rip up
綻びを見つけた時、なぜかそこに手を伸ばしたくなる。鉄壁の傷ひとつ無いはずのそこに見つけたほんの僅かな綻び。だが本当は知っているのだ。わざわざ手を伸ばさなくとも、そうして出来た綻びは放っておいても次第に大きく裂けて行くものだ。
だが、やはり手を伸ばして引き裂きたくなる衝動は、抑えるのが難しい。
その夜、珍しく赤騎士団長は酒が過ぎたようだった。
流石に赤騎士団長ともなれば、城下の裏通りにある場末の酒場などに出入りは出来ない。だが一旦騎士服を脱いで、多少髪型などに変化を与えて口調などに気を付ければ、案外誰も気付かないものである。
今宵、赤騎士団長が人知れず杯を重ねてきたのは、そんな酒場でのことだった。
騎士団の中枢を担うロックアックス城。その城内において見張りの騎士が出入りするための門にふらりと現れた赤騎士団長の姿に、番をしていた当直の騎士は肝を抜かれた。
「カミュー様!?」
「やぁ、務めご苦労」
一見して衣服に乱れはないし、顔色もいたって素のまま。しかし漂ってくる酒精の香りは紛れも無く、彼が少量ではない酒を干しているのだと教えた。これは、酒を頭から被っているのでなければ、飲んでいるとしか思えない。
そして城下の店でカミューを赤騎士団長と知ってここまで酒をすすめる不埒者はいない。そもそも一人で酒を飲みに出るなど無用心他ならなかった。
「どうなされたのですか」
「どうもしない……すまない、わたしが悪い……」
「いったい、どれほど召されたのです」
「―――戻る。騒ぐ必要は無い……」
そこへ現れた時と同じように、まるで幽鬼のようにふらりと門をくぐり場内へと消えていく赤騎士団長を、騎士は黙って見送らざるを得なかった。しかし、いくら騒ぐなと言われても見なかったことには職務上出来ない。彼はただちに赤騎士団副長へと、その出来事を伝えた。
そして報せを聞いて、夕刻から姿の見えぬ団長を案じていた副長は酷い形相で深夜の赤騎士団長の私室へと踏み込んだ。その上で、部屋の中ほどにある広いソファーにだらしなくも潰れたカミューを見つけて言葉を無くして震えた。
「おや、何か危急の用かい?」
物音に薄っすらと目を開けたカミューが横たわったままそんな事を聞いてくる。そこで副長の堪忍袋の緒が切れた。
「大概になされよ!」
滅多に無い赤騎士団副長の怒声は、部屋の外、廊下を曲がった先にも聞こえただろう。
「あ、あなたはこの赤騎士団を率いるお方ですぞ!? どれほどの騎士があなたに忠誠を捧げているかご理解されておらぬわけがないっ!! 単身泥酔して城下をふらつくなど、もしも万が一、賊の刃にでも倒れるような事があればどうなる事か……!」
「あぁ……酔っていても、賊に不覚は取らない」
「あぁそうでしょうとも! ですが今問題にしているのは左様な事ではありません」
「分かって……いるよ」
「いいえ、あなたは分かっておられない!!」
副長の憤激にカミューはよろよろと身を起こした。そして部屋に入るなり着崩していた服の合わせを、気まずさからか引き寄せた。
「そう、怒鳴らないでくれ。軽率は認めるし連絡もせずに出て悪かった。だが、一人で考え事をしたくなったんだよ。わたしにはそんな自由もないのかな」
「それなら態々城下へなど出ず、この部屋でなされば宜しい」
「……そうだな…」
同意は返しても、決してそうとは思っていないのが見え見えで副長はつい溜息を落としていた。だいたい分かっているのなら初めから外出などしない。何か理由があるのだろうとは副長にも分かるのだが、あまりにも分を弁えないカミューの振る舞いにどうしても責める気持ちが立つ。
「今後一切、このような事は認めませぬ。どうぞ心に留め置きください」
「あぁ……すまなかった。反省するよ」
そしてカミューは手振りでもう下がってくれと示す。副長もこれ以上はどうにもなるまいと一礼して踵を返した。しかし辞去するために扉を開けたそこで、思い掛けぬ人物と鉢合わせをしてつい声を上げていた。
「マイクロトフ様」
「すごい声だったな。いつもは物静かなあなたをあそこまで怒らせるなどカミューくらいのものだろう」
「お恥ずかしいところを……―――」
苦笑で見下ろしてくるマイクロトフに、副長は恥じ入って俯いた。しかしその肩を掴まれて部屋の中へ押し戻され、慌てて顔を上げる。
「カミューは、いるのだろう?」
「は、いえ、その」
いるにはいるが泥酔状態の何とも情けない姿である。そんな上司の醜態を見せても良いものかと慌てる副長であったが、マイクロトフとカミューの付き合いは長い。今更この程度の事で悪くする心証など持ち合わせていないだろう。
「おられるにはおられますが、随分と酒を召されているご様子です」
「そうか。仕方の無い奴だな」
そして笑うマイクロトフに副長も苦笑を返した。この青騎士団長の明快なところが、今の赤騎士団長のやけに廃れた具合と、ひどく対照的に映る。この調子で何とか落ち込んでしまっているらしいカミューを引き上げてくれると助かるのだがと思いながら、副長はマイクロトフに道を譲った。
「それではマイクロトフ様。私はこれで失礼しますが、カミュー様をお願いできますでしょうか?」
「もとより、そのつもりだが」
あっけらかんとして聞いてくるマイクロトフに副長も気負いを削がれて笑みを溢した。そしてそのまま再び一礼するとマイクロトフを残して扉を閉めたのだった。
反省するよと、言葉だけ告げて目を閉じ、副長の遠ざかる足音を聞いてカミューは再びぐったりとソファーへと倒れ込んだ。気の所為か雑音が聞こえるが、酒精で全身が痺れたようになっていて、雑音だか耳鳴りだか区別がつかなかった。
だが不意に静かになって、続いて頬を触れる何かがあった。
「カミュー。大丈夫か」
放っておいてくれ。このまま眠ってしまいたいのに。
だが続けざまに頬を数度叩かれてカミューは渋々目を開けた。そして屈み込むようにして覗き込んでくる漆黒の瞳にかち合って息を呑んだ。
「……マイクロトフ」
「起きろ、ここで寝るな」
そして上になっている左腕をぐいぐいと引っ張り上げられ、カミューは促されるままにソファーの上に起き上がった。するとマイクロトフが目の前で苦笑と共に溜息を吐いた。
「本当に飲みすぎているようだな。なんてざまだおまえ」
「マイクロトフ」
「ともかくそのまま寝るのは良くない。水でも飲むか」
そして水差しの置いてあるキャビネットまで行こうとする。それを。
「マイクロトフ……」
カミューは咄嗟に手首を掴んで引き止めていた。マイクロトフはしかし逆らわずに足を止めると振り向いた。
「なんだ。さっきからカミューは俺を呼んでばかりだな」
そして笑うのを、カミューは目を細めて見上げた。
「……マイクロトフ…」
「何だ、カミュー」
マイクロトフは床に膝をついてカミューと目を合わせてきた。そして首を傾げる。カミューは誘われるようにその首に腕を伸ばしていた。抱き付くと、抵抗もなくマイクロトフはやはり「どうした」と背を撫でてくる。その感触に、瞬間、カミューは我に戻ってがばっと身を離した。
「す、すまない」
「カミュー」
突き飛ばされマイクロトフが驚いた顔をする。カミューは慌ててそれを取り繕おうと手を伸ばしかけたが、躊躇してその指先を握り込んだ。
「すまない……頭が、ぼうっとしていて…」
「構わないが、大丈夫か?」
案じるマイクロトフの声にカミューはかろうじて頷いて応えた。だがそれ以上は無理だった。つい先程の自分の無意識の行動がかなりの動揺を与えていて、いくら酔っていたとは言えカミューにとってしてはならない接触だった。
「マイクロトフ……帰って、くれないか」
頷いたきり床に視線を落としてカミューはそう頼んだ。だがマイクロトフはそんなカミューを覗き込むように近寄る。
「何故そんな事を言う。なぁ、カミュー。最近おまえの様子がおかしいと赤騎士たちから聞いたが、確かにこれほどに飲むのはおまえらしくない。何か問題を抱えているのなら俺はちゃんと相談に乗るぞ」
親友としてこれ以上はない労わりの言葉だろう。だがカミューにとってそれは触れられたくない生傷を抉るような行為に等しかった。
「やめてくれ!」
思わず痛みを覚えたかのように顔を顰め、叫んでいた。それからまた我に返る。支離滅裂な己の醜態にカミューは絶望的な気分に陥った。だがそんなカミューの精神状態を知る由もないマイクロトフはただ目を瞠っているばかりだ。
「カミュー……」
「ごめん、俺。もう、わけが分からなくなってるみたいだ。最近滅入る事ばかりで……―――おまえに嫌な事を言う前に頼むから俺を一人にしてくれよ」
両手で顔を覆ってカミューはそう洩らした。これでマイクロトフが出て行ってくれれば良いのにと思うが、しかし傍の男が身動きする気配は一向になかった。
「頼むよ、マイクロトフ」
重ねるように言うがマイクロトフは動かない。それどころか顔を覆っている手の手首をいきなり掴まれた。
「マイクロトフ…っ」
ぐいと引かれて抗う間もなく手を顔から引き離されて、有無を言わさず視線を合わされる。そして見たマイクロトフの顔は少し怒っているようだった。恐らく心配をして来てくれたのだろうに、素気無く追い返そうとしているのだから怒るのは当然かとカミューは哀しくなる。だがそれは違った。
「カミュー、俺を見くびるなよ」
「………」
「おまえが抱えているものくらい、気付かない俺と思うな。おまえが自分から打ち明けてくれれば良いと思っていたが、そうまで俺に隠すと言うのなら無理にでも聞き出すぞ」
それは親友として、そうせねばらないとの義務感からなのか。第一カミューは赤騎士団の団長なのだし、このような体たらくは同じ団長を務めるマイクロトフからすればとても見過ごせないのかもしれない。前から潔癖なきらいのある男でもあったし。
思ってカミューはそんな風にマイクロトフを煩わせている自分が情けなくなった。
「そんな、見るからに不調だったかい? 心配をかけてすまないが、マイクロトフ。そう大した事があったわけじゃない。聞き出すような事は何もないんだよ」
「嘘を言うな!」
「…嘘などでは、ないんだよ」
困ったように微笑むと、マイクロトフから発する怒りが益々強みを帯びた。
「言えカミュー!」
「……だから、何もないと…」
「誤魔化すな!!」
間近で怒鳴られて、たまらずカミューはその大声に顔を顰めた。どうしてここまで怒鳴りつけられねばならないのだろう。放っておいてくれと全身で訴えているのに、マイクロトフだってそれに気付かないわけがないのに。そもそも、例え言えたとしてもそれはマイクロトフ以外の人間にで、当の本人に告げられるような内容ではない。
そんな胸の内をぶちまけてしまえたらどんなに楽だろうか。考えてそれが出来ないからこうなってしまっているのだと至ってカミューは大きく溜息を落とした。
「怒鳴らないでくれ……もう、遅い。それに頭に響く」
「カミューが素直に言わんからだ」
「俺の、せいかい?」
それは悪かったな、とカミューはこぼしてそっぽを向いた。もういい加減うんざりして来ていた。いつまでこんなやり取りが続くのだろう。マイクロトフはいつになったら出て言ってくれるのだろう。いつになったら、楽になれるのだろう。
なんだか、唐突に疲労が圧し掛かってきたような気がした。
「分かったよ、俺が悪い。反省する、明日からはいつも通り過ごすし、誰にも心配はかけない。もう話はこれまでだ。だからマイクロトフ……帰れ」
「嫌だ」
「………っ」
「分かっていないなカミュー。それでは何の解決にもならんだろう」
責めるように言われた瞬間、カミューの中でそれまで燻っていたものが火を吹いた。
「分かっていないのはおまえの方だ!!」
苛立ちが思考を赤く染めていく。噴き出した感情は上へ上へと勢いを増して外へと放出し始めた。
「俺は言ったはずだ。おまえに嫌な事を言わないうちに帰れとな! なのにおまえは出て行かない!!」
「だから言えと言っている」
「言えるものかっ」
吐き捨てるがマイクロトフの追求は止まない。
「言うんだ」
静かに促されて、逆にそれがカミューの感情を逆撫でした。感情の震えが身体にも表れ、握り込んだ拳がぶるぶると震えた。
「この……馬鹿! 知らんぞ、俺は……マイクロトフ……俺はおまえを、誰にも渡したくないくらい………愛しているんだ」
震えながら告げた言葉は意外にすんなりと出た。そうしてからカミューはぎゅっと目を閉じ、満足に吐き出せなかった息を漸く吐いた。そして今度こそマイクロトフはこんな自分を不可解に思うか、それとも不快に思って、持て余して出て行くに違いないと思った。だが、返って来たのはそんなカミューの予想外の言葉だった。
「知っている」
思わず、聞き流しそうなほどそれは当たり前のように聞こえた。
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2002/05/06