imitative lover 8


 カミューはリディアの見舞いから戻るたびにマイクロトフにキスをする。愛しているよマイクロトフと臆面もなく告げて、優しいキスをする。
 だがそれだけだ。繰り返される日常は、何故だか日毎マイクロトフを憂鬱に誘い、しかもそんな自分を省みれば更に気が沈んでいく。カミューが彼女を見舞うのを勧めたのは他ならない自分だ。だからこんな風に落ち込むのは間違っている。

「あああ、くそ!!」
 ぐるぐるした気分のままマイクロトフは遣り切れず唐突に叫んだ。握りこんでいた拳は同時にドンと机の天板を叩いていたので、随分と騒々しかったろう。部下たちの瞠られた目がそれを物語っていた。
「マイクロトフ様…?」
 書類仕事をしている文官の一人が書面に走らせていたペンを止めてそろそろと伺ってくる。慌ててなんでもないから仕事を続けてくれと促して、マイクロトフはまた思考に没頭する。
 そもそもカミューがリディアの見舞いに通う前は、彼の休日は全てマイクロトフが占めていた。それに比べればこうして外出して病気の娘の相手をする方がよほど有意義ではないか。碌な話し相手にもならなければ、キス以上の事もまだの恋人と言っては些かお粗末なこんな男と過ごすより―――。
 いやだが、もちろん問題はある。
 例の噂にまでなってしまった婚約話だ。

 実のところリディアの容態はますます悪くなっているらしい。
 最初の訪問以来、一度も見舞いには行っていないマイクロトフだが、頻繁に行っては戻ってくるカミューが必ず教えてくれる。つい先日庭で食事をしたと話に聞いたが、それだってほんの僅かの時間、体力と相談しての実現だったらしい。もしかするとこれ以降、二度と彼女は陽の光が降り注ぐ下での食事は望めないかもしれない。
 そんなリディアの病状もマイクロトフの憂鬱に拍車をかけていた。だが予断を許さない彼女の境遇に、哀れみを覚えたのはその叔父のジェラードだ。
 カミューが純粋な行為だけで下心なしに見舞いに通っていると充分に心得ているこの前赤騎士団長は、それでも姪には随分と甘くかける情も深かった。
 彼は己の考えが馬鹿げた茶番に過ぎないと知った上で、深刻にその話をカミューに持ちかけてきたらしい。先のない姪に一時の夢を見させてやってくれないか、と。それがこの噂の元となっている婚約話だった。

 カミューはジェラードからその話を聞かされた時、その場での即答は避けて何故かマイクロトフに相談した。
「どう思う?」
 相変わらずの笑顔で聞いてくる。その瞬間、どうしてだか抑えの利かない苛立ちがマイクロトフを埋め尽くしたが、何とか堪えて低い声で返した。
「そんな話、俺に聞くまでもない」
「……じゃあマイクロトフはかりそめの、あくまで偽りでなら俺がリディア嬢と婚約しても構わないと言う訳かい」
 誰もそこまで言っていない。咄嗟にそう言い返そうとしてマイクロトフは言葉に詰まった。何を怒る事があるんだ。本当に婚約するわけではないのだから―――。
 するとその無言をどう受け取ったか、カミューは不意に笑みを消すとそんなマイクロトフから視線を逸らした。
「ま、確かに聞くまでもないけれどね。分かった、せいぜい誠実に振舞えるよう努力するさ」
「カミュー…?」
「でもマイクロトフ。お前が少しでも嫌だとか、止めたいとか思ったならいつでも構わないから直ぐに言ってくれ、頼む」
「な……それは、どういう意味だ」
「分からないか? ああ、まぁそうかもしれない、おまえはね―――……でも今の俺の言葉は忘れてくれるなよ」
「カミュー、おい」
 やけに真剣味を帯びた目で言い据えられて、マイクロトフは怪訝に眉根を寄せた。相変わらず、遠まわしな言い方をするカミューに大概焦れてくる。
「ハッキリと言え、俺がどうして嫌がるんだ」
 だがカミューは結局答えてくれなかった。
 そしてそんな話はどうでも良いとばかりに、有耶無耶のうちにまたキスをされる。そうして置いてからまるで幼子に言い含めるかのように言うのだ。
「俺はおまえの望むようにするからな」
 最後までカミューの真意が今ひとつ見えないマイクロトフだった。

 それはまるで幼子のごっこ遊びのように稚拙なものだった。リディアに対してだけの口約束であり、決して未来を誓う合う日など来ないのだ。
 だが彼女も自身の命があと僅かとあって本当に結婚できるとは考えていなかっただろう。それでもささやかな幸せに身を浸して、寝たきりの生活の中でもカミューが訪ねるたびに痩せた青白い顔に、心からの笑みを浮かべてくれるのが何とも言えないのだと。
 カミューがそんな事をポツリと言ったのはいつ頃だっただろう。
 明らかに情にほだされたような口調で言ったカミューは、それ以来、以前は良く話して聞かせてくれたリディアの事をあまり言わなくなった。そして休日ともなれば出掛けて、日暮れてから沈痛な色を宿した目をしてマイクロトフにただいまとなんとか微笑んでみせる。
 女性に優しいカミューのことだ。日々弱り死に近付いていくリディアに憐憫以上の何かを感じずにはいられないのだろう。病気の女性は苦手だと言っていたのは、そんな彼の優しさが起因しているのかもしれない。
 そんなカミューの様子に、マイクロトフがある日ポツリと呟いたのを部下に聞き咎められてしまった。
 思ったのだ。
 このままカミューがリディアを訪ね続けていれば、その内本当に結婚してしまうかもしれないと。有り得ないと思いつつ、もしかしてと―――カミューが知ったら怒りそうだがそう考えてしまうのは仕方ないのではないか。
 いつもいつも、何にも優先してリディアをカミューが見舞うのは何故か。好意があるからに決まっている。いくらマイクロトフがそうしろと言ったからといって、あれで確りと自我をもった男なのだから、嫌な事はしない。にもかかわらず、噂が蔓延するほどにカミューの見舞いは間断がなかった。
 ならば……―――万が一、が起こるかもしれない。



「マイクロトフ団長!」
 突然頭上から鋭い声が振って、漸くマイクロトフは自分が思考に埋没していたのだと気付いた。最前と同じく文官たちが気遣わしげな表情で見ているのが気まずい。だがそれよりも真正面にいつの間にか立っていた第一隊長の方が気になった。
「フェイスター。どうした」
 見上げれば彼は通常通りの皮肉な笑みを口の端に貼り付けてマイクロトフを見下ろしている。手に何やら書類が数枚あるからには、執務関連で訪れたのだろうが、暫くその口からは書類の用件は語られなさそうだ。
 第一隊長は広い執務机に片手を付くと、上体を曲げてマイクロトフに近接すると、囁くような小声で言った。
「団長、最近私にはひとつとても気になる事がありましてね」
「なんだ」
 ちらりと見やれば二人の小声に文官たちは慌てて目を逸らし、己の仕事に戻っている。それを知ってかフェイスターは以下にも重要な案件を語るかのような生真面目な顔だった。しかし、出てくる言葉はまるで裏腹である。
「まだお若いのにお顔の真ん中に深いシワを刻む癖のある方がいらっしゃいましてね。顔のシワというのは案外取れにくいと言うので、ただでさえ無愛想なのが、殊更強面になるんじゃないかと心配で夜も眠れぬ有様ですよ」
「……フェイスター」
 マイクロトフはがっくりと項垂れて、思わず片手を挙げて指先で己の眉間に触れていた。部下の言わんとしている事は良く分かるのだが、どうしてこうも遠まわしなのだろう。
 しかし続くフェイスターの言葉に指先の下の眉間にまたシワが寄った。
「ですが実のところ、心配なのはシワよりもその原因ですね。悩み事がそのまま顔の相に表われてしまうのは良くない兆候です。よほど深刻ならば誰でも構いませんから一度、城の医者なりご家族なりご親友なりに相談してくだされば良いと思う次第で」
 その声音には揶揄の響きも軽薄な感じもなく、ひたすら真面目に案じているのが分かった。
「考え事に耽る時間も多くなって、周囲が見えぬ事も頻繁のようです。誤って何か事故など起きる前に何とか復調して頂きたいものですね」
「すまん。善処する」
 短く詫びたマイクロトフに、ところが第一隊長はにやりと笑う。
「おや、何故団長が謝るのです。私は誰がとは申しておりませんよ」
 確りと上の者に使う言葉を用いていたくせにそんな事を言う。この騎士団内で青騎士団の第一隊長たる彼が敬意を払う相手はそう多くない。だが、それも彼なりの気遣いなのだと知ってマイクロトフは苦笑めいた微笑みを浮かべた。
「そうだな。だが、おまえの話を聞いて俺も思うところがあった。感謝する」
「それは良うございました。では団長、こちらの書類ですが目を通して署名をお願い致します」
「ああ」
 置いていたペンを手に取り、第一隊長が机上に置いた書類に目を落とす。
 そして文面を読みながらマイクロトフはとある決心をしていた。
 仕事を終えたら、まずはカミューを探さねば。

 もしもそんなマイクロトフの心の呟きが、傍の第一隊長に聞こえたならばきっと、やれやれと腕を組んで溜息を落とされたに違いない。



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2003/06/22