imitative lover 5


 マイクロトフは初めて出会った少女から、なかなか目が離せなかった。
 雨を避けてひさしの張り出たその場所で、滴に濡れる植物を見ていたのだろう。膝にかけられていた膝掛けを手に握り締めて、じっと座っていた。その手首の細さに驚きを隠せない。
 これほどに細く儚い少女を、これまでに見た事がなかった。尤もマイクロトフのこれまでの人生で、それほどに多くの女性と出会った機会も無いのだが、それでもこんなに消えて無くなりそうな存在は知らなかった。
 人形のように手足の細さは衣服を通しても分かるほどで、肌の色も白を通り越して陶器のような青みを帯びていた。如何にも病弱と思わせるそれらの要素が、殊更少女を弱く脆く見せているのだ。
 しかし反面、生まれてから一度も鋏をいれたことがないのではないかと思えるほどの、長く真っ直ぐに伸びた髪は艶やかである。そして軽く伏せられた瞼から覗く薄い青の瞳は、大きく揺らめいていた。

「リディア、いたのか」
 大きな声にハッとする。
 同時に視線の先にあった青い宝石のような瞳もまた、驚いたように広く見開かれた。その瞳がジェラードを見、それから一人遅れてやってくるカミューを見た。
 僅か振り返った方向に、湿気を含んでしっとりと垂れる前髪に触れるカミューの姿がある。かかる白い手袋越しに、小雨に煙る中庭をどこか眩しそうに見詰めるぼんやりとした眼差しが見えた。そして、ふいと俯きがちに顎を引くと、そのすっきりとした長身はマントを払いゆっくりと中庭へと足を踏み入れた。

 一瞬。
 少女の瞳に宿ったそれを、マイクロトフは見逃さなかった。良く見知ったそれだったからだろうか。

 ―――あぁ。

 漠然と知った。
 彼女は今、カミューに恋をした。
 薄青い玉石の瞳を薄く包むようなその煌きは、紛う事無く熱を帯びた恋心だ。夢に見るほど良く知った、あの瞳とまるで同じの―――。
「マイクロトフ?」
 追いついて肩に触れ、どうかしたかい、と覗きこんでくる瞳に常に宿っているのだ。何年も見続けてきたのだから、間違えるわけがない。
「どうもせん」
 ふいと思わず目を逸らした先、ジェラードが姪の元へと向かう背中が映る。よほどこの姪を可愛がっているのか、そぼ降る小雨も気にすることなく、進む足取りが弾むようだ。
「二人とも予定が変わったがちょうど良かった。先に紹介しよう。姪のリディアだ」
 籐椅子に座ったままの少女の肩に、そっと手を置いてマイクロトフたちを手招く仕草はとても優しげで。とても花瓶を蹴倒す粗忽者には見えない。
「それから、こっちの赤いのがカミューで、青い方がマイクロトフだよ」
 ジェラードのあまりな紹介の方法に隣でカミューが情けない顔をする。だがそこへ鈴の音が転がるような笑い声がこぼれて再び意識がそちらへと向く。
 リディアが小さく微笑んでいた。
「叔父様ったら」
 印象よりはずっと確りした発音で。しかし柔らかくて綺麗な声をしていた。そして青い瞳がマイクロトフたちを見てふわりと笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります、カミュー様―――マイクロトフ様」
 マイクロトフを見て微笑んだときには、もうその瞳には熱っぽい色は無く、マチルダの青騎士団長に向けられるべき尊敬と礼儀の篭もった感情だけがあった。
「初めましてレディ」
 傍らで礼節に満ちたカミューの声が響く。こちらは上辺ばかりの優しさはあっても、親しみは欠片も含まれてはいない。儀礼的なだけの声だ。

 残酷な。

 何を思うでもなく、漠然とそんな言葉を思い浮かべたマイクロトフであった。



 それから夕食を終えるまで邸宅に引き止められ、マイクロトフは当然ながら殆ど会話に加わる事は無かったのだが、カミューと、そしてジェラードが二人して掛け合いのように愉快なやり取りを繰り広げていたから、リディアと二人笑うだけで精一杯だった。
 邸宅を辞する時にも、一同は笑顔を浮かべていて、楽しいひと時だったと言うに充分な時間を過ごした。
 そのはずだったのだが。

 馬車に乗り込んで直ぐ、カミューの表情がみるみる不機嫌へと移り変わっていった。
「もう二度と、来たくないな」
 ぽつりと呟くのに、マイクロトフがらちらりと見ると、彼は己の前髪をくしゃりと掌で抑えて唸っていた。
「ああいうのは苦手なんだ。病弱な女性というのが、どうにもね」
 昔から苦手なんだ、と言う。
「どう扱えば良いのか分からないんだよ」
 女性全般の扱いに長けていると思っていた男の、意外な一面だった。理由を問えば、だが「さぁ」と肩を竦めて見せる。だがそれからふと何気なく呟いた。
「口説く対象ではないからかもしれない」
 途端マイクロトフはこめかみを押さえて俯いた。
「おまえは……女性をなんだと思っている」
「あー…いや、誤解をしないでくれ」
 カミューはハハハと誤魔化すように笑って、両手を意味なく摺り合わせた。
「レディを相手にする時、どうも俺はこの人ならどう口説かれれば喜ぶかと言うところから入るんだ。おまえには、分からない理屈かもしれないが、そうすると人付き合いがとても上手く行くんだよ」
「分からんな」
 まったく、と疼痛を覚えて頭を押さえた。
「だろうなぁ。でも、悪くはないよ? つまりはレディの良いところをすかさず見つけ出して、それを褒めてくすぐって……あ、えと」
 マイクロトフの沈黙にカミューの口が固まって行く。その、とかえっととか何やらもごもごと言っているが、どうやらマイクロトフの機嫌を損ねたと思っているらしい。
 そうではない、と内心で否定しながらも沈黙を破らないマイクロトフだった。
 まったくこいつは。完全無欠人のような振りをしているくせして、これほどに欠陥だらけな者も珍しい。カミューの言葉に隠された真実が、マイクロトフに酷い空しさを感じさせた。
 こいつはこれまで、数多の女性を口説きながらただの一度も、愛しいと思って口説いた事がないのだ。相対した女性に、甘い睦言を囁きかけながらその実、言葉ほどの陶酔の欠片も持ち合わせていなかった。
「ばか者が……」
「マイクロトフ……あ…怒った?」
「怒る気などない。ただ、呆れているだけだ」
「……そう」
 なんか、冷たい。とかなんとかまたぶつぶつ言っている。それが更に呆れを誘ってマイクロトフは瞳を眇めてそんなカミューを見た。
 そして不意に手を伸べると、その髪に触れて少しばかり乱暴に掻き回した。
「俺にまで、そのような馬鹿げた真似をすれば怒るがな。生憎俺はおまえに口説かれた覚えがないから、それで良い」
「え、あれ?」
 なすがまま髪を乱されながらカミューは間抜けな顔でぽかんとしている。
「く…口説いてなかったっけ……」
「ああ」
「あ、うわ、そう言えば―――」
 みるみる目を瞠って驚愕する様から目を逸らしてマイクロトフはぼそりともらす。
「必要ないぞ」
「でもマイクロトフ」
「俺には、分かりやすい言葉ひとつで充分だ。それに……」
 おまえの瞳が。
 声にしなかった部分を、聞き取れなかったと勘違いしたのかカミューが「なに?」と聞き返す。だがマイクロトフはそれきり黙り込んで窓の外へと視線を転じた。
 すっかりと暮れた外は、まだ降り止まぬ雨の音に包まれている。
 湿気の所為か、吐息を吹きかければ硝子の窓が白く曇る。だがそこからそれた場所には、不安そうなままの表情でいるカミューの顔がおぼろげに映っていた。
 ちらりと硝子越しに見た、その瞳にも宿っている。
 熱く焦がれるような眼差し。
 分かり難い捏ね回した言葉で口説かれるよりも、ずっと芯にくる。その瀟洒な舌よりも雄弁な瞳。
「敵わん」
 誰も。
 この瞳に、勝るなにものも、知らない。

 呟きは、カミューにも聞こえたのだろうか。
 しかしそれきり、城に辿り着くまで交わされる言葉はなかった。



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2003/04/05