lost childhood 6


 カミューは真っ先に家族を案じた。
 マイクロトフは『烈火』の中で早く逃げてくれと焦りに似た思いでそんな少年のカミューを見守っていたが、彼は炎に束の間驚きはしたが直ぐに家の中へと視線を転じたのだ。
 父も兄も確りした人だが義母は? 病弱なあの人は先にちゃんと逃げ出せているだろうか。言葉にせずともそんなカミューの思いは痛いほどにマイクロトフに通じた。
 確かな造りの家屋は多少の火では直ぐに崩れたりはしない。しかし所々が赤い炎に覆われ、黒い煙が足元を這い、天井や壁を黒く煤けさせて行く。
 だが煙たさと熱気に包まれながらも、カミューが真っ先に向かったのは、自分を忌み恐れている義母の部屋だった。逃げるだけなら部屋の窓から飛び出せば良かった。なのにそれをせずにカミューは義母を案じて廊下を進んだ。
 そしてカミューは一度も足を踏み入れた覚えの無い義母の寝室に飛び込み、そこで寝台の下に倒れている彼女を見つけた。
「お母さん! お母さん、しっかりして!」
 呼びかけても義母は目覚めなかったが、カミューはそれで諦めたりはしなかった。
 その小さな身体に痩せた義母を背負うと共に逃げ出す決心をしたのだ。しかし火の勢いは止まるところを知らず、既に部屋の出口は塞がれていた。窓の外からもごうごうと燃え盛る炎の揺らめきが見える。
 熱気と煙がカミューと義母を襲い、このままでは二人とも死んでしまうだろうと思われた。もっとも、カミューはこの時生き延びたからこそマチルダにやってきて、騎士となりマイクロトフと共にいるのである。案じる必要はなかった。だがそれでも『烈火』の中でマイクロトフは今にも幼いカミューの身体が倒れてしまうのではないかと、悲嘆を感じた。

 ところが、そんなマイクロトフの視界が不意に赤く染まった。

 『烈火』の中に意識を取り込まれて初めての景色にマイクロトフは慄く。だが直ぐに赤く染まった原因が知れた。それは紋章の力が唐突に高められた証だった。何故ならこの赤い輝きはカミューが右手の紋章を発動させた時に放つそれと酷似していたのだから。
 つまりカミューは、炎に巻かれ義母を庇いながら『烈火』を発動させようとしていたのだ。
 いったい何を考えているのかとマイクロトフが焦りの中で案じていると、赤い世界に白い閃光が炸裂した。そして次に視界が開けた時、寝室の壁に大穴が穿たれ、ぽっかりと外が見えていたのだ。
 それはマイクロトフが見た限りで、カミューが初めて紋章を使った瞬間だった。何しろ日頃からカミューは父から決して『烈火』を使ってはならないと厳しく言い渡されていたからだ。生まれつきのものだから外せない以上ないものとして振舞え、と。だから悪童どもに囲まれてもカミューは一度も魔力を引き出すような真似をしなかった。
 父親がカミューに『烈火』を禁じた理由は、恐らくカミューが幼い頃に起きた火事だろう。どうやらカミューの母もまた火系統の紋章持ちであったらしい。まことしやかに囁かれている噂では、彼女がその紋章を使って火をつけたと言われている。だからこそ、父親はカミューに紋章を禁じたのだと思う。
 だがその『烈火』の魔法で壁を壊したのだと知った時、マイクロトフはカミューの咄嗟の機転が嬉しくてならなかった。父の言い付けを守るより、どんなことをしてでも義母と自分を救う方法をすかさず選んだ。こんなに賢い子供だからこそ、この大火事を生き残れたのだ。そして『烈火』の威力で壁の周囲の炎もまた吹き飛ばされて、白い煙だけが立ち昇るそこを、カミューは再び義母を背負い燃え盛る家屋から脱出した。
 そのまま火の届かない家の裏手まで義母を連れて逃げ、漸くカミューは義母を背から下ろしてその身体を地面に横たえた。慣れない紋章の発動に精神力をすり減らし、自分以上に重い義母を背負って体力は限界だったらしい。玉のような汗を煤に覆われた額に浮かべ、肩で荒い息を吐いている。もし今その身体を抱きしめることが出来たなら、マイクロトフは間違いなく「良くやった、頑張った」と褒めただろう。

 だが、そこに二人を探す声が届いた。
 カミューが顔を上げると、燃え落ちつつある家の向こうから父と兄の姿が駆けつけてくるのが見えた。
「ユリア!」
 父親は意識の無いぐったりとした義母の傍らに駆け付けると、その名を何度も呼び、無事を確認すると漸くそれからカミューを見た。だがその目がカミューの右手を見るなり表情を変えた。
 魔力の発動の余韻が残る紋章の陰影―――。
「カミュー……貴様と言う奴は……っ!」
 咄嗟の誤解を父がしたのだと、カミューは分からないようだった。ただぽかんとして見ている。だが、その父が腰の剣を引き抜いてその切っ先を己に突きつけた時、悟った。
「この悪魔め…! やはりおまえは俺の子ではなく、あの魔女の息子だったのだな!」
 違う、との声は父の鬼の形相に行き場を無くした。



 そして、即座に疑われ実の親に刃を向けられた恐怖は如何程のものか。
 マイクロトフが紋章の中で『よせ、止めろ』と叫んでも届く筈がない。そもそもこれは過去に起きた情景であるのに、それでもマイクロトフは絶叫せずには居られなかった。
 やっと火災の脅威から逃れられたのに、これではあんまりではないか。
 何故、こうなる。
 いったい、カミューに何の罪がある。

 しかし父親は恐ろしい顔で剣を振り上げてカミューめがけて白刃を繰り出してくる。カミューはそれを、魔力を使い義母を背負った疲労を押して幾度か紙一重でかわした。
 だが少年のカミューが逃げれば逃げるほど、父親は鬼の如く怒り狂った。
「貴様などあの火事の時に、あの女と一緒に死んでいれば良かったのだ!」
 未だかつて、流石に父親の口からそんな言葉は聞いた事がなかった。
 口さがない他人と違って、それなりに肉親の情があったのだろう。疎まれている予感はあっても、心底憎まれているとは思えなかった。
 なのに、父親は剣を振り乱してそう叫んだ。
「今こそ貴様を殺してやる。そもそも生まれてきたのが間違いだったのだ!」
 カミューは振り翳され遠く炎の朱に映える白刃よりも、父親のその言葉に恐怖した。
 マイクロトフが『逃げろ!』と叫ぶその時も、地に手を突いて大きな存在である父親を見上げる形で、ガタガタと震えながら怯え固まっていた。
「呪われた紋章持ちめ! 貴様など死んでしまえ!」
 ひっ、とカミューの喉が鳴る。

 父親が己の息子めがけて、身体ごと剣を突き刺してくる。

 カミューは咄嗟に、逃れるように小さな手を伸ばした。





 そして見た情景に、マイクロトフは思った。

 ―――これこそがカミューの悪夢だ、と。

 子供が、親に殺意を向けられて、死にたくないと願ったのは、それほどに罪なことだっただろうか。

 少しの抵抗が生んだものは、カミューが己の手で実の親を傷付けるという悲劇をもたらした。
 恐怖の対象だった親ではあったが、決して憎んだりはしなかった。ましてやその身を傷付けたくなどなかった。だが無情にも冷たい刃は肉親の腹を一突きにして、父親は苦悶の表情を浮かべたまま小さなカミューの身体の上に倒れ込み、その衝撃に震える子供の顔を真っ赤に濡らした。

 少年だったカミューの悲鳴は、痛いほどにマイクロトフの心を貫いた。



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2003/10/16