極楽とんぼの神経質 

                              


         
   幼少期篇       初めてのゲボヨンと神経質の自覚

           怒涛の十代篇    頻尿とヒステリー麻痺に悩む

          花の二十代篇   比較的安定期、しかし・・・

          嵐の三十代篇   神経症・恐怖症群とパニック障害

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花の二十代・・比較的安定期 しかし・・・




 まだ僕は19歳です。郵便局の仕事にも恵まれ、野球を楽しむ毎日が続いています。

 肉体労働と野球のお陰で、16歳の頃172cmだった身長も183cmになりました。

 体重も73キロから、88キロに。←ちょっと太りすぎ?(^_^;)でも筋肉マンだよー。(笑)

 嘔吐恐怖があるとは云え、食べ盛り(?)でしたからネ。

 夏場の昼食では1ヶ月間、毎日うな重を食べ続け、上司の失笑を買ったこともあります。

 財布もカラッポ。(^○^;

 でも食べられる自分が嬉しくて、仕方がなかったのです。

 そしてよく遊び、よく飲み歩きました・・・ちょっと羽目を外し過ぎたかも・・・。(^_^;)



 二十歳の誕生日を間近にした5月の連休である。休み中は連日早朝から野球三昧。

 日が暮れると、飲み歩いていた。

 そして「明日からまた仕事だ」と思った晩に、ちょっとした、いや、身体に大きな異変を感じた・・・

 足腰が異常に重い、気分が悪い、目がかすむ・・・疲れてるんだ、きっと。でも・・・。

 動けないことはない。吐くほどのこともない。しかし・・・(+_+)

 そんな状態で一週間。微熱も続いていた。

 その頃は麻痺症状もすっかり消失し、嘔吐恐怖も忘れるほど順調だったので、

 この不調が余計に気になり不安が広がった。

 そして「大丈夫だろうか」と思った瞬間、僕は「どうなるんだ」という不安と、

 「吐きたくない」恐怖で、パニック状態になった。

 それは三十代過ぎてからのパニック発作とは違ったカタチだった。

 「病気=死」という図式で、極度の興奮状態になったのだと思う。

 もちろん、神経症による不安、パニック障害であったことは、同じだけど・・・そのカタチの違いは、次の章で。

 寝ていることも出来ず、立っていることも出来ず、一晩中、部屋の中を歩き回っていた。

 時々、大きな不安が起こると「どうなるんだ!」と、心の中で(たぶん)叫んでいた。

 まんじりともしないまま、朝になった。とにかく医者に行ってみよう。

 僕は休みをもらうと、近くの病院へ行くことにした。

 血液や尿を取り、2日後に検査結果が出ると云われた。 

 「まあ、結果待ちだけど、診た感じ肝臓かなぁ。不安症状のことは、精神科でネ」。

 僕はカルテを持たされ、精神科へ回された。初めての精神科である。

 その頃はまだ、精神科には大きな社会的偏見があって、とても暗いイメージが僕にもあった。

 まあ、詳しく書いていると大変なので、その話は、機会があれば別のところで・・・。 

 診察では今の状態と、家族構成、そして以前からの症状を聴かれた。

 残念なことに場の雰囲気と、体調の悪さで、診断名は聞き漏らしてしまっている。

 たぶん症名は違っている(あるいは、変っている)かも知れないが不安神経症(?)だったかも・・・。

 出されたクスリは、安定剤(当時の説明は、その程度だった)・・・いまの抗不安薬? いや抗うつ薬かも。

 なにせその頃は、症状に悩みながらも、あまり関心を持ちたくない(意識的に避けていた)分野だったので、良く覚えていない。残念・・・。

 そして2日後に出された内科での診断は、肝機能障害だった。その間 食欲はほとんど無く、

 (吐き気になるのが怖かった、そして実際食欲も無い)、仕事を休んで、死んだようにしていた。

 母親が駆けつけて泊り込みで看病してくれたが、すり下ろしたリンゴと、スープを飲むのが精一杯である。

 休日に父親も来てくれた。

 3人で話すうちに、病気のせいもあってか、すっかり里心がついてしまった。

 しかし悪態ついて出て来た手前、帰りたいとも云えない。

 でも父親の「少し家に帰って静養しないか」の言葉に、思わず涙ぐんで素直に、うなづいていた。

 体調の悪いときは、本当に心細いものである。

 こんなとき、家族の有り難さ、親の有り難さを、しみじみ感じた。
                                          

                                  (+_+)(T_T)(^.^)



 自宅に戻って、近くの内科病院で治療を続けることになった。

 精神科には行かなかった。まだ向き合う気持ちになれなかった。

 職場には、休職願いを持参し、しばらく休ませてください、と挨拶した。

 アパートも、そのままにした。 仕事、野球・・・その町での生活に、まだ未練があったので、

 すべて引き上げる気持ちにはなれなかったのである。

 回復は早かったけど、視力障害(?)が残った。両目とも視力が戻らず、困ってしまった。

 結局これは治らず、メガネをかけるしかなかった。

 それから、また嘔吐恐怖が復活してしまった。

 それと疾病恐怖・・・風邪をひいた人の傍には近寄れず、手を執拗に洗った。

 ちょっとした体調の変化に敏感になり、肝臓の検査値は戻っても、

 なかなか布団から離れられない状態になってしまった。

 反面、外に出たい欲求も強く、葛藤した。

 当時付き合っていた彼女にも会いたかったし・・・

 いろいろありながらも、彼女だけは何時もキチンと、居たりする・・・(^_^;)。(笑)

 やはり恋人の存在は、僕には大きかった。考えてみたら、僕は常に『彼女たち』に救われていたのかも知れない。感謝感謝。(^人^)

 高校はあと1年残っていたが、大検(大学入学資格検定試験)を受けてみることにした。

 クラス担任は、「高卒」と「高卒程度」では違うと猛反対したが、とりあえず受けてみるだけ・・・

 ということで、単位認定書をもらった。

 焦りというより、何か目的が欲しかったのである。

 そうでないと、何処までも症状に身を隠してしまうようで怖かった。

 ものの弾みなのか、試験を受けると決めると、次々と「やりたいこと」が持ち上がる・・・

 クルマの免許、バイクの免許が欲しいと思った。

 神経質は欲張りである。そう思ったら、止まらない。父親に無心して、教習所のお金を出してもらう。

 我儘な話だが、そうした「動きたい」と思う気持ちは、神経症では見逃せない回復のサインではないか。

 受験勉強と、教習所通いが始まった。

 もっとも大検の試験は、もう間近。

 願書を送ったのが、遅かったせいもあるが、準備期間は殆ど無かった。

 何教科受験したのか覚えていない。たしか6〜7教科ぐらい? しかし昔から悪運の強い奴で、どうにか受かってしまった・・・(^^;)

 秋が深まった11月。教習所通いも終わろうとしていた。

 勢いで申し込んだ教習所だったが、さて乗車の段になって、とんでもないことを思い出してしまった。

 自分は乗り物恐怖だったのである・・・

 このへんのトンチンカンな性格が、あまり神経症を深めなかった最大の理由かも・・・。 

 もう後には退けない。とにかく乗ってみよう・・・清水の舞台である。

 しかし何度か乗っているうちに、不安になる状態にもパターンがあることを発見した。

 これが後々に僕の人生を大きく救ってくれた・・・。

 自分がハンドルを握っているときは、不安もなにも感じない。

 しかし指導員が運転すると・・・(*_*;)になる・・・。つまり自分が走らせる分には、乗り物恐怖もOKなのである。

 この話は良く耳にする。運転の緊張感で不安になることを忘れてしまうのだ。僕も例外では無かった訳である。

 でも、もうひとつ僕の場合あの郵便車の記憶かも知れない・・・とも。 

 しかしこの運命が開けそうな話は、まだ本人には関係なさそうである。その前にするべきことが・・・そう、この教習所を卒業しなくては・・・。

 所内は良かったが、路上に出るとコースまで指導員が運転する。あの時間が苦しかった。

 蹴飛ばして「僕が運転して行きマス」と叫びたかった。(笑)

 「早くしてくれ〜。早くコースへ行くんだ」。車中でグチャグチャ説教タレル指導員の言葉など耳に入らない。 

 とにかく自分がハンドルを握ることしか、頭にないのである。(^_^;) 

 そんな訳で、教習車でも運転中は異常にリラックスできてしまい・・・肘付き運転、無理な追い越し、

 速度違反などで、教習時間は合計42時間を数えたのでありました。(^^;)ジャンジャン

 クルマとバイクは、僕にとって素晴らしく大きな存在となった。 

 なにせ、それまでチャリンコで移動できる範囲が、僕の世界だった。

 それが一気に広がったのである。

 もう中国だろうが、アメリカだろうが、自分の足で行けるような、そんな嬉しさだった。(笑)

 『寝食を忘れる』という言葉があるけど、まさにソレであった。

 休日、夜間問わず走り回った。初めて借金して買った中古車は、1年で二万キロを越えた。

 どうやら人間好きなことをしているときは、症状も忘れているようである・・・。(^_^;)


                                      (*^^*)

 さて二十歳代の10年間に、僕はバイトを含めて5箇所の仕事に就いた。

 そして大学への進学。さらに森田療法と、心理学との出会い。

 その中で様々な人たちとの別れも経験したけど、やはりふたりの肉親との惜別が

 いちばん僕の心身に影響を与えたように思う。

 祖母を亡くしたのは、僕が自宅に戻った翌年。自動車免許を取得し浮かれていた冬のことである。

 彼女は神経症者であり、常に安定剤・・・やはり当時は、そう呼ばれていた。 僕も何度か服用したことがあるが、

 異常に身体がシビレて、眠くなるクスリだった。僕もいろいろ飲まされたけど、いまだにあんな痺れるクスリは経験したことないなぁ・・・

 を服用していた。僕は隔世遺伝で、彼女に似たのかも知れない。

 僕は「おばあちゃん子」だったけど、反面、彼女を見てると歯痒くツライ感じがした。

 それは同じ匂いを感じていたからだと思う。

 何時も心に祖母のように生きたくない・・・そんな気持ちを持っていたようだ。

 もしかしたら、僕が現在も負けずに頑張っていられるのは、彼女のお陰かも知れない。

 それほど彼女の晩年は、神経症に振り回されていた。

 祖母は90歳の誕生日の2週間前に、突然逝った。老衰による心不全。

 僕は何故か、泣けなかった。 とても好きな人との別れだったのに。



 祖母の死から5年。

 今度は、父親を癌で亡くした。 膵臓を原発にしたリンパ腺腫瘍。

 告知を受けたときには、唖然とした。あと3ヵ月の生命だと云う。 

 両足に赤斑(内出血のアザ)が沢山できて、町医者に掛ったのが4ヶ月前。

 そのときは肝臓の疲労だろうと云われてた。

 そして足の付け根が痛み出し、激痛になって、この病院に来た。

 そのほんの数ヶ月に、彼の身体はそれほど蝕まれていたのである。

 夜中に叫ぶほどの激痛に耐えながら、彼は最後まで会社に通い続けた。

 僕はそんな父親を誇りに思うようになっていた。

 入院して僕は、彼と初めて会話らしい会話をした。

 家族への気持ち、僕ら子供への気持ち。それらを父親は堰を切ったように話続ける。

 彼は無頓着で、無口だったのでは無く、仕事で話す余裕もなかったのだ。

 それから間もなく、彼は全身の痛みに堪えながら逝った。

 59歳と6ヵ月。

 やはり僕は「お疲れ様。もっと話たかったね」と云ったきり、泣くことは出来なかった。

 僕のふたりに対する喪失感情は、周りから観れば冷淡に映ったかも知れない。

 僕自身、葬儀のことや、これからの生活のことに気持ちを向けていたようにも思う。

 勿論それは現実のことだし、仕方の無いことだけど、本当は彼らの死を認めたくなかったのも知れない。

 泣いてしまえば、死を認めることになる。だから泣きたくなかった。 

 もしあのとき、泣いてふたりの死を認めていれば、僕の死生観は、もっと違うものになっていただろう。

 人間は生まれて、やがて死するものではなく、生を受けた瞬間に死を背負っている。 

 僕の三十代での苦しみは、ここで受け入れられなかった「死」に対する恐怖だったのかも知れない。





 お疲れ様でした。ここまで読んで頂き、ありがとうございました。m(_ _)m

 テーマが「神経質」ですので、大学や仕事のことは割愛しました。

 もちろん、いろんなことがありました。

 でも20代も相変わらずの神経質ではありましたが、10代の反動か、

 はたまた少し体調も良かったせいか、比較的安定して過ごせた時期だったと思います。

 でもそのぶん怠けて、宿題を残してしまいました。

 それは自分自身や、神経症と向き合うことでした。 

 さて、いよいよ現在に至る30代です。

 どの様な話になるのでしょうか。(^^)




  

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