lost childhood 5


 カミューは父親と、あまり似てはいなかった。
 マイクロトフの知る今でこそ、青年のカミューと父親は背格好が似ているような気がする。だが鏡に写る少年時代のそれとでは、この親子は他人かと思うほどに似ていない。―――それが、ひとつめの不幸だったのかもしれなかった。
 そして幼い頃のカミューは、あの炎に消えた母親と酷く似ていた。
 髪や瞳の色は勿論、さらさら滑る髪質も肌の白さも、それだけでなく醸す雰囲気が大人の女性と少年という違いがあるだけで、そのまま生き写しともいえた。―――そしてこれが、ふたつめの不幸なのだろう。
 更にカミューには腹違いの兄が一人いた。
 もともと、カミューの父は妻子があった。しかし妻はどうやら長男を産んで直ぐに身体を壊したらしく、以来病弱なまま寝たり起きたりの生活を繰り返しているらしかった。結婚したばかりの若かった父親が、そんな妻を愛していながらも、美しいカミューの母に目を移してしまったのは仕方がなかったのかも知れない。だが、それによって生まれた不幸は紛れもなく、この男の肩以外にも背負わされるのだ。
 原因を生んだのは男一人であるのに、苦しむのは夫に不貞を働かれた妻であり、半分しか血の繋がらぬ弟を持った息子であり、母を亡くしてそんな家庭に引き取られざるを得なかった幼いカミューであった。―――それがみっつめの不幸なのだ。

 以前にカミューが、自分は病弱な女性が苦手だとマイクロトフに語ったことがある。
 その時は何気なく聞き流していたものだったが、今こうしてカミューの幼年時代を目の当たりにして、マイクロトフはこれが理由だったのかもしれないと重苦しい気分になった。
 義理の母は決して悪い人ではなかった。しかし、明らかに義理の息子に対して拭いきれぬ遠慮と、またその背後に夫を奪った女性に対する仄かな恐れを抱いていた。
 元は美しい人だったに違いないのに、痩せた青白い顔はどうにも苦痛を漂わせて、儚げで枯れて散りゆく花を思わせる。そんな女性が常に自分を恐る恐ると気遣わしげな眼差しで見たなら、いったいどんな心地であろう。
 きっとカミューにとっては病弱な女性は、つまりこの義母を連想させるのだろう。苦手と思っても無理はない。
 それなのにただ、少し苦手なんだと苦笑混じりにはにかむだけのカミューしかマイクロトフは知らない。知らなかったのだ。
 そして当然ながら、父親はそんな気遣わしげで病弱な妻の味方だった。
 愛すべき存在として認め、常にその身体を案じて決して負担になることなど無いように徹底していた。そして、妻の心痛に繋がる不貞の子……己に少しも似ていない、逆に後悔の対象でしかない女性の影を纏う息子を遠ざけた。
 しかし、遠ざけるだけならまだ良かった。
 父親はその望まなかった次男が、町の者から罵られ蔑まれているのを承知で、それを否定もしなかった。どころか、そのように見られ迫害を受けるのはカミュー自身に罪があるからだと正面から詰った。
 四つか五つの子供に、いったい何の罪があるのだろう。
 それなのに、唯一絶対の存在である父親は、幼いカミューを断罪した。そしてそれは、カミューが成長しても変わることなく、かえって知恵がついてものの道理が分かる年頃になると、よりいっそうに父親は厳しくあたった。
 しつけ、と呼ぶには苛烈すぎるその教育は、時に拳も使われたし容赦のない言葉で幼いカミューを痛めつけていた。

 それは、カミューが八歳か九歳くらいの頃だったに違いない。
 どうにも『烈火』から見える景色だけが判断材料だっただけに、詳しいところは分からない。それに『烈火』の見せる情景は飛び飛びで、数分間を克明に映す時もあれば、数ヶ月を一気に飛ぶ事もある。
 それでもそれは十歳に満たないカミューの、季節は冬の頃だった。

 カミューの父は、領地持ちの騎士であり町では名士の一人であった。だから、町の者からそれなりの尊敬を受けていたし、妻もその息子も敬意を払われていた。
 年のそう離れていない兄は専属の家庭教師がおり、父から剣の手ほどきも受けて、確りとした教育を受けていた。カミューも妾腹とはいえ息子に違いはなかったので、同じように教育を受けてはいたが、兄と同じ教師はあからさまに兄とカミューとを差別したし、父は一度もカミューに剣を教える事はなかった。
 そんな環境でカミューは成長したのだ。
 だが幼い頃は女児のようだった風貌が、成長するにつれて少年らしい活発さを帯びても、美しかった母の容貌を受け継いだ容姿が損なわれる事なく、魅力を纏っていたとしても、少年になったカミューの瞳に宿る知性は排他的な光を含んでいた。
 十歳に見たない子供のする目ではないとマイクロトフは思った。
 それは今でも時折カミューが見せる瞳にも似ていて、またマイクロトフは胸に痛みを覚えるしかなかった。
 幼い頃は亡き母の面影を想い、哀しげでも無垢な瞳をしていたが、その頃はもうそんな無垢な光は欠片もなかった。いっそ無表情と言っても良い。今、あれほど常に微笑を湛えている笑顔ばかりの男が、少年時代に一切の笑みを浮かべない様が、マイクロトフには辛い。
 しかしそれも当然かもしれなかった。
 カミューが今自分の隣に並び立つ存在であるのが不思議なほどに。彼がマチルダにやってきて、騎士団で位階を極めた事が奇跡であるように思う。

 父親によるしつけと称した虐待など日常だった。
 そこで漸くマイクロトフはカミューの身体に点在する古傷の意味を知った。それまでは何となく、無茶をしてつけたのだと思い込んでいた浅はかさを呪った。
 あの古傷の一つ一つにカミューの心を抉る記憶が宿っていたのだ。その全てを覚えていられる筈がなかったのだ。前にこれは何の傷だと問うた時、なんだったかなと本気で思い出せないでいた彼の、あの苦笑めいた表情が悲しかった。
 そして同年代の子供たちによる、迫害と暴行。
 うまく立ち回っていても、それでも逃げ切れない時がある。不意に紋章に刻まれた記憶の世界が真っ暗に閉ざされる時。それはカミューが『烈火』を決して使うまいと、左手で右手の甲をしっかりと握りこむ所為だった。音だけが聞こえる、その世界でマイクロトフはどうしても助けられない己の力なさに嘆いた。
 カミューを傷つけるのは何も直接的な暴力だけではなかった。
 家族だけでなく、子供だけでなく、近所の大人ですら彼の心を鋭利な言葉の刃物で傷つけた。
 生まれてこなければ良かったのにと、いるだけで害悪だと吐き捨てるように罵られるのはどれほど幼い心をずたずたに引き裂いたろう。
 信じられる相手のいない孤独。頼る相手のいない不安。
 傷つけ続けられ、癒されることのない心。
 そして決定的に少年だったカミューの心を壊した事件にマイクロトフは絶叫した。

 火事。

 カミューの仕業では、決してなかった。それなのに。

 『烈火』は眠らない。
 だから窓の外から聞こえる音や声を聞き逃す事はなく、全てを見ていた。
 マイクロトフは、だから見たのだ。

 その日もカミューは近所の悪童に運悪く捕まった。
 けれど少年ながらもカミューは頭が良くて、その時は機転をきかせて難を逃れた。ただその時少しばかり相手に怪我を負わせたのが失敗とも言えたかも知れない。
 珍しい反撃を受けて、悪童どもは腹を立てたのだろう。
 親に言いつけるだけではもの足りず、夜が更けてからこっそりと忍び出して、彼の仕業に見せかけてやろうとぼやを起こすつもりで、カミューの眠る家に火をつけたのだ。
 大人たちがカミューを火付けの子と罵るのを子供達は知っていた。
 もしまた火事騒ぎが起きれば、大人達は間違いなくカミューを懲らしめてくれるに違いない。そんな浅はかさが、悪童らにはあった。

 ところが、火は瞬く間に広がってしまったのだ。
 なんという真似を、とマイクロトフが憤っても火は益々夜気を孕んで大きく膨らみ、夜空を赤々と照らす。
 悪童たちはその勢いに恐れをなして皆、転げるように逃げた。
 静まり返った夜に、悲劇は幕開けたのだ。

 カミューはその時他所の子供に怪我をさせたと父に叱られ、気を失うほどに張り手を食らった後だった。大人の男の手加減のない張り手にくらくらする頭のまま寝台に倒れ込み、そのまま食事も摂らずに―――もっとも、カミューの分は仕置きとして用意されていなかったが―――寝入っていた。

 そんなカミューが臭気に目覚めたとき、既に火は家屋全体を包んでいた。





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セリフがひとつもない…

2003/10/14