極楽とんぼの神経質 
                               


         
   幼少期篇       初めてのゲボヨンと神経質の自覚

          怒涛の十代篇    頻尿とヒステリー麻痺に悩む

          花の二十代篇   比較的安定期、しかし・・・

          嵐の三十代篇   神経症・恐怖症群とパニック障害

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嵐の三十代・・・神経症・恐怖症群とパニック障害





  30歳の僕は、製造会社の工場で、製品管理の仕事をしています。

 プライベートでは神経質な自分の為に、森田療法や心理学を学ぶ毎日。

 そしてゴタゴタ劇の末の結婚と、いろいろ多忙です。 

 そうですね、当時いちばんツラかったのは、世に云う嫁姑の板挟みと、

 絶縁状態にあったカミサンの実家との「今後の問題(付き合い方)」でしょうか。

 そんな背景を持ちながら、32歳で長男が生まれます。

 話はそこから始まります・・・





 いまある症状は、乗り物恐怖ぐらいだろうか・・・うちの会社は設備機械の製造だったので、

 現場の下見や、設置工事の立会いなど、結構出張が多かった。 

 僕は鉄道による出張を避けるため、時間を読みながら早朝トラックに乗って、よく現場へ出掛けた。

 自分の運転なら大丈夫。これは大変な助けになったが、反面、何時までも症状と向き合えない原因であったかも・・・。

 長男が生まれたとき、妻の実家には連絡を入れておいた。

 いくら結婚を反対され絶縁状態にあっても、やはり知らせるべきだと思ったのだ。

 しばらくして義父から出産祝いと、手紙が届いた。

 「これを機会に話し合わないか」そんな内容だった。

 イザコザの経緯等は、省きます。ただ絶縁状態と云っても、こちらから連絡を取らなかっただけで、結婚当初から、

 いろいろな荷物(農家なので米・野菜など)は毎月のように送られてきていた。当時は大変助かりしました。m(_ _)m

 僕は義父たちに孫を抱かせたい気持ちがあり、意地を張っても妻も同じだと思ったので、

 毎日彼女と そんな話をしていた。

 そして長男が1歳になった頃、ようやく帰省することになった。

 本当は往路をクルマで移動したかったけど、子供にしたら10時間800キロの距離はツライだろう。

 でも乗り物が・・・。(+_+)

 僕は散々迷ったが、母子だけで行かせる訳にもと、鉄道での移動を決意した。

 そう、まさに決意と決行。それは既に切符を買う段から始まっている。

 「××まで、大人2人・・・出口、トイレに近い席でお願いします」「??? 」

 「あります?」「えーっと、禁煙席とかでは無く?」「トイレになるべく近く^^;」。

 おポンチな会話だが実話である。最近の職員さんは親切だから、懸命に探してくれた。

 とにかくせめて、条件を「より良く」したい。その一心なのだ。

 それでも僕の場合、リクライニング出来るシートなら、だいたいOKである。

 ふつうバスにしても電車にしても「すぐ降りられる」が条件になるが、僕は降りられなくても、眠れたらの口である。

 だから路線バスより観光バス。通勤電車より特急電車のほうが、まだ抵抗は少なかった。

 そんな実家との往復が2度。

 そして今度は「こっちで、お前たちの披露宴の真似事をしたい」と連絡が入った。

 つまり親戚一同との顔合わせである。これには少し困惑した。

 いや、顔合わせはしたいのだが、緊張の度合いが違うのである。

 しかし「うん」も「スン」もない。行くしかないのだ。

 今度はリラックス度を増すために寝台車で行くことに・・・。

 いろいろと策略しないと、気が済まない神経質(自爆)。




 ちょうどその頃、会社で異動があった。工場の製造責任者の交代である。

 僕は製品管理の責任者。とてもややこしい。仕事も重複している。

 なので、かなり衝突した。

 要は、どうしても「出荷したい」僕と、そんな無理な日程に「間に合わない」彼との一騎打ち。

 それでも4年もすれば喧嘩も飽きる。(苦笑) 僕らはとても仲良しになっていた。

 その彼が異動で、遠隔地の工場へ行くのである。

 そして今度着任して来るのは、取締役工場長・・・重役である。

 まあ、それは誰でも良いのだが、社内には様々な派閥があって、僕らの工場にはアンチ派の人なのだ。

 この異動がこのあと平穏だった工場に嵐を呼び、僕の体調に大きな影響を与えることになる。

 一般的にも神経質(神経症者)は、物事の変化を好まない。何時も一定に保たれた環境が好き。

 旅行より、家でノンビリ。冒険より、家で平穏なのである。 何故なら環境の変化は、不安も大きく、動揺して、具合が悪くなるから・・・。

 この工場長の好かれない理由は、陰口と嫌味だった。何時も何かを云わないと気が済まない。

 そして居合わせない人間のことを、容赦なく陰口する。

 その聞き役は、ほとんど僕だった。事務所で一日中、グチグチと聞かされた。

 何よりもツライのは、事務所に監禁されたこと・・・「工場には一切出るな!」と命令されてしまったことである。

 それまで僕は、作業服で工場に出ることによって本社と工場のパイプ役を務めてきた。

 そうすることによって上からの指令を、下が円滑に遂行できるからである。

 それと、そうすることで、僕自身もストレス解消していた。

 それを禁止されたものだから、作業員たちの不満と、僕のストレスが一気に爆裂スタンバイ状態に陥ってしまった。

 とくに工場長は、前任者を嫌っており、彼の悪口が好きだった。そして彼の仕事のやり方、つまりそれまでの工程を、塗り替えようとした。

 こんな背景があるから、現場作業員や、僕のストレスが溜まったのも道理である。(-_-;)

 工場内の荒れが出荷・売上に影響するまで、そう時間は要らなかった。

 僕は本社に呼ばれ、その説明を求められた。しかし云える訳がない。

 例えそこで工場長の責任と云ったところで、聞き入れてもらえるだろうか・・・。

 そして悪循環は続くもの。

 工場長が出張中に、作業員が事故を起こし、大怪我をしてしまったのである。

 工場責任者の次席は僕。つまり事故の後始末は僕に覆い被さる・・・

 ラインを替えた本人は涼しげに「大変だなぁ」とほざく・・・たまったものじゃない。(ーー;)

 そして、後始末の日が妻の実家への出発の日。ストレス満開の春である。

 なんだかグチのコーナーになってしまった^^;)。


                                      (*_*;)




 病院の手続きや、本社への始末書を書き、急いで帰宅。もうクタクタで眠りたい気分である。(+_+)

 寝台特急の時間も迫っており、タクシーで駅へ。

 乗り物恐怖、疲労、風邪気味、悪天候、宴会プレッシャー・・・。

 ひとつだけでも重いのに四十苦、五十苦である。

 タクシーの中で気分が悪くなった。

 駅に着いてもヘロヘロ。歩くのもツライ。これから10時間の列車旅だ。

 いくら寝台車とは云え、不安が募る・・・。(-_-;)

 結局車中では気分の悪いままで、食事も満足に摂れず、眠れずで、明け方到着した。

 軽く朝食をもらい、ゴロゴロと横にならせてもらう。

 が、宴会は昼から・・・その準備でガタガタして眠れない。

 「ああ、これで今夜も徹夜かよぉ・・・」。もう泣きそう。 しかし、容赦なく宴会は始まる・・・。

 いろいろ気疲れして、深夜から爆睡。

 昼の特急には、乗らなくてはならない。

 夢を見た記憶もないのに、うなされる。(@@;)




 また仕事が始まった。ゴタゴタも、不調もピーク。

 そんなある日、僕にとっての大きな山場が、とうとう来た。

 その日は朝から胃の具合が悪かった。どんよりした重さ。

 週末だったので、それでも振り絞って頑張る。

 夜、気晴らしに妻とドライブ・・・土産にドーナツを買い帰宅。夜食にする。

 と、暫らくして、どうにもならないムカムカ・・・うっ、これは。 そして・・・

 それこそ噴出すようなゲボヨンが3回。実に28年ぶりのゲボヨンである。(>_<)

 嘔吐・悪心恐怖の方、ゴメンナサイ。想像に堪えない話、ですね。ご容赦・・・。

 こんなとき妻は心配しながらも、さすがに医療関係者(鍼灸・柔整師)。

 「この吐き方は、幽門だね。胃と云うより十二指腸だろう・・・」と冷静に分析してくれた・・・ありがとう(^^;)。

 でも後日、それが正解と判る「十二指腸潰瘍」。タバコは勿論、酒は禁止。云われんでも、飲むかい!!

 ゲボヨンしたときの感想: 28年間恐れ続けたものの割には、「こんなものか」という感じ。

 でも、その気分の悪さ、後味の悪さは、「う〜ん。やっばりイヤだ、もう吐きたくない」だった。



 潰瘍そのものは大したことなく、程なく快方に向かった。

 しかし、病気に対する不安は募った。疾病恐怖の再来である。

 どうにかこうにか、休むことなく出勤はしているが、頭の中は「疾病疾病疾病疾病」で一杯。(苦笑)

 水を飲むにも、コップを洗い直す程の神経ピリピリ状態・・・(+_+)

 そのうえアホ工場長(とうとうアホ・・・にしてしまった)の、お相手。もう心身ボロボロである。

 そして、決定的パンチの日が来る。

 工場には屋内と屋外作業場があり、仕上げのペンキ乾燥は、屋外で管理していた。 

 晴天が続くというので、その日は屋外に出したまま、工場を閉めた。ところが突然の雨。

 残業していた工場長と僕は、慌ててフォークリフトに分乗しての収納作業 そして・・・

 終わりかけた頃、僕の指先が重さ2トンの下敷きに。うげっ!o(><)o

 痛いより、熱い・・・そんな感じ。(>_<)

 その日は腫れもなく、痛いより熱いので、冷やしながら帰宅。ダメなら明日医者に行こう。

 妻の見立て「こりゃ、折れてるよ。たぶんね」・・・ありがとう(^^;)。

 以前書いた作業員の怪我も「手」。僕も「手」。

 工場で1ヶ月に2人が腕を吊り下げるはめに・・・会社は労災にピリピリ。 

 本社重役からは、嫌味の嵐である。(+_+)



 まあ、そんな中、不幸中の幸いと云うのか分からないが、

 工場長は少しは責任を感じたのか、こころもち前より優しくなった。(^.^)

 でも、本社からの風当たりを庇ってくれることはない。(-_-;)

 そして彼が2週間の長期出張に出掛けた直後、僕の体調がガタガタと、崩れてしまった・・・。

 初めにおかしくなったのは4月の終わり頃。

 事務所でパンをかじりながら仕事をしていると、突然云い様のない不安に襲われた。

 ムカムカする胸、高鳴る心臓、クラクラする頭・・・発狂ってこういうのかな・・・。

 そんな思いが駆け巡る。座っても、立っても、寝てもいられない。

 ゲボヨンしそうな訳でもないが、ムカムカが強まる。なんだ、なんだ????(@@;)

 あとからこれがパニック発作だと判った。

 第一次パニック障害の始まりである。

 事務所の女の子は狼狽するし、工場の連中はオロオロするし。同じか^^;。

 とにかく、その日は早退することにした。

 班長に作業を指示して、あわててクルマに逃げ込む。そして逃亡者のように走る。

 すると・・・パニック障害の妙? 神経症の怪?

 あれほど苦しかった症状が、自宅に近づくにつれて治まり始めた。

 もちろん当時は、そんなことを感じる暇はなかったが、冷静になると、その変化が思い出される。

 翌日は、ウソの様に治っていた。

 でも、それは朝だけ・・・昨日発作した時間に近づくにつれて、不安が強まる。

 予期不安は時間・場所などの一致や類似が結構関係している。いちど怖い思いをしてしまうと、「また・・・」の不安が。

 ある種のトラウマのようなものかも知れない・・・。(+_+) 

 そして午前10時。念の為、朝食は抜いていた。

 ゲボヨンだけは避けたい。

 しかし、気持ちが不安に集まった瞬間、またあの抑えようのない突き上げが来た。

 僕は思い切って女の子に尋ねる「オレ、顔色悪い?」

 「いえ、普通ですけど。でも、ちょっと赤いかな・・・」。

 しばらくソファーで休んだけど、ムカムカと動悸が治まらない。そしてまたまた早退・・・。(+o+)

 「このままでは」と、連休明けに病院へ行くことにした。

 初めての発作以来、下痢が続き、食欲も殆ど無くなっている。

 しかし痛みは、何処にもないのだ。

 さっそく検査。CT、血液採取。そして内視鏡の予約。



 パニック発作は続いた。その度に早退。

 本社からの呼び出しにも応じられない状態である。

 体調は更に悪化。点滴で何とか生き延びてる感じ。

 バリウムが飲めずに今日の内視鏡となった・・・

 「はい、そこの白いクスリ飲んで」「はい」「・・・うげっ」「はい、飲んで」「・・・飲めません・・・」「飲めないって、何故!」

 「飲めないから(ーー;)」。 飲めるぐらいならメシ食っとるわい(T_T) 「ダメだなぁ、じゃ中止!」てなことで、胃透視、取りやめ。

 その噂は内視鏡室にも轟いていた。

 「バリウム、飲めなかったんだって?」

 「ふぁあ(はぁ、と云っている。喉の麻酔で、こうなる(笑))

 「飲んでりゃ、ココに来なくて済んだのに・・・」

 「・・・(ーー;)」

 「まあ、ツラクないョ。僕は内視鏡飲むの好きだョ」

 技師だか医者だかは、くだらんことを云いながら、管を喉に入れ出した。

 「げっ」

 「ほら、暴れたらダメだょ。喉が傷つく!」

 「げっ」

 「こんなの楽チンだろう!」

 オマエが下手くそなんじゃ! そんなに好きなら、代わりに、ぶち込んだろーかっ!!(ーー;) 

 まあぁ・・・ なんとか胃には届いた^^;。「きれいなもんだ。ほれ、観てみい」。初めて観る自分の胃の中。へえー。

 こうなってんだぁ。でも、もうイヤだ。こんなん飲むぐらいなら、バリウムの方がいい・・・(-_-;)

 「結果は悪くないんだけど、どうする?」とは、内科診察室。

 「はあ」。

 どうする、と云われても・・・(-_-;)そんなら、食欲と元気が欲しいと云ったら、くれるんかい! あん。(ーー;)

 「どうも腸の辺りから、吐き気が来るようで・・・」

 「腸から吐き気? なんだそりゃ?」

 「僕も、ようワカランのですが」

 「いろいろ聞くけど、初めてだなぁ。腸から吐き気なんて」

 「・・・」だって、そうなんだもん・・・(T_T)

 そして、結局大腸ファイバーの予約となったが、もうその病院は行くのをやめた。

 別に「腸から吐き気」に共感しろって云うんじゃない。

 だけど、何でもカンでも「え?」とか「あ?」とか云われたら、いい加減イヤになるさ。 

 僕は、仲間に相談して、精神科に行くことにした。 

 あまり期待はしてないけど、ココよりはマシだろうと・・・。とりあえず内臓系は「シロ」と判ったし。

 ちなみにココで貰った診断名は過敏性腸症候群だった。



 紹介された精神科医師は、女医さんだった。

 「よく話を聴いてくれる人」の注文通り丁寧だった。

 でも彼女との付き合いは、わずか数回で終わった。

 彼女の診察は丁寧だった。ひとり40分は掛けていた。ただ・・・外来患者は日に20〜30人は来る。

 彼女のペースがあまりにも遅いので、患者も看護婦もイライラ。

 午前中の外来なのに終わるのが午後5時はザラだと、ひそひそ話で聞いた。

 診察中も看護婦が、これ見よがしに彼女の机にカルテを投げる。そして彼女は突然、異動になった・・・

 いくら大学病院と云えどもビジネス。やっぱり彼女の様なタイプは保険治療には向かないらしい。

 個人的には、良かったけど・・・。ちなみに彼女の診断は不安神経症うつ病だった。 

 うつ病の診断はちょっとショックだった。でもあの頃の僕は、無気力、無感動の極地だったかも知れない。

 何時もなら笑えるテレビ番組も「ああ、これ、面白いんだ」「笑える場面なんだ」と淡々と眺めていた。

 まあ、食うもん食ってないし・・・もあったのではないだろうか・・・。

 次に病院へ行ったとき、『異動しました』の貼り紙一枚で、担当が替わっていた。

 動揺を隠せず気分が悪くなる・・・変化を嫌う神経症^^;。

 しばらく待合室から逃げていると、妻が呼びにきた。順番らしい。

 当時は一人で行く勇気がなく、いつも妻同伴だった。

 次の担当医の第一印象はあまり良くなかった。顔が怖かった。ゴメン。

 とにかく、あまりにも前任者が優しかったので、正直「パス」したい感じだった。

 ところが彼のほうから出た言葉が結構気に入ってしまった。

 「僕は(専門が違うし)神経症のこと、よく分からないけど、いいかなぁ・・・」。

 希望するなら担当を替えてくれると云うのだ。

 僕は、それまでプライドの高い医師ばかりに会ってきたから、彼の言葉は新鮮だった。

 自分で森田療法や、いろいろを試しているし、医師に期待していなかったので(苦笑)、

 「この人で良いかな」と思った。 

 以後、彼との付き合いは(彼が大学病院を辞め開業してからも)、6年間続いた。

 半分は、朝5時から並んで、5分治療の為に半日潰す(大学病院への)通院に疲れていたし・・・。

 診察は何時も世間話だけ。たまに「先生、この治療は、どう?」と目新しい神経症治療を尋ねると、反対に質問攻めに遭う。(笑)

 そんな彼のマイペースが、結構気楽で通いやすい。やっぱり僕もヘンな患者である・・・。

 ちなみに彼から貰った診断は心気症、そしてパニック障害である。


                                     (+o+)屮




 少し話が飛んでしまったけど、病院の精神科に通い出した頃は、絶不調の極地であった。

 水溶便(いわゆる、下痢)が2ヶ月続き、食欲もゼロで、体重も20キロ減っていた。 

 良い漢方薬があると聞けば、片道1時間の距離をクルマで走らせた。

 何度も調合して貰い、ようやく出会えたクスリで下痢は止まった。

 飲み始めて2日目、突然腸がカーッと熱くなり、焼けるような痛みになった。

 慌てて電話すると「ああ、ちょっと強すぎたかな。飲むの中止しておいて・・・」と云う。

 もう遅いワイ、と半泣きになっていると、下痢症状が治まっているではないか・・・。(^o^)

 そこで妻曰く「そんだけ腸に熱持たせたら、下痢も治るわ。今度は便秘ネ」・・・ありがと^^;)。

 なんのクスリが効いたのかワカラナイほど、当時はクスリ漬けだった。でも治まるときって、こんなものである・・・。




 その後、ほどなく「うつ症状」も消失した。

 でも嘔吐恐怖、疾病恐怖などによるパニック発作は続いた。

 便秘と下痢を繰り返し、胃や腸に膨満感を感じてしまうと、胃の内容物が逆流する恐怖にパニックした。

 それこそ指一本動かすと、吐き気。匂いを感じると、吐き気。

 なので、家族には「歩くな!」「傍に寄るな!」と怒鳴り散らしていた。魚を焼く匂いは最悪。

 妻や子、そして母へ。あの頃はゴメンナサイ。苦労かけました。いまでも、たまぁに身体が疲れてくると、膨満感と不安は やって来る。

 でもさすがに、前のように暴れたり、叫んだりの発作はなくなった。 辛くなっても「ああ、また来たね」と、自分の疲労のバロメーターにして、

 そういうときは、おとなしく小休止することにした。(^-^)

 それから数ヶ月の休職、そして進退伺い・・・。

 工場長に退職願を提出すると、彼は「預かる」と云っただけで、引き出しに収めてしまった。

 それから数日後に電話があった。

 「辞めたいか?」

 「いや、辞めたいってことは・・・。ただご迷惑掛けてる訳にも・・・何時まで掛るのかワカラナイので・・・」。

 すると彼は「社長とも話たけど、うちは何時までだって待つよ」と云ってくれた。

 それだけで充分だった。そして余計に、もう甘えていられない、と思った。



 退職の挨拶に行ったのは、ちょうど入社6年目の日だった。

 重役たちに挨拶を済ませ、社長室に入ると彼は「やっぱり辞めるのか・・・」と苦笑しながら云った。

 社長ともイロイロと衝突していた。

 社内の、クビにならない七不思議のひとつだった。

 最後にこんな言葉をもらった。

 「オマエは使いづらい社員だったョ・・・。絶対、這い上がって来いよ」と。

 退職金は僅かだったけど(笑)その言葉で満足だった。

 以前の会社でも、同じことを二度云われた「オマエは、サラリーマンには向かない」って。

 そんな言葉を思い出すと、自分が神経質で良かったと思う。

 いろいろ気苦労はあるけど、ちゃんと評価はされていたのである。

 こうして僕の、16年のサラリーマン生活は終わった。




 さて、如何だったでしょうか。思い出すまま、原稿を直さずにUPしてみようと思います。

 そのほうが、当時の気持ちも素直に出ている筈です。

 なので、読みづらかった点は、お許しくださいまし。m(_ _)m


 これは35歳までの記録です。あれから10数年。その間にも様々なことがありました。

 現在ですか? 

 そうですね、神経質症の症状は まったくありませんが、いまでも シッカリと神経質です。(笑)

 吐くのも怖いですし、食べ物に神経質で、とくに賞味期限が気になります。

 それに、いろんな病気だって怖いですし、薬だって副作用が怖くて かなり慎重です。

 まあ、それを いちいち 嘔吐恐怖だの、賞味期限恐怖症だの、疾病恐怖だの、

 異物恐怖だの薬物恐怖だのと並べていてもキリが無いですし(^-^;、

 生きてる以上、不安恐怖心は 有って当たり前。

 むしろ、有ることのほうが健全なんだ、と心底思えるようになりました。

 

 まあ ここでは「こんな奴も居る」とだけ覚えて頂ければ、幸いです。

 僕も これから こんな体験を通して学んだことで、少しでも 

 みなさんのお役に立てることが出来たら良いなぁ・・・と思っています。

 そして、「お互い神経質で良かったね」と、

 笑える日が来ればいいなぁ、と願っています。(^.^)




   

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