imitative lover 10


「マイクロトフ様? 何を……」
 リディアの困惑が手に取るように分かる。だがマイクロトフは苦笑を滲ませつつなおも続けた。
「俺です、リディア殿」
 自らを指差してマイクロトフは項垂れた。
「カミューがあなたにどのような話をしたかは分からないが、あいつの恋人は紛れもなくこの俺だ」
「冗談でもマイクロトフ様、そのような……」
「いや、冗談などではない。俺は確かに碌に手も握らない薄情な男で、いつもカミューには悪いと思っていた、しかし俺とていつでも応えたい気持ちはあったのだ」
「聞きたくないわ!」
「……リディア殿」
「やめて! まさかそんなマイクロトフ様が……。でも、でも今は私がカミュー様の婚約者なのよ!」
「ああ、そうらしい」
 カミューはリディアに、マイクロトフの事を過去の恋人として話していた。その事実は、彼の心がもう自分から離れて言っていると教えてはいないか。
 自分でも滑稽に思うほど、そんな分析を冷静にしてしまって、しかもさほど衝撃を受けていない事に僅かばかり驚いている。
「カミューの心はもう、あなたにあるのだろう。だが、俺があいつを好きになった事実は消えないし、好きだと告げた言葉は戻せない」
 好きだと告げられた言葉も、記憶からは決して消えないだろう。
 カミューはあれで身内には情け深い男だから、リディアに心が移っていくのをマイクロトフに言えなかったのだろう。馬鹿な奴だ。出来ればこんな風に知るよりも、本人の口から聞かせて欲しいものを。
「俺は、カミューの恋人だった。それは確かな事実だ」
 その関係が崩れても、付き合いがなくなるわけでもなかろうに。それにそう長くはなかったとはいえ恋人として過ごした時間が失せるわけでもない。思い出として胸に残って人生の糧となってくれるだろう。
 それとも、カミューは否定するつもりなのだろうか。
 もう、普通の友人関係すら失くすとでも。
 馬鹿な。互いに団長職を預かっている身分で、そんな態度は許されない。もとよりマイクロトフには最初からそんな事すら思案の内であった。どちらかが騎士団を出ない限り続く付き合いの中で、より濃密な関係を結ぶとはそう言うことだ。分かっていたからこそ、最後の一線を躊躇せずにはいられなかった。
 だからまだ、身体の深いところでの繋がりはない。

 ―――まだ、傷は浅いか。

 それが良かったのか悪かったのか分からないが、痛みは少ない方がきっとどちらにとっても楽だろう。
 マイクロトフは顔をあげると動揺に蒼ざめているリディアに柔らかく微笑みかけた。
「安心してくださいリディア殿。だからと言って俺とカミューが仲違いをするわけでもないし、俺があなたを疎ましく思ったりする事もありません。俺はあなたとカミューを祝福しますよ」
 するとリディアは不意に強い眼差しでマイクロトフを睨み付けてきた。
「それで本当に良いんですか」
「なにがです」
「自分の恋人だった人が、別の人と幸せになるのを本当に祝福できるの? それで良いの?」
 どうやらリディアにはマイクロトフの言葉が信じられないらしい。可笑しな話だ。これで良くなければリディアにとっても都合が悪いだろうに。しかし、わざわざ確認されなくともそれは本音だった。
「かまわない。寂しくはあるが、それが真実ならば仕方のないことだ。それに俺の気持ちまではなくならないからな。俺はまだ変わらずカミューが好きだし、その気持ちはどうあっても否定できんのだから。想うだけなら自由だし、想いが返ってこないからと言って捨てたり諦めたりは、しなくて良いと俺は思う」
 自分に言い聞かせるように話しながらも上手く言えない。だが人の心は誰にも―――おそらく本人にすら、自由には出来ないものだろう。それを責めるのは見当違いで、この場合はマイクロトフの臆病さからの薄情が招いた別れなのだろうから、カミューに詫びこそすれ、祝福しないわけがない。
 それにリディアは真剣にカミューを好いてくれるようだ。ならば、それで良い。マイクロトフは、これからはカミューを好きだという気持ちを大切に自分の中で昇華していけば良い。
 暫くは辛いかもしれないが、大丈夫だ。
「カミューを幸せにしてやってくれ。俺には無理だったようだから、それだけは頼みたい」
 きっと大丈夫だから。気掛かりな事と言えばそれくらいで。
「マイクロトフ様……」
 ただ、少しだけ残念なのは。

 ―――もう、あの瞳を見られない。

 熱く焦がれるような眼差しが、もう二度と自分に向けられることはないのだ。それだけが、些細な強さでマイクロトフの胸を刺す。ちくりと棘のように刺さってなかなか抜けそうにないその痛み。
 我知らず胸を押さえていたのをマイクロトフ自身は気付いていない。リディアだけがそんな様子に眉根を寄せた。
「まだ想いがあるのに、カミュー様を諦めるの……?」
 まだ色々問い詰めたいらしい。マイクロトフは苦味を飲んだ時のように顔を顰めて目を伏せた。
「諦めるわけではない。だが無理強いは、できん」
 カミューが、リディアを選ぶのなら自分に何が出来ると言うのだ。人の心を自由に出来るわけはないのに。それとも、愛していると言った言葉は嘘だったのかと責めれば何かが変わるのか。そんな真似はこの少女の幸せを無為に削ぎ取るだけの行為ではないのか。
 そう思ってちらりとリディアに視線を向けた、その時。
「……もし、私に同情なさって身を引こうとでも仰るのなら」
 冷たい声がマイクロトフの鼓膜を、思いのほか強く震わせる。
「もし、そんな侮辱を私に味わわせようと仰るのなら、私マイクロトフ様を軽蔑しますから」
 マイクロトフは思わず目を瞠ってそんな事を言う少女を見詰めた。
「リディア殿、俺は」
「確かに私の身体はこの通り、一日の大半を寝台の上で休ませなければならないけど、でも私だって生きてるわ。残りの人生はずっと短いかもしれないけれど、私は今ちゃんと生きてるの!」
 突然、少女は悲鳴のように叫んでがばりと己の膝に顔を埋めた。
「……リディア殿…」
 呆然と名を呼べば少女は顔を埋めたまま、ぶんぶんと首を振る。
「生きてるんだから! だから恋だってするし……! 失恋だって当たり前にするの!」
 その最後の言葉にハッとした。そして言葉もなく固まっていると、リディアの声が不意に弱々しくなる。
「失恋して泣き明かしたりも……するんだから…」
 そして、ぐす、と鼻をすする音がしてリディアがゆるりと顔をあげる。
「辛いかったけど恋を諦めた時、私は前より少しだけ大人になれた……」
 そう呟いたリディアの顔は涙でぐちゃぐちゃになっていて、鼻の頭は真っ赤だし髪も乱れてとても大人の女性には程遠かった。だがマイクロトフが今まで見た数少ない少女の表情の中で、一番生き生きとしていたのだ。
 そしてその涙に濡れた瞳が、きっとマイクロトフを見据える。
「なのにどうして私よりもずっと年上のマイクロトフ様が、そんな態度なの!」
「は」
「好きだったら、どうしてそんなに落ち着いているのよ! 恋人が貴方を置いて他の人間と婚約しようとしてるのよっ!」
「あ、いや……」
「あっさり祝福するなんて言わないで! それじゃあカミュー様があんまりにも可哀相よ!」
 リディアの剣幕に呆気にとられたが、その言葉は聞き捨てならなかった。少女相手にと思う間もなく瞬間的に思考が沸騰する。
「俺はあっさり言ったつもりなど毛頭ない!!」
 膝の上で拳を握り締め、気が付くとそう怒鳴り返していた。だが途端に頭が冷える。相手は病床の少女であると言うのに、冷静を欠いて怒鳴るなどなんたる不覚だろう。
「す、すまない。俺は…」
「謝らないで! なによっ!」
 まるで癇癪を起こした子供のようにリディアが叫んだ。
「大ッ嫌い!!」
 またばさっと突っ伏してリディアは今度こそ本当に泣き出した。困惑するのはマイクロトフだ。いったいなにがどうなってこの状態なのかが全く分からなかった。泣く女性を前に、カミュー辺りならハンカチでも差し出すべきところが、マイクロトフは気の利いた台詞ひとつ掛けられないし、これと言った対応も浮かばない。
 困り果てておろおろとする。だいいちこんなに興奮して大丈夫なのだろうか。リディアは青白かった顔を今は真っ赤にして泣きじゃくっているのだ。
「リディア殿、その泣かないで欲しいのだが」
 そろそろと言ってみれば顔を伏せたままのリディアがぶんぶんと首を振る。
「誰か……ああカミューを呼んでくるか」
「いやっ!」
「で、では、ジェラード様を」
「もっといやっ!」
「俺は席を外した方が―――」
「だめっ!」
「リディア殿」
「大ッ嫌い!」
「………」
 どうしろと言うのだ。

 そしてマイクロトフが途方に暮れた時だった。
 一応の礼儀を払ってか扉をノックして、カミューは入ってくるなり言ったのだ。明らかに、これまでのやり取りを聞いていたのだと言わんばかりに。


「レディ・リディア。それ以上マイクロトフを苛めないで下さいね」

 泣きじゃくる少女と、困惑顔のマイクロトフに、カミューはこの上もなく綺麗な顔で笑いかける。

「全く―――まさかまさかとは思っていたけどここまでとは思わなかった」
「…カミュー?」
「俺が不安になるのも当然だよね。ま、でも本音が聞けただけでも良しとするべきなのかな」
「何を、おまえは」
 言っているんだ? そう、首を傾げた時。後ろから大きく息を吐く気配がして思わず振り返る。と、ほうっと肩を下ろして涙に濡れた目元を拭うリディアがいた。
「あー、すっきりした」
 まだ目は赤いし頬も朱がさしていて、いかにも泣いた後の顔であるのに、実にあっけらかんとした口調でリディアはそう言い、目が合ったマイクロトフにニコッと微笑みかけてきた。
「ごめんなさい、マイクロトフ様。でも私も正直な気持ちでお話していたのよ?」
 小首を傾げてリディアは困ったように涙に濡れた瞳でマイクロトフを見詰めてくる。そしてマイクロトフを挟んで扉の前に立っているカミューをちらりと見上げて、一言付け加えたのだ。

「婚約のお話は嘘だったけれど」

 なんだと、とマイクロトフの眉間に深い皺が寄った。



9 ← 10 → 11

2003/07/12