imitative lover 3


 不快だと感じるのはきっと自分の中にある感情の所為に違いない。
 時折過ぎる不吉は、仮定の世界を巡らせる。だが、もしもと考える以前に現実の世界は己が望んで手中にしたもの。今更否定する気はなく取り消すつもりもない。
 不快な気分はだから自分の勝手なのだ。
 相手にあたるのは、筋違いも良いところなのだ。



 気が進まないまま、それでもマイクロトフはカミューの私室の戸を叩いた。些か乱暴になったのは敢えて知らぬ振りをする。相手も僅かばかり乱暴な所作で扉を開いたのだからお相子だろう。
「遅くにすまんが、カミュー」
「あぁマイクロトフ、良く来たね」
 部下の情報どおりに珍しくもカミューは居た。その顔には白々しい微笑を貼り付けて、なるほど少し気味が悪い。マイクロトフは軽く眉間に皺を作ると背を向けたカミューの後を追って部屋に入った。
 カミューはマイクロトフのためにか手前の椅子を引いて行き、自分はそのままキャビネットへ向かって奥からボトルとグラスを取り出した。
「飲むだろう?」
「ああ」
 マイクロトフが椅子に座ると戻ってきたカミューがテーブルにボトルを置く。室内の灯りを反射して黒く光る中身は赤ワインか。じっと無言で見詰めていると、手際良くコルクが引き抜かれて、途端に芳しい香りが鼻腔を掠めた。
 まだ若いワインのようだがこの香りでは早くに飲んでも良いかもしれない。埒もなく考えている目の前で、二つのグラスにワインが満ちた。
「安かったから大量買いしたんだ―――ほら、あれ」
 カミューが指差す先には木箱がひとつ。相変わらず、と思いながらマイクロトフはグラスを手に取った。
 酒の味にこだわりはなく質より量を求めるカミューである。それでも好みも若干あるらしく安くて気に入った品が見つかれば、時折こうして箱ごと買い入れているのだ。
「どこのだ」
「カナカン」
「そうか……」
 しまった会話が途切れた。とマイクロトフは焦りつつ、とりあえずワインに口をつける。もごもごと言葉を飲み込んだ喉に、硬い舌触りのワインはするすると入ってきた。
「これはまた、飲みやすいな―――」
 苦味が少なく香りそのままの味わいだ。すいすいと飲み下しているとあっという間にグラスが空になる。
「……マイクロトフ、茶じゃないんだからさ」
「すまん。いや、俺はそれほど飲むつもりでは―――」
 ボトルをその手に取りかけたカミューに、慌ててマイクロトフは制止をかける。そうだ、今夜は酒を飲みに来たわけではなかった。
「あのなカミュー」
「リディア嬢は元気だよ」
 切り出した途端、それを遮るようにカミューが言った。その言葉に、名前にマイクロトフの肩が自分でも滑稽に思うほどびくんと揺れる。
「カ……」
「あれ以来お前が来ないから、どうしているのかといつも聞かれるよ」
 マイクロトフは開けた口をそのままの形にして、それ以上うんともすんとも声に出せずにいる。それに対してカミューは薄らと笑みを浮かべつつ「あぁ、そうそう」と続けた。
「彼女の体調が最近すごく良いから、今度屋敷の庭に出てみてそこで食事でもしようと言う話になってね。時間が合うのならおまえも来るといい」
 にっこりと笑みを交えて誘われたが、マイクロトフは緩く左右に首を振った。
「いや、俺は……」
「そうかい? だがそうすると、おまえと一緒に過ごさない休日がまた増えるね……」
「カミュー」
 マイクロトフはぎゅっと眉根を寄せた。
「今だって、こうして二人でいるのは久しぶりなんだよマイクロトフ」
 空のグラスを握り締めたままの掌が、汗で湿る。マイクロトフはそんな自分の手を見下ろしたままぐっと奥歯を噛んだ。
「マイクロトフ……お前が望んだんだよ」
 耳に届く声はいつものカミューの声だ。そこに切なさなどあるはずがない。あってはならない。
「これからも、俺はおまえの望む通りにするよ。だから、マイクロトフ……そんな顔をするくらいなら今からでも―――」
「それだけは駄目だ」
 ある言葉を言いかけたカミューに、マイクロトフはそこだけははっきりと断言した。頑ななほどに、一切の迷いを断ち切るかのように。途端にカミューは口を噤んでふいと顔を逸らした。
「相変わらず……」
 呟いて顔を顰めるのを、ふと顔をあげたマイクロトフの瞳が写す。その黒い瞳が本当の痛みに揺れた。いつの間にかグラスから外れていた掌が拳を握り締め、食い込んだ指先が皮膚を裂く。しかしそれよりも、ずきりと胸を襲った痛みの方が辛かった。
 だから、それを誤魔化すために、つい口走ったのは酷い言葉だった。
「やると言ったのはカミューだ。それを途中でやめるなど、許さん」
 違うのだ。カミューはただ、自分の愚かな願いを聞き入れてくれただけだ。どこまでも優しく、頷いてくれただけだ。
「そうだね……おまえを嘘吐きにはさせられないね……」
「……」
 反射的に目を閉じた。そうしなければ口を開いてしまいそうだったからだ。
 胸の内で何度も叫ぶ。カミュー、カミュー。
「良いよ。後は任せろと言ったのは確かに俺だし。だけどその代わりマイクロトフ……」
 ついとカミューの手が伸びて握り締めていたマイクロトフの拳に触れる。そして宥めるようにその指を開かせて、赤く血の滲んだそこを撫でた。
「最後は助けてあげられない」
「ああ」
 頷くと微かな吐息が聞こえた。顔を上げると苦笑したカミューがじっとマイクロトフを見詰めて、まだ何か言いたげな様子でいる。しかし結局それ以上は何も言わなかった。
 ただ黙って立ち上がり棚の手前から簡易の薬箱を取り出した。
 それから努めて明るい口調で語りかけてくる。
「おまえは本当に不器用だな」
 消毒液でマイクロトフの掌を拭いながら笑う。
「だけど、俺はそんなおまえの方が好きだよやっぱり。器用で割り切るのが上手いマイクロトフなんて、それは別人だからね」
 マイクロトフは軽やかなカミューの声を聞きながら、黙って治療されていた。しかし手にガーゼをあてられても、綺麗に包帯で巻かれても、胸の痛みは消えるどころか痛みを増した。
 済まない。
 詫びそうになるのを堪えるたびに痛みはよりいっそう強くなった。
「ほら、続きをやろうか」
 白い包帯の上からマイクロトフの手を撫でて、カミューは空いていたグラスにワインを注ぎ足す。その顔にはもうどこにも、先程まであった切なさは伺えなかった。こんな男に、今詫びる事は限りない無礼だと言う事くらい分かっているのだ。
「あぁ。久しぶりだったなそう言えば」
「そうだよ」
 くすりと笑ってカミューは乾杯の仕草をしてワインを呷った。
「せめて、今夜だけはね。ゆっくり過ごそうマイクロトフ」
 俺はまた今度、いかなければならないから。
 声なき言葉はそれでも確かにマイクロトフの心に聞こえてきた。刹那再び蘇る痛み。
 だが今更何を悔やむという。
 始めたのは己であり、自ずと巻き込まれたのはカミューだ。
 後悔ならあとで幾らでもしてやる。だが後悔を、したくとも出来ない者はどうすれば良い。
 これが正しい選択だったのか、間違った事だったのかなんて今は分からない。無性に我慢がならなかっただけだった。判断など結果が出てから生まれるものではないか。ならば自分は正直に突っ走るだけだ。
 今感じる胸の痛みなど―――。
「……些細な事だ」
 囁きにカミューの瞳が軽く細められる。
「どうしたの、マイクロトフ」
「なんでもない。俺は、なんでもない」
「うん……そうだね」
 優しく微笑んでカミューはまたマイクロトフの手を撫でた。
「でも大切してくれ。自分で傷つけては、駄目だよ」
 それは掌か、それとも心か。或いは両方か。
 マイクロトフはぎこちなく頷いて、グラスに揺れる赤い酒を黙って見詰め続けた。そしてそこに、小さな白い面影がふと過ぎった気がしてまた目を閉じる。



 リディア。十六歳の純真な少女―――心の臓に、病魔をとり憑かせたまま僅かな命を生きる少女―――。



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20030315