imitative lover 4
あの日は小雨のそぼ降る、薄暗い灰色がかった空が低く広がる、しっとりと温かい水滴がずっと肌を覆うような感覚にとらわれる日だった。心なしか騎士服が重く感じられるような、陰鬱たる気配が足元に這うような、そんな日だったのだ。
こんな日はあいつの機嫌が良くないんだ―――そんな事をぼんやり考えながらマイクロトフは執務をこなし、午後の休憩に入るなり立ち上がっていた。偶々書類の微調整に現れていた第一隊長が首を傾げる。
「団長、どちらへ」
「ちょっとな」
脱いでいた上着を腕に取り、着る間も惜しんで部屋の扉に手をかける。
「団長?」
振り仰いでいぶかしむ第一隊長フェイスターに、青騎士団長付き文官がさり気なく窓の外を指差した。窓硝子を濡らす雨雫、途端に「ああ」と納得して口の端を皮肉げに歪めた。
「ぐずるんでしたな」
それはあんまりな、としかし文官は笑みを堪え切れずに、扉が閉まった途端に小さな笑い声をこぼした。第一隊長の口に掛かれば、優秀で聞こえた赤騎士団長殿も幼子と同列扱いであるらしい。
実際のところ青騎士第一隊長の表現は言い得て妙であった。
マイクロトフがややもなく赤騎士団長の執務室の扉をくぐった時、常ならば優美な微笑に彩られているはずの顔が、無表情を通り越した無機質な色を乗せて振り返ったからだ。
しかしそれもマイクロトフの顔を確認するなり、嬉しげなものに入れ替わる。
「いらっしゃいマイクロトフ」
しかしこの時間。てっきり呑気に茶など飲んでいるだろうと思われたカミューは、雨天時外出用の上着を副官から受け取ったところだった。
「……出掛ける、のか」
驚きを隠せずに問うマイクロトフに、カミューは曖昧に頷いた。
「前からの約束なんだよ」
そしてカミューは前赤騎士団長の名前を出した。
「今日の午後、お訪ねすることになっていてね」
いかにも気の乗らなさそうな顔で言うからつい苦笑が漏れた。
「雨なのにご苦労なことだな。もの凄く面倒そうだぞ」
「うんまぁ……雨だから、というだけでもないんだけ、ど―――あ」
ふとマイクロトフを見たカミューが声を上げる。なんだと首を傾げたら途端にぱぁっと明るい表情に変わった。
「マイクロトフも一緒に行こう」
「はあ?」
「そうだよ、どうして思いつかなかったんだろう。あぁ、マイクロトフと一緒なら何処に行くんだって楽しいに決まってる」
一転してうきうきとし始めるカミューを、マイクロトフがわけも分からぬままに見守っていると、彼は部下にもう一人分の雨用の外套を用意させるように言い付けた。
「馬車があるから濡れないんだけどね。寒いから」
にっこり優しく。
マイクロトフが覿面に弱るその微笑を向けられて絶句するが、このまま成り行き任せにどこぞに連れて行かれるわけにはいかない。
「ま、待て。俺は執務の途中でここに来ているのだぞ?」
「なに、休憩が数分から数時間に変わったところで些少の問題もないだろう」
「ある! 些少どころか多いにあるぞ!」
勢い込んで否定を叫ぶとカミューは微笑を引っ込めて哀しそうな面持ちになった。そしていじいじと指先で壁の継ぎ目をつつき始める。
「……実を言うと、行きたくないんだよ本当は。こんな雨の日に、わざわざ目の上のたんこぶに、どうしてわざわざ」
ぶつぶつとカミューが言うのに、それまで黙って見ていた副官が一歩踏み出して恐れながらと口を挟んだ。
「今日こそご訪問に行って頂かねば困りますよ」
なかなかに強い口調で訴えるのにマイクロトフが疑問を覚える。どうしてだ? と視線を向けると副官は肩をすくめてみせ、己の上司をみやってから事情を説明してくれた。
実はさる地方領主の方から毎年赤騎士団に軍馬にするための仔馬を数頭寄贈してもらっているのだが、その取り決めをしたのが前赤騎士団長であるのだ。互いの友好と利益のために成された取り交わしだったのだが、その引渡しの際には確認用の書類を互いに見せる約束となっている。
その書類を。
「カミュー様が誤って破棄しておしまいに」
「……私だけの責任では…」
あんな場所に置いてある方が、とかなんとか言っている。
「先方との大切な取り決めの一部である重要書類をあろう事か塵屑と一緒にしたお詫びと共に、新たに作成した書類に前赤騎士団長の署名を出来るだけ早く頂きに行かねばならないのですが、今まであれこれと理由をつけては先延ばしにされて、ほとほと困り果てているところです」
「う……」
上司の言葉を素で無視をした副官が発した容赦のない言葉に、カミューが胸を押さえて壁に懐く。しかしマイクロトフも事情を聞けばそんな風情を見ても到底庇う真似は出来ない。
「それはいかんぞカミュー」
「だってマイクロトフ」
「だってではない。何をそんなに渋っているのだ。前赤騎士団長とおまえは、それほど反りが合わなかったか?」
「いや立派な騎士だった方だし、騎士を辞された今でも人物として尊敬しているよ。けれどねぇ……」
ぼんやりと呟いてカミューはふっと微笑んだ。
「話が長いんだよ」
「なんだと?」
「だから趣味の庭弄りの話題ばかり、一度話し出すと止まらないんだあの御仁は。黙って聞いていれば何時間もずっとなんだぞ? 魂が抜けそうになる」
はぁっと壁に向かって盛大なため息を吐いた男は、そしてくるりとマイクロトフに向き直るとがしっと肩を掴んだ。
「頼むよ、おまえと一緒ならどんな無駄話だって楽しいから」
「どういう理屈だそれは」
肩を掴む手から逃れながらマイクロトフが喚くと、カミューは途端にふくれたような幼い顔つきをしてじっと見詰めてきた。
「……おまえは、俺がこんな天気の日に憂鬱な目にあっても構わないと言うんだな」
「ぐ―――」
「興味のない話に延々相槌を打って、どこもかしこも疲れ果てて落ち込んだ気分のまま帰ってきても良いと言うんだな」
「いや、俺は別に……」
「この降る雨のように俺の心がさめざめと泣いているのを知らない振りをするつもりなんだな……」
窓外の雨のようにじっとりと鬱陶しいことこの上ない訴えに、だがしかしマイクロトフはうろたえた。そもそもから、この天気に機嫌を悪くするカミューを見舞って現れたところである。引き合いに出されると弱い。
「……分かったカミュー」
分かったからそんな目で見るのは止めてくれとマイクロトフは情けない顔をする。薄い琥珀の瞳が恨みがましい色を宿した時、正視に耐えられる人物は少ない。尤も、それがそんな風に感情をむき出しに誰かを見るなど滅多にある事ではないのだが。
途端にカミューの面差しが再びぱぁっと花開く。
「副長に言ってくる。外套も自分のを用意するから、少し待ってくれるか」
「うん分かった」
それこそ幼い子供のようにこっくりと頷いて、もしも犬なら振り千切れんばかりの尻尾が見えそうなほどの喜び具合だ。前赤騎士団長の邸宅はそう遠い場所ではないし、あまり面識の無いその人物と親交を深めるのも悪い事では無いだろう。先人に学ぶ機会は幾らあっても無駄は無い。
そして副長と、やはり偶々そこにいた第一隊長に呆れた目で見られつつマイクロトフは外套を手に取り出掛ける旨を伝えると、さっさとカミューの元へと舞い戻った。
「フェイスターから伝言だ『おやつの駄賃も持たせましょうか』だと」
せいぜい馬鹿にするなと怒るくらいするだろうと思われたが、なんのその。カミューは鼻で笑って一蹴すると、相変わらず上機嫌でマイクロトフの背をぐいぐいと押して馬車に乗り込むや雨模様の景色を鼻歌混じりで見やるくらいだった。
そして到着したのはロックアックスの町外れにある邸宅。広い敷地に豊かな緑が茂り、門を抜けた奥にはこじんまりとではあるが、住みやすそうな屋敷が控えていた。
正面扉を叩くと執事が姿を現して二人を招き入れた。
前赤騎士団長はマチルダでも由緒のある名門の出である。騎士を辞したあとは悠々自適の隠居生活を営んでいるらしいが、資産を元手に交易に手を出し堅実な利益を得ているという。しかも独身であるのだが目下の所あらゆる筋から娘の嫁入り先にと申し出が絶えないらしい。曰く、騎士を辞したとはいえまだ壮年の域を出ていないのだから、赤騎士団長まで務め上げた経歴で、もう戦場での命の危機もあり得ないと言えば当然の結果らしい。
通された応接間でカミューからそれらの情報を得たマイクロトフである。なんとなく相槌を打っていると、唐突に扉の向こうから盛大な物音がして思わずびくっと腰を上げた。
「な、何事だ…っ」
しかしカミューはと言えばソファーの背にゆったりと凭れたまま暢気な様子を崩していない。
「落ち着けマイクロトフ。これはあの方の登場の決まりごとみたいなものでね」
カミューの言葉に重なるように応接室の扉が開かれた。
「良く来たな二人とも」
入るなり両手を開き歓迎の言葉を示したのは、マイクロトフにも見覚えのある愛嬌のある前赤騎士団長の顔だった。しかし右足の裾が盛大に濡れていて、その背後には点々と足跡が続いている。ふと伺えば使用人が慌てて倒れた花瓶を立て直していた。
「足元を見ずに角を曲がるのが悪い癖なんだ」
立ち上がりざまカミューがぼそりと教えてくれる。ところが二人の正面にどっかりと座り込んだ男は、地獄耳だったらしい。
「雨だとぐずるのがおまえの癖だったな。直ったのか?」
「ジェラード様」
「マイクロトフ殿も良く来てくれた。こうして近くで顔を合わすのはもしかして初めてかな」
マイクロトフがまだ下位の隊長であった頃に騎士団を辞したのだから、それもそうである。深々と頭を下げると敬意を表して胸に手をやる。
それを手で往なすようにしてジェラードはまぁ座りなさいと言う。
「カミュー、書類は持ってきたんだろうな? やっと来たのに忘れたでは笑い話だ」
「抜かりはございません」
「抜かりだらけで良く言う。知っているかマイクロトフ殿、こやつ書類を食う癖があるんだ」
カミューがすかさず取り出した紙片を受け取りながら、軽い調子でジェラードが言った言葉にマイクロトフの思考が一瞬空白になる。
「は?」
「馬鹿げた噂を真に受けるなよ。誰が紙なんぞ食うか」
横から脇を突付かれて正気に戻ると、ジェラードの笑みに細められた瞳とかち合った。
「と、言うのはまあ冗談で、ただこやつもの覚えが阿呆ほど良くてな」
矛盾した言葉にまた相槌が打てないマイクロトフである。しかしカミューの記憶力が抜群なのは知っている。かろうじて目線で同意を示すとジェラードはにこにこと頷いた。
「覚えてしまうと書類を用無しとして処分してしまうのだ。それで付いた噂が書類食いだ。どこへかと消えてしまう書類の行方を謎に思った周りの連中が、こやつを山羊と勘違いでもしたかな。ま、今でもその悪癖は健在のようだな、山羊」
「相変わらずものを蹴飛ばす粗忽者に言われたくはございません」
重要書類を失った事を揶揄されて、カミューが憮然と答えるのにジェラードはゆるく首を振って嘆息した。
「見ろこれだ。可愛げのない……あぁ、まったくインクが乾くまでその口を閉じていろよ。また食われては敵わん」
誰が食うか、とは流石にもう反論しなかったカミューだが、なるほどこの調子ではここに来るのにあれほど渋った理由が分かる気がした。口巧者のカミューですら負かすこの御仁を相手に何時間も趣味の話題に付き合わされては精神が疲労するばかりか磨耗してしまいそうだ。
そんな事を考えながら、どこと無く呆然と二人の応酬を見ていたマイクロトフだったが、不意に落ちた沈黙の後、ジェラードが思いついたように顔を上げた。
「あぁ、ところでマイクロトフ殿。貴殿、我が家にある写真を幾つか持って帰らんか」
「お断りします」
間髪入れずに答えたのはカミューである。
「誰もおまえには言っていない。マイクロトフ殿にどうかと言っているんだ」
「先日私にも同じ事を言った癖に何を白々しい。駄目ですよ、マイクロトフにまで迷惑をかけないで下さい」
「迷惑かどうかなど分からんだろうが、どれもこれも美しいぞ?」
「お断りします」
何の話なのだろう、と思いながらも一切の口を挟めずにいるマイクロトフである。しかし頑として受付けないカミューの態度が気になる。仮にも相手は前任の騎士団長だ、敬意を損なってはならない。
「カミュー、おまえ良さないか」
「甘いよマイクロトフ。ここで厳しくしておかないとおまえ、明日には見合い攻めに合うぞ」
良いのかそれでも、と唐突に脅されてひやりと背に悪寒が走る。反射的に激しく首を左右に振っていた。
「そうだろう? 見ての通りですジェラード様。ご自身に来た見合いは全てご自身で処理なさってくださいね」
なるほど、最前のカミューの情報を合わせて漸く合点がいった。そして現在まさしく見合い攻めにあっているのだろう男は、だがそれほど残念がってもいない様子であっさりと引き下がった。
「ま、良いさ。最近減ってきているしな」
ぼそりと零してジェラードは署名を施した書類をパタパタと空気に煽らせる。真横でカミューが首を傾げるのにマイクロトフが内心で同調していると、そんなジェラードが意味深に笑った。
「知りたいか」
「そんな言い方をされますとね」
「では教えてあげよう。今我が屋敷には素晴らしい虫除けがいるんだ」
リディアと言ってね、彼女の滞在からこっち見る間に手紙の数が減ったんだよ。
嬉しげに語るジェラードの面差しにはしかし、色恋の類は見えずただ慈しみの影しか見えなかった。
「黙っていると皆面白いように誤解をしてくれる。リディアはただの姪なんだが身体が弱くてね。我が家はご覧の通り手塩にかけた庭があって場所も郊外だから静かだろう? 療養には持って来いでね」
さっさと一人でぽんぽんと事情を説明してくれる。
なるほど、とマイクロトフが一人納得をしているとカミューが何気なくそわそわと落ち着かない様子を醸し出した。どうかしたのだろうか、と思っていると。
「ところでだな。先日整え終えた花壇が漸く蕾を付け始めたんだ、見て行かないか」
これまでとは格段に声音の違う、一層陽気なジェラードの言葉にカミューがガックリと肩を落とした。そしてぼそりとマイクロトフに呟いた。
「もう逃げられないぞ。くそ……気をつけていたのに絶対この話題になるんだ」
それから少しばかり引きつった笑みを浮かべてカミューはジェラードに答えた。
「拝見、致しましょうとも」
「何だそんなに嬉しそうに。まぁあとで姪にも会わせてやるからな、言っとくが美人だぞ」
にやにやと笑うジェラードと早々に消沈し始めたカミューとを見比べて、マイクロトフは思わず笑みがこぼれ出るのを抑えられなかった。どうやらこの前任の赤騎士団長は後任をこうして翻弄するのがたまらなく楽しいらしい。
だがそうしてマイクロトフがカミューと共にジェラードに連れられて中庭へと足を踏み入れた時、そこには既に先客がいたのである。最初はあまりの存在感のなさに気付かなかった。だからジェラードがその陽気な声でその名を呼ばわった時に初めて気付いて驚いた。
木陰にひっそりと、白く色を抜かれた籐で編みこまれた椅子よりも白い面差しの、生成りの綿生地で覆われた羽毛のクッションよりも柔らかく脆そうな肌の―――それがリディアだった。
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2003/03/27