flower rainy day 2


 マチルダ領内を出たのは久しぶりだった、とカミューは晴れ渡った空を見上げた。

 腹の立つほどに晴天続きで、さぞかしハイランドの軍勢も野営が楽だっただろう。
 そんな事を思って眉をひそめたカミューは、馬上でやれやれと吐息を零した。そして、つい数刻前の出来事を思い出す。

 ―――主君の命にしたがうのもまた、騎士の務めだ。誓いを忘れたか?

 敵を前にして騎士団が背を向けるのかと憤った男に、カミューは努めて冷静な声で諭すように言ったのだ。
 ジョウストンの丘上会議中にもたらされたハイランド軍の進軍の報に、独り先走って青騎士団を前線に出した男に対して、撤退するように伝令せよとの命令をカミューら赤騎士団はゴルドーより承った。
 森の中を突き進み、風よりも早く青騎士団たちの背後に回ったカミューは、そこで更に一騎だけ突出して青騎士たちの陣形を裂くように馬を進めると、マイクロトフの隣へと並んだ。
 青い騎士装束の中で、独り赤い存在は敵の目にもさぞかし目立って映っただろう。
 そんな状況で、カミューはただ黙ってマイクロトフの答えを待った。そして漸く男の口から低く「撤退だ」と短く発せられたのを聞いて、肩の力を抜いたのだ。
 それから、マイクロトフは不穏な気配を漂わせたまま一言も発しはしなかった。それはミューズとの関所を過ぎても変わらず、カミューは再び吐息をつくと、ちらりとそんな男の様子を見遣った。
 気の毒に、周囲の青騎士たちはそんな団長の様子に気を揉んでいる。何しろ今にもくるりと方向転換してミューズまで単騎でも駆けていってしまいそうなのだから。
 もしそんな事になれば全力で阻止するだろうが、そんな心配をするよりもマイクロトフの理性を信じたいと思う。
 ―――置いていってくれるなよ。
 もしもどうしても行くというのなら、自分も共に。
 尤も、そんな事が許される立場にないのが分かっているからこそ、マイクロトフがそんな軽はずみな真似をしてくれないように、願うのだ。



 だがそんなマイクロトフも、流石にロックアックスの街を取り囲む城壁が見えてきた頃には、落ち着いてきたようだった。
 相変わらず黙り込んではいるものの、確りと手綱を握り馬を進める姿勢は揺らぎない。その眉根は険しく皺を寄せてはいたが、怒鳴り散らしそうな気配はもうなかった。

「マイクロトフ、少しは落ち着いたか」
 揶揄するように語り掛けたのは、装備を外し終えて身を軽くしてからだった。今頃ミューズ市は大騒ぎだろうが、厳重な守りに固められているこのマチルダには、ハイランドが早々攻め込んでこないだろう確信があるだけに、まるで別世界のように安穏とした空気が流れている。
 気楽な、いつもどおりの格好に戻ったカミューは、そこに同じく常の姿に戻ったマイクロトフを見つけて、歩み寄ったのだ。
 しかし彼は、カミューの声に振り向きもせず、険しい顔のまま足元を見下ろしていた。
「マイクロトフ……」
 その苦悩が分からないでもない。しかし。
「こら、人を放り出すな」
 無遠慮に両手を突き出し、マイクロトフのこめかみを挟み込むと無理やりに仰向けさせた。
「呼ばれたら振り向け。返事くらいしろ」
 自分でもらしくないと思う強引なカミューの方法に、どうやら思案に暮れていたマイクロトフは、現実世界に戻されて吃驚していた。
「―――すまん」
 思わず、といった調子で謝るマイクロトフに、カミューは漸く笑みを浮かべた。
「分かれば良いんだ」
 ひょいと両手を離して、首を傾げる。
「随分と、参っている様子だな?」
「ああ……」
 マイクロトフはてのひらで片目を覆うと、ゆっくりと吐息を落とした。その反動で、肩が不意に小さく見えて、カミューはその錯覚に思わず瞬く。
「マイクロトフ。おまえは、そんなにも戦いたかったのか……」
 敵に向かっていきたかったのか。
 味方に背を向けて。
 たった独り、まるで立ちはだかる様に。

 何故だか、ぞくりと背筋が震えた。

「いや、カミュー。そうではない」
 静かな声でマイクロトフが否定した。その声に無意識に握り締めていた自分の拳が解けたことにカミューは気付く。
「…だったら」
 どうして、と握っていた汗を誤魔化すようにして、カミューは眉を寄せた。するとマイクロトフは何処か弱ったような表情でカミューを見た。
「俺は騎士だ」
「……うん」
「だが、騎士とは何だ」
 問われて、カミューは答えられなかった。そうして空いてしまった間の意味を、マイクロトフも分かっていたのだろう。小さく苦笑を浮かべて目を逸らした。
「騎士とは誓いを尊守するものだろう、カミュー」
「ああ……」
 辛うじて頷く。
「そして、己の信じるものの為に誓いを捧げるのが騎士だ。騎士団長のくせに即答できんでは様にならんぞカミュー」
「そう、だな……」
 カミューもまた苦笑いを浮かべて、奥歯を擦り合わせた。その目の前でマイクロトフは深く項垂れる。その露わになったうなじが酷く無防備に見えた。
 だがその首筋に思わず指を伸ばそうとした時。マイクロトフが小さく呟いた。

「…俺は騎士だ……」

 先ほども言った、全く同じ言葉を繰り返したマイクロトフは、先ほどよりも何処か遠くに居るように感じた。
「マイクロトフ―――」
 伸ばしかけた指先を握り込み、カミューも小さく呟いた。
 ―――俺を、置いていくなよ。
 その声なきカミューの声に、マイクロトフが振り向く事はなかった。





 そして。
 それから数週間後、一人の少年がマチルダに訪れ、停滞していたかに見えた運命の流れが、唐突に激流へと転じた。
 マイクロトフは、まるであの時の借りを今返そうとでも言うように単身でロックアックスを飛び出し、ミューズへと向かった。
 騎士団長としてあるまじき行動であったが、その複雑な光を宿すマイクロトフの瞳に、もはやカミューが止められる術など見出せなかったのだ。
 更には、ミューズから戻ってきたマイクロトフは、まるで我を失っているかのような顔をして、ゴルドーに真正面からぶつかっていった。
 そんな彼を、ただ見るしか出来ない自分が、まるで四肢を蜘蛛の糸に絡み取られて身動きできない羽虫のようだと感じていたカミューは、やはり目前でマイクロトフがエンブレムを投げ捨てるのを止める事が出来なかった。
 それは身体と意識がゆっくりと剥離していくような感覚だった。

 ―――マイクロトフが。

 遠くに据え置かれた意識が、茫洋と呟きを零している。

 ―――マイクロトフが、俺を、置いていこうとしている。

 嘆いているのでも、憤っているのでもない。ただ淡々とその現実を確認している自分の意識の言葉を、カミューは肉体に取り残された理性で聞いていた。
 謁見室の大きな扉の前で棒立ちになっていた自分は、マイクロトフの悲鳴のような叫びを、上滑りに聞いていた。

「俺は、騎士である前に人間だ!! 騎士の名など、いらない!!」

 馬鹿な。
 誰よりも騎士であった男が、それを言うのか。

 いつの間にかカミューは一歩踏み出していた。
 心に打ち込まれた衝撃は計り知れず、今にも恐慌に陥って叫び出してもおかしくないはずなのに、カミューの足はゆったりとした動きで、謁見室の中央へと歩み寄ろうとしている。

「マイクロトフ、しょうのない奴だな。ちょっとは頭をひやせ」

 理性だけが勝手にそう口走らせる。
 カミューの意識は未だ衝撃から立ち直れていないというのに、冷静な思考回路だけがあらゆる事象を予測して「これから」を考えようとしている。
 そして、そんな理性はカミューに自身のエンブレムをも捨てさせる事を命じた。

「マイクロトフをとらえる? それはできませんね」

 その時自分は微笑んでいたのだろうか。この時になって漸く振り返り、カミューの顔を見たマイクロトフの、複雑な表情を見つめ返しながら、エンブレムの硬質さを一番顕著に感じていた。
 自分が今から何をしようとしているのか。どうしようとしているのかすらおぼろげであるのに、その硬い感触だけがやけに指先に生々しく感じていたのだ。
 そしてそれを投げ捨てた時、マイクロトフが一瞬だけ傷ついたような顔をした。

 ―――どうして今になってそんな顔をするんだ……。

 ますます意識が理性から遠ざかっていく。そして手放したエンブレムが金属的な音を立てて床を跳ねた時、同時に頭の奥で何かがぷつりと切れた感覚がした。

「これで、わたしも反逆騎士です。あなたの命にしたがう理由はありません」
「カミュー……」

 どうしてだか震えた声を出して自分を呼んだマイクロトフに、カミューは笑ってみせた。
 どうしてその時自分が笑ったのか、分からない。
 ただ必死だった。
 必死で衝撃から立ち直ろうとしていた。

 何故自分が衝撃を受けているのか、その理由すら分かっていないというのに。



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2004/08/09