lost childhood 3


 深夜の医務室。
 あれから一度も意識の戻らないカミューの傍にマイクロトフは居た。
 眠る人間の意識に潜るにはそれなりの準備が必要らしい。明日の朝まで何もすることがないらしいからゆっくり休めと言われたのだが、カミューを残して一人で部屋に帰る気もなく、こうして医務室に残ったマイクロトフは、静まり返ったそこで考えに耽っていた。
 去り際ルックはこう言った。
「この城に普通じゃ考えられないくらい人材が揃ってるからこそ出来るんだけどね」
 どうやら普通ならば他人の意識に潜るなど無理難題らしい。そこはやはりカミューの運の良さなのか。いや、そもそも夢魔にとり憑かれた時点で運が悪いのだろうが、それにしてもこれ程迅速に謎を解明し、その対応手段を講じてくれたルックには感謝せねばならなかった。
 夢魔。
 あれからルックの示した書籍に目を通したマイクロトフだったが、今までそんな魔物の名も知らなかったし、今カミューがそれにとり憑かれているのだと聞いてもピンと来ない。
 しかしルックの言葉を疑うつもりはない。こうしている間も熱に汗ばんだカミューは息苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。マイクロトフはしっとりと濡れたカミューの前髪をそっと掻き上げて、項垂れた。
「カミュー……」

 ―――お前を苦しめる悪夢がどんなものなのか、俺には分からない。

 他人の悪夢ほど恐ろしいものはないとルックは言った。
 悪夢の理由も根拠も対処も分からない、ただの恐怖がそこにあるだけだからだ。生半可な気持ちで触れたならば逆に食われ呑まれてしまうに違いない。
 だから心して取り組まなければいけない。その為の準備を一晩掛けてするのだ、と。
 そうまで言われてマイクロトフは黙り込むしかなかった。
 カミューを苦しめる悪夢。
 それがどんなものなのか、少しも想像がつかない自分に気付いたからだ。
 悪夢とは大抵、本人が過去に体験した何かが起因している。
 しかしマイクロトフは騎士団に入ってからのカミューしか知らない。出会った頃のカミューは既に今と同じようなカミューで、彼は自分の本音を上手く覆い隠し、上手な人付き合いの出来る人間だった。
 誰にでも柔らかな微笑を浮かべ、決して相手が不快になるような言動をせず、何でも優秀にそつなくこなして―――。
 マイクロトフは、それ以前のカミューを知らないのだ。
 知っていることと言えば、グラスランド出身だということ、それから兄がいるらしいことくらいだろうか。無二の親友と言っておきながら、滑稽なほどマイクロトフはカミューの少年時代を知らないのだ。
 もしも、今カミューを苦しめている悪夢が、マイクロトフの知っているカミューが体験したそれから来ているのならまだしも、それがマイクロトフの知らない過去だったら、自分はどうすれば良いのだろう。何か彼のために出来ることがあるのだろうか。

 ―――カミュー、お前は今どんな苦しみを味わっている。

 マイクロトフは毛布の中に手を忍ばせて、そこに横たわるカミューの右手を握った。
 触れた甲からマイクロトフの掌に伝わる熱が、己の知るよりもずっと熱いのに思わず眉を顰めてしまう。
 その悪夢を、俺が全部引き受けても良い。
 だから頑張れ。
 俺が、そこに行くまで頑張れ。
 おまえを苦しめる『夢魔』を退治するまで、絶対に死ぬな。

 しかしそう祈ってからマイクロトフは自嘲的な笑みを浮かべた。
 どんな悪夢かも知らないのに。
 どれ程の悪夢に苦しんでいるかも、己は知らないのに。
 ただ頑張れとしか言えないとは―――。

「カミュー……教えてくれ」

 掠れた声でマイクロトフは願う。

「おまえはどんな悪夢を見ているんだ……!」

 そして火傷しそうなほどに熱い手を握り締めて、胸が痛いほどに願った。



 どくん。



 不意に、鼓動が響いた。



 どくん……どくん。



 カミュー? とマイクロトフは目を瞬かせるが、異変はあまりに身近すぎて気付けなかった。だが。



 …どくん…どくん………どくん!



「あ………!!」

 握り締めていた右手が脈打っている。
 そう気付いた時、マイクロトフの視界は紅蓮の炎に染め上げられていた。










 一面の炎。
 突如視界いっぱいに巻き起こった紅蓮の渦に、マイクロトフは驚き逃げ場を探して後退さる。しかし、何故か後ろは無かった。
 いや、前も左右も―――足場が無かった。
 ただ視界を埋め尽くす炎だけが鮮明で、マイクロトフはその熱から逃れようと足掻いた。ところが、直ぐにそれが現実の炎でないことに気付く。熱くないのだ。
『なんだこれは……』
 呟いてから自分の声もなんだかおかしいのに気付く。
 声に出している筈なのに、音声として出ていない。そして一瞬後、声どころか己の実体すら覚束無いのを知って愕然とした。
『……!』
 それなのに間近に迫る炎だけが現実じみていて、ごうごうと燃え盛っている。だが、マイクロトフはその炎の向こうに見知らぬ景色があるのに気付いた。
 板の扉。そして、小さな白い手。
 掌がその扉に触れるか否か、その瞬間に躊躇するかのように小さな手はぴたりと止まって震えた。だがそれを叱るような声が背後から聞こえた。

「早く逃げなさい!」

 知らない女性の声だ。鋭く、切羽詰った声にマイクロトフは思わず振り返ろうとして、それと一緒に見える景色もぐるりと動くのを見た。
『……なんだこれは』
 戸惑いのままにマイクロトフは目の前に広がる炎に埋められた景色を凝視するしかなかった。だが、直ぐに呆然とした凝視が驚きに変わる。

「カミュー! 早く逃げなさい!」

 カミュー?
 そう叫ぶのは見た事もない美しい女性だった。
 淡い金茶の髪が炎にあぶられ、その顔は苦痛に満ちていた。しかし、とても美しいその女性の瞳は、強くこちらを見詰めている。そして再び逃げなさいと強く言った。
 だがそこでまた、マイクロトフの知らない声が聞こえた。

「…でもかあさま」

 幼くか細い声は震えている。もしかしたら泣いているのかも知れない。途端に目の前の女性がふと微笑んだ。

「母さまも後から逃げるから、大丈夫」

 宥めるような声は何処までも優しい。
 しかしマイクロトフはその声に潜む偽りに気付いた。
 彼女はもう逃げられない。
 何故ならその背に深々と突き刺さる短剣が見えたからだ。炎の朱に照らされながらも血の気のない肌が、もう母と呼ばれる女性の末期を教えた。
 しかし彼女は再び重ねて言うのだ。

「大丈夫よカミュー。大丈夫」

 穏やかな声音でそうやってどうにかして逃がそうとしている。
 するとまたぐるりと景色が動いて、また木の扉が目の前に現れた。そして今度こそ小さな手がその扉に触れて、勢い良く押し開けば、真っ暗な夜空が大きくひらけた。
 だが一面の星空に目をやる余裕もなく、また景色は回転して今度は燃え盛る家がそこに現れた。ぽっかりと開いた扉の向こうは赤々した炎が凶悪なまでに渦を巻き、そこに小さく先程の女性が倒れ伏していた。

「かあさま……!?」

 女性が動く気配はない。
 だが迫る炎に押されるように、微かな声が届いた。

「もっと遠くまで逃げなさい。振り返らないで、走って」

 そしてその声に突き動かされるように、また視界が動いて真っ暗い夜の景色が広がる。途端に、風を切って走るように世界が流れはじめた。
 だが、どんどんと流れる景色に紛れて小さな声が聞こえた。

 ―――かあさま。

 この声は。

 マイクロトフは漸く判り掛けてきていた。



 この声は、幼いカミューの声なのだ。
 そして今マイクロトフが見たものは、母と子の別れの時だったのだ―――。



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2003/09/11