transient dream


 朝に見る夢はあまり幸せでないほうが良い。何故なら、目覚めた時の落胆が大きいからだ。どうせ手に入らないものならば、最初から無いほうが良い。
 それでも、泡沫の夢に見た幸福は多分一生忘れないのだろうけれど。



 なんとかマイクロトフとの関係を進展させようと日々努力を重ねるカミューだった。
 毎日毎晩、仕事が終わるなり一日の汚れを落としてマイクロトフの部屋に向かう。どんなに疲れていてもそれは続けていた。苦には思わないし、それになにより、マイクロトフの顔を見ればそんな疲労など何処かへと消えてしまうからだ。
 ただ嬉しくて、毎夜通って何をするでなく他愛のない会話を交わして、最後には努力の甲斐なく―――それでも幸福を覚えて就寝の挨拶を告げて部屋を後にする。
 ゆっくりで良いからいつかもっと親密になれたら良いと思いながら。
 だが、必ずしも努力の全てが報われるわけではないと、どうしてその時カミューは思いもしていなかったのだろうと、後になって彼はそんな自分の有様を自嘲するのだった。





 見張りに立っている青騎士に片手をあげて奥の扉を指し示した。
 いるかなと、目線と仕草で問えば生真面目に頷いて返される。それを見てカミューは軽く微笑んでその目の前を通り過ぎた。夜も遅い時刻だった。
 手の甲で扉をノックすると中から返事があり、カミューが来意を告げると扉越しに「開いている」と一言だけ聞こえた。無意識でそっと音を立てないように扉を開くと、長椅子に座って本を読んでいるマイクロトフの姿が目に入った。
「邪魔しても良いかな」
 問えば、上の空で「ああ」と返された。どうやら読書に没頭中らしい。斜めに座り、長椅子の背に右肘を立てて右手の指先は額に当てられている。膝の上に置いている本を捲るのは左手だった。
 こうしていると、剣を握る時の勇猛な迫力は何処かへと影を潜め、理知的な賢さが前面に映る。実際、頭の良い男なのだが直ぐに熱くなって突っ走るものだからそうと捉えられない。でも本当はその思考は深く、戦略家としても優秀だ。
 ぼんやりとそんな事を考えながらじっと見つめていると、視線に気付いたのかマイクロトフが顔を上げて漸く目が合った。
「カミュー?」
 黒い瞳が不思議そうにカミューを見上げてくる。それに微笑で返してカミューは一歩踏み出した。
「隣、座っても良いかい?」
「ああ」
 頷いてマイクロトフは長椅子の半分を開けてくれる。同時に手にしていた本も閉じて、傍のテーブルに置いて、カミューに座れと促した。
「どうかしたか。ぼんやりとしているな」
「あ、うん。ついマイクロトフに見とれちゃったんだよ」
 座りながらさらりと言うが、途端にマイクロトフが眉を寄せてそっぽを向いてしまった。
 瞬間的にカミューもしまったなと眉根を寄せた。マイクロトフはこういう事を言われ慣れていないのだろう……事あるごとに不機嫌になってしまう。慌ててカミューは話題を探した。
「あのさ、マイクロトフ」
「なんだ」
 向こうを向いたままのマイクロトフに、カミューは言葉を探す。
「何の本を読んでいたんだい?」
「あぁ、戦術論の本だ。中々面白い」
「そう……」
「うむ」
 微妙なぎこちなさが二人を包んでいる。その居心地の悪さに耐え兼ねて、またカミューが顔を上げて口を開く。
「あ、あのねマイクロトフ」
 ところが不意にそんなカミューをマイクロトフの視線が真直ぐに貫いた。
「カミュー」
 低い、ひどく真剣な時に出す声で名前を呼ばれて、カミューがびくりと肩を揺らして言葉を止める。そしてそのまま固まったようになって、マイクロトフを見詰め返した。鼓動が痛いほど高鳴っていた。
 するとマイクロトフがまた口を開いた。
「無理をする必要は無いと思わないか」
「え…?」
「俺に俺の都合があるように、おまえにはおまえの都合があるだろう? 別に毎日こうして部屋に来なくて良いぞ」
「でも」
 マイクロトフが何を言い出したか良く分からずに、カミューは瞬く。
 カミューはマイクロトフの顔が見たいから、毎日遅くなっても会いに来る。それを、来なくて良いと言う。どうして。
「マイクロトフは、俺が毎日来ない方が良い……?」
 声が震えたような気がする。マイクロトフには気付かれたろうか。でもカミューを見詰める瞳に揺らぎは無い。
「そうじゃない。会おうと思えば昼間でもこのあいだのように、休憩時間に顔を合わせられるだろう。こんな、無理に遅くに来る必要は無いと言っているんだ」
「無理なんかじゃないよマイクロトフ。俺は………」
「嫌なんだ」
 え―――と、言葉を遮るように吐き出されたマイクロトフの言葉にカミューが目を瞠る。今、なんて。
「俺が嫌なんだ。もう無理だろう?」
「マイクロトフ」
 もう無理? 何が。
「言い難いんだがな。白状すると俺は、前みたいな方が良い」
 前みたいな……。
 それはどんなようなとカミューが考える前にマイクロトフが告げる。

「毎日会わなくて良い。無理だから。前のように戻らないか?」



 あ、そうか。

 なるほどなるほど。

 うん、わかった。



 何度か頷いてカミューは立ち上がった。
「じゃあ、俺、部屋に戻るよ」
「そうしてくれるかカミュー」
 マイクロトフの見るからにホッとした顔に微笑を返してカミューは扉に向かう。そして「おやすみ」と告げて扉の向こうに姿を消した。パタンと扉を閉じて、廊下を進む。
 部屋ではなくて、違う何処かへ。
 歩きながらカミューは心の中で繰り返す。

 ごめん、ごめんマイクロトフ。

 気付かなかった。
 おまえは、真面目な男だったから。言葉一つに責任を取りたがる。
 違うと思っても、撤回するのには随分勇気がいったろう。
 俺がちゃんと直ぐに気付けば良かったのに。
 ごめんマイクロトフ。

 おまえの望む通り、戻ろう。

 俺は大丈夫。
 だってこの数日間。すごく幸せだったから。
 だから、戻ろう。





 おまえが俺に、好きだと告げてくれたあの日より前に。



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2002/05/27