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幼少期・・・初めてのゲポヨンと神経質の自覚
こういう話は暗くなりがちなので、なるべく陽気に書いてみたいと思います。
ちょっと長いけど日記ふうに気楽に読んで貰えたら嬉しいです(^.^)。
さて、ゲボヨン・・・そりゃ一体なにか? この説明から始めなくてはイケナイ。
早い話、これは『ゲロ』・・・吐くことである。
とくにこういう話に弱い神経質の方・・・、初っ端からゴメンナサイ。(^_^;)
でも、このゲボヨンが僕の神経質の舞台骨になっているので、書かない訳にはいかない。
僕にとっても、正直思い出したくない過去である。
ちなみにゲボヨンとは、うちの息子が乳児で吐きまくっていたとき、嫁ハンが名付けました。
以来我が家では、こう呼ぶ。変にナマナマしくなくていいでしょ?(^_^;)
あの日の記憶は、ゲボヨンしたことだけしか覚えていない。だから原因もワカラナイ。
親に聞いても「そう云えば、後にも先にもアレだけだった」と云うだけ。
乳児の頃から、あまりゲボヨンしない子だった事しか分からない。
歳は5才だったと思う。寝る支度をして布団に入った僕は、突然ムカツキを感じて、
傍に居た母親に助けを求めた。彼女は僕の顔色を見ると「少し我慢しなさい」と、
洗面器と新聞紙を持ってきた。僕は、洗面器を見るなりゲボヨンした・・・ようだ。
うわっ〜、なんじゃ、この味は・・・これが唯一の記憶。喉のあたりから口の中まで、
すっぱい味が蔓延している・・・。おぇッ。(*o*;)
幼児体験。これって、心に凄く焼き付く。みなさんにも覚えがあると思う。例えそれがトラウマ的にならなくても、
人間の感情や行動の多くは、この幼少期の体験や記憶に左右されているんじゃないだろうか。
その一件以来僕は少しずつ食べることに神経質になっていった。
普段は大食らい少年であったが、体調の悪いときや、遠足などになると、途端に小食になった。
やはり子供心にも、ゲボヨンに恐怖していたようである。
(注)記述に登場する病名は、赤字は医師に診断された症名。青字はそれに近いものを
筆者が参考までに付けた症名です。また診断による症名は、後年に判明されたもの。
食べ物の神経質にもイロイロあるけど、僕の場合幼少期は、人が箸や、手を付けたモノだった。
刺身や煮物なども、一人ひとりに皿盛りしてあれば良いが、ドンと大皿になって
「どうぞ」と云われると食べられなかった。そして親切に(その人の箸で)渡されたものなど、
鳥肌ものだった。 たとえ親の箸でも。(^_^;)
親はそれに対して、何も云わなかった。でも他人様や、事情を知らない人は、そうはいかない・・・
それは小学1年の夏、親戚の家に兄と2人で泊まったときのことだった。
その日の夕飯はアジの干物であった。僕は魚が好きで、夢中になって食べていた。
それを微笑ましく見ていたイトコが「私のもあげるよ」と、僕の茶碗に干物を置いてくれたのである。
その途端、僕は硬直して動けなくなった。アタマの中は真っ白。
「どうしょう」と心臓の動きだけが速かった。食卓は暫し沈黙。僕に注目。・・・。
「YUKI君。どうしたの? どうしちゃったのたの?!」。沈黙を破ったのは、干物をくれたイトコ。
彼女は放心した僕の顔を覗き込みながら、心配で泣きそうになっている。
「私なにか、悪いことした?」。僕、首を横に振るのが精一杯。何も云えない。
「××姉ちゃんの箸のせい」なんて、云える訳がない。
僕は兄に助けを求めた。視線を送ると彼は、目を逸らし茶碗で顔を隠してしまった。
どうしよう、何て云おう・・・。僕は半泣きで、茶碗の上の干物を凝視するしかなかった。
重たい空気のまま食事は再開。僕は、うつむいたまま・・・。
イトコは時々心配そうに僕を見ては、「食べな・・・」という表情をする。
ううっ、あまり気を遣わないで・・・余計にツライから・・・。(T_T)
「そうか。この子、神経質で、人が箸つけたものが食べられないって・・・
××子(母の名)から聞いたことあるわ」。そう云って沈黙を破ったのは伯母である。
するとイトコの顔が急に・・・。イトコは その年、小学校の教諭になったばかりのバリバリの先生。
宿題を見て貰うのは嬉しかったいが、怖〜い先生でもあった。
その彼女を怒らせてしまったのである。(T_T)
それから2時間、僕は茶碗を前に、どうすることもできず固まっていた。
当時は、熱血・根性論が流行っていたので、『神経質』という言葉自体がどこか後ろ暗かった。
イトコは そんなに怒っていなかったのかも知れないけど、
僕自身、そういう自分が嫌でたまらなかったのを覚えてる。
僕が自分は「神経質なんだ」と自覚したのは、このときのだと思う。
そして『神経質であること』が悪いこと、嫌われることであると、深く心に刻んだのも・・・。
食べること以外は普通以上に活発な少年だった。ところが小学5年の時、衝撃的な出来事が起きた。
学校の便器がオシッコで、真っ赤に染まったのである。
『なんじゃ、こりゃ!』 太陽にほえろ・松田優作ばりに、血尿を見て叫びたくなった。
急性腎炎・・・少年期には比較的多いらしいが、そんなこと云われても、あのときのショックは、
現在の疾病恐怖の立派な下地になっている。
小学卒業まで微熱と少量の出血は続いたが、休まず登校していた。
実はその頃クラス全員から無視されるというイジメに遭っていて、意地でも休みたくなかったのである。
まあ根性はあるけど、反面、嘔吐恐怖と疾病恐怖に悩む、苦しい小学時代だった。
イジメは飽きずに、その後も卒業までの、約2年も続いた。
嘔吐恐怖は僕の行動を大きく規制した。前述の通り、遠足や家族での外出による乗り物に強く不安を感じ、
尻込みしてしまうことも、しばしば。後年付けられた乗り物恐怖の一端は、既に始まっていたと云えるだろう。
中学になっても腎炎の治療は続いたが、運動は許された。
本当は野球部に入りたかったが、坊主頭がイヤだったし、地区では強いチームだったのでやめた。
気楽に楽しめないからである。僕は剣道部を選んだ。
毎日汗臭い防具をつけて、素足でグランドの隅を走っていた。何故剣道かと云うと、
単純に森田健作の『おれは男だ!』に憧れていたのである。
海こそなかったが、近くの河原で素振りをしたこともある。(^^)
しかしこの剣道部生活も長くは続かなかった。とんでもないことが発覚。
それは先端恐怖・・・ああ、ミジメ。
稽古で素振りはできるのだけど 向き合っての打ち合い稽古ができない。
中学では通常、中段の構え。つまり相手の竹刀の先は、自分の鼻先に向く。
その先端が怖くて仕方がないのである。
剣道部で竹刀の先端が怖いでは話しにもならない。
克服する方法もあったのかも知れないが、中学生の自分には どうしようもなかった。
退部届を出す。理由は、さすがに竹刀の先端が怖いから・・・とは云えなかった。
それから体調に変化が出始めた。楽しかった稽古も出来ず、授業が終わるとソソクサと帰宅する毎日。
ちょっとウツ気分。そして・・・
もともとトイレは近い方。
しかも医者から水分を多めに摂れと指示されていたので、休み時間ごとに用は足していた。
ところが、授業が始まるとまた尿意が・・・。
仕方なく断って、行かせて貰う。先生の失笑と、クラス仲間の冷やかしに遭いながら。
あの年頃は恥じらいの思春期で、その屈辱は今でも覚えている。
どうしちまったんだ、の思いより、悔しさが強かった。
その後も頻尿は続いた。毎時間、毎時間、飽きもせず。しかも1時間に、何度も・・・。(-_-;)
そして僕の席は廊下側の一番後ろに移され、黙ってトイレに行っても良いことになった。
でも許されたからといって、僕の屈辱が癒される訳ではない。
僕は益々萎縮して、物事への拘りを強く持つようになった。
頻尿はクラスの中で、僕のトイレが当たり前になった頃、自然と消えていた。
あれは何だったんだ、の思いはあったが、少し安堵したのを覚えている。
2年生になると、腎炎の通院治療も終わった。14歳。
それまで通った公立総合病院の「小児科」から「内科」に移るかの頃である。
知らなかったけど、小児科って、14歳までが対象だったのだ。チビッ子に混ざっての月1回の検診は恥ずかしかった。
最後まで、頻尿と腎炎の関係は解らなかった。けど、やはり神経症?
頻尿と通院から開放された僕は、さっそくスポーツに取り組んだ。
同志で集まり野球の同好会を作った。みんなアンチ野球部の連中である。
近くのグランドを占拠して、毎日、野球三昧した。この1年は比較的安定していたかも知れない。
しかし3年になると、また一つ。いや、二つ悩みが出来た。一つは女の子の視線恐怖。
僕には親しいYという友人が居た。彼は日本人離れした風貌でスポーツ万能、
勉強も出来て、ケンカも強いという奴。当然、女の子たちの憧れの的であった。
彼の行くところ、必ず女の子が群がっていた。
そんなある日、そのYが僕に云った。「おい。いまイイ話し聞いてきたぜ」。
「何?」「おお。オマエも結構モテてるよ」「なんだそれ?」「ああ、・・・」。
彼が聞いてきた話によると、彼は硬派銀次郎で、僕が玉三郎と女生徒の間では呼ばれているらしい。
「そのうち、何人かから告白されるぜ。楽しみにしとけや」。
タマサブロウ・・・自分が? 何故(・_・")? だって僕は自分が「女の子っぽい」なんて思ったことないぜ・・・
でもそう云えば、廊下を歩いていて「カワイイ」と云われたことがあった。あれがそうなの?
僕の心は硬直した。「男らしい」ならまだいいけど、タマちゃんは無いだろう。
猫だって、いまどきタマは居ないよ。(-_-;) その日から僕は女の子に視線を向けられなくなった。
目が合うのが怖かった。意識し過ぎて、会話すら出来なくなっていた。
普通の視線恐怖とは違うけど、「意識し過ぎて」というところは同じだろう。もっとも僕のは単なる自意識過剰かな。
自分が思うほど、人は考えちゃいないのである。でも、この恐怖症、なんとなく分かるなぁ。自分がどう思われてるかって、
とても重要なことだもんネ。で、僕のこの症状は、自分の好きな相手が両思いだと判り、付き合うようになった半年ぐらいで
自然に消えてしまった。彼女が見てくれたら、人の目なんて・・・何とも判り易い奴である^^;
しかしもう一つの悩みは深刻だった。どういう風に表現してよいのか・・・要は朝礼卒倒恐怖である。
朝礼で倒れるのは、女の子が相場らしい(?)が、僕も何度か気分が悪くヘタリ込みたいことがあった。
そんなある朝、云いようのない不安に駆られて「朝礼です」の放送に、教室から家に逃げ帰ってしまった。
どんな言い訳をして帰ったかは、覚えていない。あとから担任に電話で呼ばれて学校に戻ったけど、
もうその日から朝礼や集会に出ることができなくなった。
前述のYが気のいい奴で、僕を何かと庇ってくれた。その好意が良かったのかどうか判らないが、
僕は、朝礼や集会のとき、何時も教室の隅に隠れて時間が過ぎるのを待っていた。
一度恐怖心を持つと、予期不安が働いて、どうにも自分を抑えられなくなるときがある。
「またなるのでは」を持ちながらの改善はツライ。でも『不安常駐』。不安を持ちながらも、勇気を出して向かわなと、
いつまでも成功したときの喜びは得られず、積み上がるのは自己嫌悪のみである。
ゞ(・・;)
話は、いきなり高校時代へ、飛びます、飛びます。(^-^;ジローさんかい。(笑)
初めの高校は地元の工業高校だった。
相変わらず乗り物恐怖、嘔吐恐怖が続いており、遠くまで行くことが出来なかったのである。
自転車で15分。手頃な距離という理由でそこを選んだ。
が、ここでオゾマシイ事件が続発。 人間不信に・・・(-_-;)
まず・・・入学して初めての休日に、僕はどうしても地下鉄に乗ることになった。
少し混んだ車両に思い切って乗り込む。まあ、それはそれで何とかなった。
やってみると、こんなものかな。でも不安だ。
座席は空いていたけど、僕は何時でも降りられるようにと、ドアにもたれて立っていた。
次の駅で少し混み加減になってきた。こんな処で気分が悪くなったらイヤだなぁ(-_-;)・・・
また不安が強まったとき、お尻から腰の辺りに手の感触が・・・なんだ?
と、思う間もなく、その手は僕の股間をまさぐり始めた。痴漢? まさか。(^_^;)
僕は男だし。でも、この手は・・・押し付けてくる身体、荒い息遣い。これも男だ。
ゾッ、ゾゾゾゾゾッ・・・。恐る恐る振り向くと、そこには中年男の顔があった。
彼は目が合うとニコッリと笑い「次で降りて、オジサンと遊ばないか・・・」と囁くように云った。(-"-#)
不安を治めてくれたのは感謝するけど・・・やめてくれぇ〜。(T_T) でも神経質の不安ってそんなものなんだ。
他に注意が向いてしまうと忘れてしまう。本当に危機的な不安だったら、例え痴漢に遭おうが、
気持ちは不安のほうに釘付けになる筈である。
その頃から学校でも、誘われるようになった。
上級生から手紙を貰ったり、廊下で手を握られたり、抱きつかれたり。
相手が女の子からだったら嬉しいけど^^;)、でもココは男子校。
つまり相手は『お・と・こ』である。なんとも云えぬ不快で憂鬱な毎日だった。
部活(野球)も出たくなかった。手を握る先輩がココにいるのだ。(ーー;)
そしてある昼休み、決定的な事件が・・・。
その日も何時ものように、昼食を済ませ屋上で昼寝をしていた。心地よい天気で気分も爽やか。( ^^)
すると なにやら人の気配が・・・と思うや・・・うっ。(*_*)
(なっ、なにおするんだ!)←心の叫び・・・言葉が出せない。
ク、クチが相手のクチにふさがれて、しゃべれない・・・き、キスされている。思い出すのもおぞましい(-_-;)
奴は同じクラスのSだった。
よく「YUKI、キスしようよ」とは云ってたけど、まさかホントにするとは・・・
僕は気色悪さにくちを何度も拭い、うがいを繰り返した。でもあのヌメとした不快な感触は消えない。
な、なんチュ〜ことをしてくれるんじゃい!(ーー;)
それからしばらく思い出すたび不快になって、「拭う」と「うがい」をしないと居られなかった。
いまも程度は軽いが、いちど不快や不安を感じてしまうと、手とか食器とかを、何度も洗っていることがある。
これが強迫神経症の強迫行為なのかなぁ・・・と思いながら。(T_T)
不安定な気持ちのまま、その高校は辞めた。とても続ける気にはなれなかった。
勿論親には手を握られただの、キスされただのとは云えないから、普通科高校に行きたいとだけ説明して。
ちょうどその冬に母親が病気で寝込んでいたので、家事をしながら近所にある定時制へ再入学することにした。
兄はもう家には居なかったし、逃げ込むには都合が良かった。
そう、逃げていた。周囲を気にし過ぎたり、物事に神経質過ぎる自分に手を焼いて、疲れきっていたのである。
もちろん疲れたときには、そんな時間も必要なのかも知れない。でも逃げてきたのなら、その問題と向き合うこともしないと、
ますます追い込まれてしまう。もっとも当時の自分には、次々と自分を襲う症状に原因があるなんてことは分かりもしなかったが・・・。
しかし家の中はギクシャクしている。僕の出来る家事などタカが知れてる。
やはりどんなに頑張ったところで、親や妻や娘にはなれないのである。
これといった大きな衝突もなかったが、家に居るのが段々と気詰まりになってきた。
学校にも慣れ、友だちができると、遊び歩き午前様になることが多くなった。
しかし何時も深夜まで遊べる友だちは限られている。僕と同じプータローか、
仕事はしていても何かと問題行動を繰り返している連中である。
シンナーを一升瓶に詰めて登校する奴、バイクを盗んでは乗り回す奴。
みんな個々には優しく気の良い性格なのだけど、徒党を組むとイキナリ大胆になると云うか・・・(^_^;)
僕は彼らに心から馴染むことが出来ず、気持ちが満たされることは無かった。
むしろ彼らの生き方を軽蔑している自分に、自己嫌悪を募らせていた。
いま思えば、彼らも家庭環境などに、様々な葛藤を抱えていたのだと思う。
つまり僕と同じ向き合うこと以前に、その問題すら気付けず、もがいてる状態・・・。
仲間を軽蔑することの罪悪感。同時にそれは自分自身に向けた軽蔑でもあった。深い嫌悪感の理由だろう。
体調が悪くなったのは夏休み直前だった。
家に居ても仕方がないし、学校に行くのもツライ。そんな足を引きずるような登校が続いていた。
あと少しで夏休み。ツライ学校でも、少しは気晴らしになるのに。長い夏休みをどう過ごそうか。
家以外に行く宛てのない僕の憂鬱は、すでに頂点に達していた。
そんなとき初めてのヒステリー麻痺を経験した。もう遊び歩く元気もなく、
帰宅しようと下駄箱に手を伸ばしたときだった。
全身、いや、初めは手と足の筋肉が金縛りのように、動かなくなった。
全身の血の流れが止まって、自分が蝋人形になってしまった・・・そんな感じ。
不思議と気持ちは静かだった。でも、どうなるんだろう、という不安とは違う戸惑いはあった。
時間にしたら2〜3秒? しかし、長く感じた。麻痺から開放されると、ウソのように動けた。
その日は、その一回だけだった。 何だったんだろう・・・
今ならそれは、ゴタゴタした家へ帰りたくないヒステリー症状だと解釈できるが、もちろん当時は分かろうはずもない・・・(-_-;)
麻痺はそれから起こらなかった。たぶん疲れていたからだろう。
そう云って自分の中では消化していた。
しかし夏休みも10日を過ぎた八月の初めに、再び麻痺が襲ってきた。前よりも激しかった。
ちょうど風呂掃除をしていた僕は、浴槽のフチに手をついたまま金縛りになった。
全身の筋肉が硬直している。まばたきも出来ない。声も出せない。
このときはさすがに、あわてた。どう説明がつくのだろう・・・疲労? いや、そんなことはない。
それからの僕は頻繁に、この麻痺に襲われることになる。食事のときも、歩くときも、頬杖をつくときさえも・・・
この麻痺症状は、その後、激しい状態が1年、完全に治まるまでに3年の月日を要した。
原因を突き止める勇気もなく、悪い病気を疑って弱気になったことも・・・。
ただ冷静な自分もあって、麻痺が起こるパターンを分析してもいた。
いや、それ以前に、原因には気付いていたのかも知れない・・・。
母親の具合もかなり良くなって来たので、僕は思い切って仕事に出ることにした。
家に居ると調子が悪いのだから・・・の単純な発想である。
級友が郵便局で非常勤をしていたので、紹介して貰うことにした。
仕事は何でも良かったが、なるべく自分を律せる堅い仕事が良いと思った。
ちょうど夏休みで職員が手薄な期間だったので、すんなりと採用は決まった。
ただし夏休み限定。
僕にはそれでも良かった。とにかく麻痺を取るヒントに、確証を掴みたかったのである。
その当時は組合運動が盛んで、郵便局は荒れていた。全国で様々な内部衝突があって、
毎日のように新聞を『××局。いやがらせ 組合員、ペンキ巻く』のような三面記事で飾っていた。
でも贅沢は云えない。そのお陰で雇って貰えたようなものだし・・・
麻痺症状は変わらなかった。しかし、仕事をしていると麻痺しない時間も多くなった。
一時は悪性の病気を心配して、国立病院の受付まで行ったが、とりあえず倒れるまでやってみようと思った。
ホントは診察が怖かっただけ(^^;)
仕事は運送屋さんの郵便車に同乗して、各ポスト、特定局(町の郵便局)を回ること。
一日に4回。合間に速達の配達。忙しかったが充実していた。
しかし・・・またここで苦しみが・・・。同乗する。つまり乗り物である。
しかも、運転手さんは、郵便局を敵(?)にまわす側の組合員たち・・・。(^_^;)
この仕事、いまでは運送業者か、郵便局員によるワンマン業務になっているが、当時は2人作業だった。
局内では、この同乗作業は嫌われていたみたい。なので僕のような非常勤の、しかも新人に「おはち」が回ってくる・・・
いやがらせ、ではないのだろうが、嫌味を云われたり、少しでも出発時間に遅れると怒鳴られた
(悪いとは思うけど、こっちは配達もしてるんだ!(ーー;))
そして、ふと憂鬱になったとき、急にあの嘔吐恐怖・乗り物恐怖が・・・。
僕が発作でゼイゼイしていると、さすがに驚いた運転手さんが、車を停めて「大丈夫か?」と休ませてくれた。
「オマエ、身体悪いのか?」「いえ」。
僕は時間に遅れるから走ってくれと頼み、「上司には黙っておいて」と頼んだ。
彼は「まあ、死なない病気ならいいけど」と笑いかけてくれた。
それから数日は乗務できたが、食べることが出来なくなり、上司に別の仕事を希望することに。
いまの自分なら、どうだろう。やっぱり逃げてしまうのだろうか。
しかし、この神経症というやつは、わかっていても、どうにもできない部分があって、難しい。人から見れば「逃げ」でも・・・。
相変わらず麻痺症状はあったが、配達だけの仕事になると、気晴らしもできるので楽だった。
朝8時から仕分け、9時頃から配達。当時は午前と午後の二回。一号便・二号便と同じ箇所を回った。いまは一度らしい・・・。
何にしても自分のペースで仕事ができるのが嬉しい。そして4時半には「あがれる」ので学校も楽に行けて、二度嬉しい。(^.^)
組合衝突のお陰でシフトに空きがあり、長期で働けるようになった。
仕事にも慣れ気分的な余裕もでてきた。何となく事態が好転すると、体調も良くなるようだ。
麻痺も気にならない程度だし、他の不安症状も安定している。月給で念願のステレオも買った♪(^o^)
でも、ひとつだけ乗り越えられないものがあった。
それは家のこと。父親に対する気持ちである。
その頃僕は父親に反抗的で、父の箸の上げ下ろしにも難癖をつけては両親を困らせていた。
このままでは自分は父親を殺してしまうのではないか、そんな不安に駆られることもあった。
距離を置きたい。
気持ちの中は、それしかなかった。
気が小さく、子供には優しい父親であったが、祖母にツラク当たり、母親に我儘ばかり云う彼がイヤだった。
いまにすれば父親だけが悪い訳じゃない側面もわかるし、単なる反抗期だったことも分かる。
要は、父親を超えようとしていたのだ。 誰もが通る道筋だったのである。
働き出して1年を過ぎた頃、僕は一人暮らしをしてみよう、と決めた。
母親に相談すると、快くOKを出してくれた。(もちろん悩んだと思うが)
父親には母親が説得してくれた。
とにかく動き出すしかない。 自分の中には、もう、それだけしかなかった。
引越しや、学校(通信制への転校)手続き等、落ち着かない日が続いた。
でも心配した不安症状や麻痺は、おとなしくしていてくれた。
他の物事に注意が向いていれば、症状は起こらないことの証明だったかも知れない。
もっとも当時は森田療法も知らず、そこまで考えてもいない。
単純に「忙しかったから、症状も出る暇がなかったのかな」ぐらいのお気楽な感想である。(苦笑)
まあ強いて云えば、自宅から離れたことでの「開放感のお陰」とは思っていたかな。(^_^;)
新しい職場も、また郵便局である。
そこで、また少し不安が出た。「自分はここでやっていけるのか」の、適応不安みたいなものが。
そしてやや疲れも出て、麻痺や嘔吐恐怖が遊びにきたりもした。
でも職場は前の局とは雲泥の差の静けさ。組合活動はあったけど、軽い口論程度だった。
前の局では、掴み合いは日常茶飯事。 歩いてくる管理職の足を引っ掛け、転ばせて背中にツパを吐くなんてことも度々あった。(^^;)
仕事は楽しかった。小さな町だったので担当エリアも、覚えやすかった。
郊外の閑静な住宅街、それと大学もあったから学生街かな。有名な作家さんや、画家さん、
それと漫画家さんの自宅や、仕事場もあった。住むにもいい環境だったと思う。
僕はすぐに仕事も、町も好きになった。ここなら症状に悩まずやっていけるかな・・・
おかしなもので、離れてみるとムショウに父親の声が聴きたくなり、よく電話をした。僕は彼に何かを求めていたようである。
症状が緩和した ゆとりもあったかも。ともあれ、父子関係も落ち着いた。
毎日自転車をこいで、様々な人と言葉を交わすのが好きだった。
「ご苦労さん」とお茶(夏の麦茶は有り難い)を出してくれる人もいた。
そんな毎日に満足すると、何故かヒステリー症状も消えていた。気付かないうちに・・・。
僕はこのとき初めて、心から人に感謝する気持ちを感じた。
あのときもし母親が、僕の話を聞き入れてくれなかったら、ここでの僕は存在しなかった。 そうしたら、今ごろ僕は・・・。
人生に「・・・たら。・・・れば。」は無い。
でも、切り開くことはできる。我儘と云われても、自分の気持ちに素直に従ってみることも必要かも知れない。
勿論、感謝とフォローは忘れずに。(^-^)
そして休み時間のキャッチボールや、勤務後の野球の練習。
これが何よりの楽しみとなった。
人間関係は、組合の問題に限られていた。どっちの組合員になるか、どっちの組合員と親しくするか、
上司の目はその一点に絞られていたし。野球をするのは違う組合員(局と敵対する側)たちとだったので、
度々、課長から注意を受けた。面倒だった・・・。
そんなある日、試合に出てみないか、と誘われた。
少し躊躇もあった。やはり症状が気になった。
良くなってると云っても、麻痺も不安症状も残っていたし、そんな自分が試合に出られるのか、怖かった。
しばらく考えて・・・葛藤もあったが、心は傾いていた。
なにしろ心が弾んでいたし。ケ・セラ・セラ、なるようになる・・・
僕は自分の気持ちに正直に動いてみようと思った。
なんとなく生まれて初めて、晴ればれとした気持ちになれた気がした。
郵便局での肉体労働が、知らず知らずのうちに、僕の体力的自信を回復させてくれていたように思う。
そうでなければ、この話は未練を残しながらも、たぶん断っていただろだろ。
何でも「やってみる」。そんな前向きな気持ちが実を結んだ。いまなら素直にそう評価できる。
バイトをしようと思ったこと、一人暮らしをしようと思ったこと・・・。
それは無意識だったのかもしれないけど、物事の好循環とは、やはり前向きな気持ちから生まれるものである。 と確信している。
少し長篇になり過ぎですネ^^;)。でもこれで まだ全体の1/3なのです。
本当は編集してカットしてしまおうか、と思ったのですが、
なるべく当時の気持ちや状態を表現したかったので、書き流したまま掲載してみます。
尚、青いの小さな文字は、当時を振り返った、現在においての気持ちです。
ここまで読んで頂き、ありがとうこざいました。m(_ _)m
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