flower rainy day 1
晴れた空から降る雨は、光を弾いて夢のような光景を作り出す。
俗に天気雨と呼ばれるそれを、彼は花が降っているようだと言い表した。
午前中は雨が降っていたのに、昼を過ぎてやにわに雷鳴が轟き始め、空は瞬く間に曇天へと変わっていった。
降るな、とカミューが呟いた途端、雨粒が窓硝子を打ったのには副官だけでなく本人も驚いてしまった。
雨はあっという間に本降りとなり、洪水のようにざあざあと地上を濡らし尽くした。だが屋内に―――特に堅牢な石造りの城内にあっては、少しばかり空気がひんやりとするな、程度のものしか感じない。
「もうすぐ会議だったかな」
「はい、書類の準備は整っております」
常と変わらぬ会話を副官と交わし、カミューは立ち上がった。
ところが、白赤青の長が揃うべきその会議に、青騎士団の面々が遅れてやってきたことにカミューは驚いた。
時間に厳しい男の事。さては何かあったかと皆が思案するように首を傾げ、周囲を見回し、説明をしてくれる者を探した。そこへ駆け込んできたのは青騎士団長付きの副官だった。
「申し訳ございません。急の雨に降られてしまいまして」
なるほど。どうやら屋外に居たらしい。
程なくして現れたマイクロトフは、慌てて着替えたらしい騎士服と、まだ濡れて黒味を増した髪がそのままで、全身ずぶぬれになったらしいことを皆に思わせた。
その様子に一時、一同の顔に穏やかな笑みが広がるが、当の本人が真面目な顔を崩さずに席に着くものだから、進行役の白騎士の副団長は会議の開始を宣言せざるをえなかった。
三つの団の団長が集う会議は月に一度は必ず行われる定例のものだ。だが、今回のこれは緊急に開かれたものである。
ミューズのアナベル市長から、盟約に従ってジョウストンの丘に来られたしと、呼び出しがあったからである。その理由は既に明白。ミューズの東にハイランドの軍勢が侵攻したというのである。
ミューズ市は、これは休戦協定が破られたのだと訴えてきたのだが、ゴルドーはそれはハイランド軍ではなく国境付近の山にいる山賊の仕業に違いなかろうと言い捨てた。
だが密偵を放っているカミューにしてみれば、それは紛れも無くハイランドの狂皇子、ルカ・ブライトが仕組んだ罠だと分かっている事なのだ。
先だって、ハイランドから内密に届いた知らせによれば、あちらでは、国境付近に駐屯していた少年兵たちが、都市同盟の兵士たちに奇襲に遭い全滅したのだという悲惨な話題で持ちきりなのだという。
年端も行かない少年達を夜陰に乗じて殺戮せしめた都市同盟の卑劣さにハイランドの民衆たちは怒り心頭に達し、報復に兵を立ち上げた皇子ルカ・ブライトを大きく支持しているらしい。
おそらくは少年兵たちの全滅は、ハイランドの自作自演だろう。事実、その少年兵たちは実際に殺されてしまっているらしいのだが、あのルカ・ブライトならばそのくらいのことはしそうだった。だが大義名分は既に立ってしまっているのだ。
ミューズのアナベル市長は昔から才媛として有名であったが、流石に動きが早い。この段階で各都市の代表をジョウストンの丘に召集した対応の早さは称えるべきだが、おそらくどの代表もゴルドーほど酷くは無いにしろ、似たり寄ったりの反応しか見せないに違いない。
ハイランドの脅威に対して、今こそ各都市の軍事力を集結して来るべき戦いに備えたいところなのだろうが、それは無理な話だろう。何しろ都市同盟の軍事の要、マチルダ騎士団がこの調子なのだから。
近くミューズ市はハイランド軍に占拠されるだろう―――。マチルダだけのためを思うのなら、今は求めに応じてジョウストンの丘に赴いている暇は無い。だがしかし、対面というものはどうあっても捨て切れない。
ゴルドーもだからこそ、最初から協力する気など無いのに、一応の召集に応えるつもりで、この会議を開いているのだろう。
会議はそして、白騎士団の副長が無感動に進行させるままに、終結した。
騎士団は騎士団領を守るためにのみ存在する。
もはやジョウストンの条約は、過去のものであり、五都市一騎士団とひと括りにするには、各都市は大きく独立しすぎてしまっているのだと。
会議を終えて、カミューは思わずマイクロトフの方を見ていた。
まだしっとりと湿り気を含んだままの髪が、深く項垂れているのが見えた。その傍らでは彼の副官が書類を纏めて何事か声を掛けている。
一度二度、マイクロトフが頷いたのが見えた。それを見て副官は立ち上がり出て行ってしまう。カミューもまた自分の副官に一言断りを入れると、そんなマイクロトフの元へと歩み寄った。
「風邪を引くよ」
声を掛けつつ、黒々とした髪の先を摘み上げると、指先でざりざりとした感触がした。乾燥すればこれも少しはさらさらとするのだろうが、濡れたままでは硬い質感を伝えるばかりだ。
そしてカミューが僅かに濡れた指先を擦り合わせていると、マイクロトフが漸く顔を上げる。
黒瞳が真っ直ぐに見つめてくるのに顎を引き、カミューは柔らかく微笑む。
「暖かいお茶でもどうだい、マイクロトフ」
言いたいことがあるのなら、そこで聞いてやろうと。暗に含めた言葉に気付いたのか、マイクロトフはふっと目を伏せると静かに椅子を引いて立ち上がった。
雨はまだ降り止まない。
カミューは紅茶を注いだカップを盆に載せ、雨に滲む硝子窓を見た。
雨が降り出すと、憂鬱になる。
だが今はそんなカミューよりもマイクロトフのほうが余程、憂鬱な顔をしていた。
「さぁ、髪は随分乾いたか?」
部屋に招き入れるなりタオルを放って、濡れたままだった髪を拭えと命じたカミューである。だがマイクロトフはそれを頭に被せたまま、先ほどから微動だにしていない。
鬱陶しいまでの滅入りようである。
「マイクロトフ、風邪を引きたくないのな―――」
「ミューズはもう救えんのか」
漸く発せられた低い声に、カミューは浮かべていた微かな笑みをふっと閉ざした。
「―――アナベル市長が何処までやれるか、それ次第だね」
油断しなければ、民の命くらいは守れるだろう。
だがリューベの村の惨劇を思うと、それも難しいかもしれないとカミューは思った。ルカ・ブライトの真意が分からない。単なる領土拡大のための侵攻なら、降伏すれば済む話だが、リューベの全滅は今回の出来事がそんな次元の問題ではないのだと教えるようだった。
「ミューズが陥ちれば、マチルダにも脅威が迫る。なんとか持ち堪えて欲しいものだけれどね」
「違う。ミューズを今マチルダの軍力で救えば、脅威は去る」
「……それは無理だろう」
「何故」
「ゴルドー様がそれを望んでおられない」
そこで空気が重くなった気がした。
まるで今にも何かがゴトリと硬質な音を立てて落ちそうな、そんな空気の中でカミューは忘れかけていたティーカップに目を落とした。
溜息をひとつ零して、盆を卓上に置くとカミューは手を伸ばしてマイクロトフが頭に被ったままだったタオルを取り上げた。
「髪は俺が拭いてやろう。おまえは熱いお茶でも飲んで身体を温めるんだね」
「カミュー」
「うん?」
「俺は、何を守れば良いのだろうな」
その問い掛けに、カミューは不覚にも一瞬の間を置いてしまった。
「―――騎士の誓いを」
そして答えた言葉にマイクロトフは微かに頷いた。
「そうか。俺は騎士だったな」
低い声はまるで絞り出すように掠れていた。
「……ああ」
ひっそりと応えてカミューはタオルをマイクロトフの黒髪に指先で絡めた。
大人しく髪を拭かれながら、マイクロトフはやはり微動だにしない。結局その時は、茶も飲まずにそれきり一言も発さず、自分の執務に戻っていってしまったのだった。
その、翌日のことである。
結局ゴルドーとカミューとマイクロトフの三名が揃ってジョウストンの丘まで出向くことになり、そのための準備に急遽奔走しなければならなくなり、騎士団の上層部はやにわに騒がしくなった。
三人の団長が席を空ける間のマチルダを留守居の騎士たちにどう任せるか。或いは連れて行く騎士たちをどう選出するか。何しろゴルドーは権威欲の塊のような男なので、供として連れて行く白騎士の数が半端ではない。当然それに伴う赤騎士団も青騎士団もそれに何とか釣り合う数を用意しなければならない。
その折衝を何度も白騎士団の副長とやりあう羽目になったカミューである。
だがそんな中、青騎士団はどうにも物々しい動きを見せていた。
「この面子を連れて行くのか?」
提出された青騎士団の面々にカミューは思わずそんな声を上げていた。
無理もない。ずらりと並ぶ名前は他団にも名が知れているような者ばかりだった。
「精鋭と言うにはこれは些か過ぎるぞマイクロトフ―――」
青騎士団でも屈指の戦士ばかりである。これだけで一戦交えるに不足のない連中ばかりなのである。そのあからさまな人選にカミューが眉を潜めるのも当然だった。
「我らは戦をしに行くのではないぞ」
「分かっている」
マイクロトフはこくりと頷き、それからカミューの手から書類を取り上げた。その目は真っ直ぐに反らされることなく正面を見据えている。その視線の先にはカミューの執務机の背後の壁にかけられている、騎士団のエンブレムが織り込まれたタペストリーがあった。
「だが青騎士団は勇猛で名を馳せている。ゴルドー様も文句は言うまい」
「……なるほど、確信犯のつもりでいるのだなおまえは」
「流石に見え見えなのは自分でも分かっている。だが、万が一ミューズにハイランドの軍勢が攻めて来たとして、俺は手勢が少ないからと逃げ帰る真似だけはしたくない」
「それで準備万端で臨もうと? それこそ分かっていないなマイクロトフ。たとえ戦の準備があろうとも、ゴルドー様がそれを許すわけがない」
速やかにマチルダの関所まで走れと命じられるだけだ。それがマイクロトフに分かっていないわけがない筈なのに。
カミューは小さく溜息を落として机の上を見下ろした。
「ミューズにも市軍はいるし、あの傭兵隊もいるだろう。ミューズはミューズの者が守る……我々はマチルダこそを守れば良い」
「―――傭兵隊か。砦が落ちたらしいと一番に俺に教えたのはカミュー、おまえだろう。既に彼らは窮地に追い込まれていると、俺は見たが」
「だからと言っておまえ一人が戦う気になったところでどうにもならない。我らマチルダ騎士団は、白赤青がひとつとなってこその強さがある。馬鹿な真似は捨てておけマイクロトフ」
だがそこで、何故かマイクロトフは微かに笑みを浮かべてカミューを見た。
「………捨てられるものなら、とうに捨てている」
「なに?」
「―――ともかく、この人選を変えるつもりはない。カミューもそのつもりでいてくれ」
「おい、マイクロトフ」
さっさと背を向けてしまったマイクロトフに、取り残された形でカミューは声を上げる。しかし目の前であっさりと閉じられた扉にそれ以上追う気が失せた。
「……まったく」
気が気ではない。
いくら諌めたところで聞かない男を、いい加減に諌め疲れてきたカミューである。
そしてその背後の窓越しで、またも雨雲が広がる気配にカミューは知らずため息を零していた。
before 12 ← 1 →
2
2004/07/29