめき去年             
26 ときめき夏二度目の演奏会            
27 与えられた光景の内側人間界の公式      
28 コンピュター2000年の幕開け           
29 地球は青かった                    
30 世界一美味しいレストラン              
31 日本の道コンサート翌朝              
32 六月チャイコフスキーバイオリン協奏曲
   ・蟻の視界                       
33 一粒の生命                   
34 天上絵辛夷花(語れ真の愛)           
35 美の波紋光の天使                 
36 雨が降る科学と芸術                
37 此処においで                  
                                       
第一部 「約束された人生」 了     戻る

<頁>  <題目> 
第二部「母」天の川途上掲載ページへ クリック                                      
 38 第二部「母」天の川途上                  
39 母入院・一目散・無に                      
40 砂浜・赤・夜・存在                       
 41 二つの目・晩夏・シーソー                   
 42 溜め池・虚音景色・無理をしないで
    恩恵・祈りそれを愛と言う 
 43 悲しみは喜びの為にある   
 44 平坦な道・幸福・神の子   
 45 デスマスク・琥珀・白兎の朝 
 46 夜の川・魂の饗宴・母退院  
 47 気品・日本人言葉・ずっと大阪
 48 春・国なき市        
 49 国なきし・文化「国」    
 50 「蔵」テーマ原風景・五重の塔
 51 墓参・天国への階段     
 52 美徳心・日本の花      
 53 音の宝石・花灯 寝屋川まつり
 54 寝屋川まつり一年後     
 55 鈴虫・蝉・秋        
 56 耳の壷・何処に・サボテン  
 57 レクイエム・三度目寝屋川祭り
 58 美感・波打ち際の日・鳳仙花 
 59 対面・屈折・好敵手・花・文明
 60 未明道・神美・雲の中の音色 
 61 赤子・素晴らしい日の為に       戻る
──────────────────── 
<頁>  <題目>                                       
 62 第二部「父」瓦解 へ     
    柏手・おもい・暗景     
 63 不動・天国の父・自由への希求
 64 桃色の夢・小さい頃・むすんで
 65 ひらいて・傘・お金・冷火  
 66 父と母・対極の両親・塵の海 
 67 ほどほどT・U       
 68 今日のように・時代遅れの窓 
    存在・朝と夜        
 69 影・比較・存在・物の値打ち 
 70 自尊心と虚栄心・保険・大食漢
    人間の無          
 71 生と死・美の極界・自死に  
 72 桜花道・軌跡・月が二つ   
 73 死なない花・知の時代・木魂事
 74 風T・U・海藻       
 75 雨露・真理・美しい余韻・光扉
 76 メリーゴーランド・花弁・葬儀
 77 瓦解            
 80 天上絵           
     第二部「母・父」了        戻る
───────────────────── 
  <頁>  <題目>                          
 81 第三部「甥子」へ       
  82 遺伝子の「命」の為に・・・
  83 第三部「甥子」・一吉誕生
  84 甥子の母親(私の妹)のこと
  85 U雄樹誕生 V生きる次元 
  86 W私の妹の死去・心の積木 
  87 保育所・謝辞           
  88 連絡帳・風景の穴・山頂に立って
  89 ・最後の五月に・つつじ
     若葉           
  90 五月から六月・六月・紫陽花
  91 六月の雨・水溜り・光の雨 
     朝・誰かの為       
  92 夏休み・りんご・窓    
  93 丸い鏡・百八十度・自分と出会う
  94 ・紋様・我流雑言   
  95 問答集〔伯母ちゃんから一吉&雄樹へ〕
     耳の壷・箸の文化  
  96 鈴虫の音色・時代遅れ
  97 秋・サボテン   
  98 天国への階段・他人事
  99 台風の目・ルーン 
 100 現在が全て・色んな人
 101 人間の強さ・ルワーン 
 102 夢現・一つの形  
 103 「虫」・白と黒  
 104 音の起源・親指姫の花
 105 子供の頃・金平糖
 106 死角・在るべき姿
 107 家族・小さい秋
 108 花の色・ゴシゴシ
 109 貧乏神・鏡の中
 110 何処に・星の精
 111 言葉・早かれ遅かれ
 112 赤かぶ・日本の道
 113 かたちのはじめ・森像
 114 一生懸命・二千年問題
 115 ぼた餅・不動の樹
 116 落葉・木々の在り葉
 117 形のその後・落とし物
 118 世界一レストラン・黄金の蝶
     第三部「甥子」 了        戻る
─────────────────────
 <頁>  <題目> 
  119 第四部「夢幻歌」俳句短歌八百句首
  120 特三首〔精神は感動を母に・・・〕             
  121 (平成10年)
     
bP〜31  
  122 bR2〜64        
  123 65〜97        
  124 98〜129       
  125 130〜159      
  126 160〜193      
  127 (平成11年)
      194〜226
  128 227〜260      
  129 261〜293      
  130 294〜327      
  131 328〜361      
  132 362〜392      
  133 393〜423      
  134 424〜455      
  135 456〜491      
  136 492〜525      
  137 526〜558      
  138 559〜592      
  139 (平成12年)   
      
593〜619  
  140 620〜649      
  141 650〜681      
  142 682〜713      
  143 714〜747      
  144 748〜778      
  145 779〜800      
    第四部「夢幻歌」 了
  146 「家族」二首                戻る
  ─────────────────── 
 <頁>  <題目>                    
  147 第五部 「我詞独曲   
  148 マイメードソングについて 
  149  先生は名手の音楽    
  150  美味しい音楽      
  151 過程「歌」列挙三十一曲  
  152 「即興曲」について    
  153 創詞・曲 譜面集 全十曲 
  154 詞・もう一年後     
  155 曲・(同)    
  156 詞・天国        
  157 曲・(同)    
  158 詞・ずっと大阪     
  150 曲・(同)    
  160 詞・ときめき夏    
  161 曲・(同)    
  162 詞・一輪の美     
  163 曲・(同)    
  164 詞・女の子      
  164 曲・(同)    
  166 詞・ありがとう、と     
  167 曲・(同)    
  168 詞・六月 雨       
  169 曲・(同)    
  170 詞・子供の頃       
  171 曲・(同)    
  172 詞・          
  173 曲・(同)
 第五部 マイメードソング 了
       ★
  174〜178 「あとがき」   
  179 木の森
  180 著者のこと・近影     
       ★
 以上。平成13年2月18日当時。
                             戻る