lost childhood 8
ふと目蓋が持ち上がる感覚に、マイクロトフは途端に身体の重さを感じた。
意識が現実に戻ってきた。
思った時には目の前にカミューの今の姿があった。マイクロトフの意識が烈火の紋章に取り込まれる前と変わらず、浅い呼吸を繰り返し握り締めた右手は燃えるように熱い。
「………」
マイクロトフはいつの間にか伏せていた上半身を起き上がらせると、だらりと垂れ下がっていたもう片方の手を持ち上げた。そして、そっとカミューのこめかみに伸ばす。
淡い色合いの髪を掻き分けると、生え際の辺りに目を凝らさなければ分からないほどの薄らとした傷痕が見つかる。マイクロトフはこの傷の存在を知っていたが、それの原因は知らなかった。
石だ。
あの時に人々から投げつけられた石が、当たった場所だ。炎の照り返しを受けて少年だったカミューは呆然としながら、この箇所から血を流していた。
マイクロトフは指先でそこを軽く撫でると、元通り髪を戻してやる。それから今度は首筋をたどり、鎖骨の浮き出た辺りを覗き込んだ。
白っぽい線のような古い傷痕がある。やはりこれもマイクロトフは知っていたが原因を知らなかった。だがこれは、カミューが父親によって刃を向けられ、紙一重で避けた時に出来たものだ。あと少しだけ後ろに身体を引くのが足りなければ首を掻き切られていたかも知れないそんな場所に。
他にも背中や腰や―――古くとも目立つ傷痕に、原因を問うた事があったような気がする。別にはっきりと答えが知りたかったわけではなくて、ただ気になったからなんとなく聞いてみた。
さてなんだったかな、と。昔の事過ぎて覚えていないよ、と。まるで覚えていない様子で苦笑いをこぼしていたカミューの顔を思い出す。本当に忘れてしまっていたのか、それとも忘れたかったのか、どうなのかは分からない。けれど、どうして己は身体中に残っていた数々の古いそれらを、何の疑問も持たずに見過ごしていたのだろうか。
子供の頃にやんちゃが過ぎたのか、程度にしか考えなかったのかもしれない。どうであれ大した事と受け取っていなかった。
あまりに、予想外のことだったから。
今でも紋章の見せた過去が、真実なのか信じ難い。
想像すら出来ない、あんな―――あんな少年時代をマイクロトフは考えられない。
まるで別の世界の出来事のようだった。
作られた演劇ですらあんな脚本はない。それくらい、マイクロトフにとって有り得ない世界だった。
あの身体の古い傷痕が、それぞれ心を抉るような理由で作られていったものなのだとは、到底―――事実なのだと受け止める事すら難しい。
カミューは。
「俺に、いつも優しい……」
だから優しくされなかった時代があったなど。
「いつも笑ってばかり……で…」
笑顔の無かった時代があったなど、思いもしなかった。
なにも、しらなかった。
あの時、男が罪を告白してカミューの母の殺害と、放火を認めた時に、同時に男の告発により屋敷に火をつけた悪童共の罪も明らかとなった。
一転してカミューを責める声は消えたが、詫びる声も聞こえては来なかった。誰もが突然の事態の転覆に驚き冷静さを欠いていたのだろう。どちらにせよ、それはカミュー自身には知らぬ事である。
烈火の威力は実際、極限まで高められていた。
しかし未だ紋章の使い方も知らない未熟な身では、連続しての魔力の発動には無理があったのだろう。カミューは緊張を極限まで高めた途端に糸が切れたように意識を失ったのだ。
その身体を、吹き荒れる熱気と炎から遠ざけるように抱き上げて運んだのはカミューの腹違いの兄だった。
彼はこれまで、常に厳格な父と家族に馴染まない弟との間に挟まれて、我を張ることをせずに過ごしていた。だがこの時になって漸く彼は自発的に動く事を始め、傷ついた弟の身体を抱きながら、声も無く息を詰めて凝視してくる人々の間を通り抜け、町で一人だけいる医者の家へと運んだ。
その医者の元には既にカミューの父と母も運ばれていた。
母親は少しばかり煙を吸い込んだだけで大した事はなかったが、父親の方は重傷だった。しかし騎士である身体は流石に鍛えられており、医者の迅速な対処に命の危機を脱しはした。
そしてなによりも問題は、カミューだった。
目立って大きな傷は無かった。命に関わるような失血もしていなかった。しかしカミューは目覚めなかったのだ。
家の壁を吹き飛ばすほどの炎を慣れない紋章で生み出したからだろうか。限界以上の魔力の行使で、消耗が激しかったのか、カミューは昏々と眠り続けた。
そんなカミューが目覚めたのは、投石によって出来た傷が漸くふさがりかけた頃―――兄が、父の所属するカマロ自由騎士連合の知人と連絡が取れた時だった。
連絡を受けて訪れたのは、騎士でありながら執行官でもある男だった。カミューの父とは古くからの友人であったが、この時彼はその友人を断罪に来たのであった。
火災や様々な出来事で混乱があったとはいえ、正式な手順によって罪を決定されてもいない相手に、ましてや子供に対して誇りを宿した剣を抜いたのは、騎士としてあるまじき行為だった。
カミューの行為は正当防衛以外の何でもなく、それによってたとえ父親が致命的な傷を追っていたとしても、罪はないとされた。そして放火の件にしても勿論、男は数年前の事件とはいえ放火と合わせて殺人の罪は明白とされ捕縛。屋敷に火を放った悪童たちは親が賠償を行うことで和解し、数年に及び町にとり憑いていた不幸は払拭され解決をみた。
だが、関わった人々の意識には深い傷を残したのはもうどうしようもなかった。町の人々はカミューに対して膨れ上がった憎悪のぶつけ先を突然失い、それに戸惑い本当は罪など欠片もなかった子供に対して己等のした仕打ちを思い出し、愕然と震えた。
人々はひっそりと静かに噂をしあったが、誰もがはっきりと己たちの非を認めることに恐怖し、心も身体も疲れ果てて今は医者の家で養生をしている子供を敬遠していた。
その空気を感じ取り、やむなしと決断を下したのは、やはり執行官であった騎士だった。
騎士は、カミューの父に騎士位を返上すれば懲罰を免除するとし、子供の扶養権を剥奪するという形での隠居を命じた。そしてカミューは兄と共にカマロ自由騎士連合の保護下に置かれ、住まいを親元から騎士連合の砦に移し、そこで騎士の従者として暮らすよう整えたのである。
そして、初めて迫害の一切無い生活を始めたカミューは、そこで騎士から剣の腕を磨き、カマロではなくマチルダで騎士となる選択をし―――ロックアックスに単身、移り住んだのだ。
そこから先は、マイクロトフの知るカミューだ。
笑顔ばかりが印象強い優しいカミューだ。
カミューの父の友人という、その騎士が人格者だったことを、マイクロトフは感謝しなくてはならないと思った。
彼は友人の子を引き取って後、分け隔てなく公正に接した。そしてそれは他の者にも徹底させたし、子供の過去の痛ましい事件など引き合いに出すでなく、ただ一人の人間として扱った。
しかしそれは、カミューが真に欲した扱いであったのは言うまでも無い。
この騎士のもとでカミューは生まれ変わったといって過言ではなかったろう。彼が極自然に笑顔を浮かべられるようになり、冗談を口にして、その才気を隠す必要も無く発揮できるようになったのだ。
そんな恩義ある存在を、しかしマイクロトフは聞かせてもらった記憶が無いのを哀しく思った。
それはきっと、話せば幼い頃の実の親との事をも話さねばならなかったからだろう。そもそもカミューがそうして子供の頃のことを意識的に話題に出さなかったから、これまでマイクロトフが聞く機会を得なかったのだと、今気付いた。
話したくなかったのだ。
隠して、おきたかったのだ。
だがどうして。
マイクロトフは横たわるカミューの顔を呆然と見詰めながら、返事が無いのを承知で問いかけた。
「何故、教えてくれなかった……」
確かに驚くべき過去だった。
カミューの受けた傷を知って、とても辛くなった。
幼かったカミューにそんな仕打ちをした人々を憎く思った。
だが、今カミューがこうして目の前にいて、マイクロトフが大切なんだと言って微笑んでくれているのなら、それは過去の事にすぎなかった。
下手な同情などする気も無い。
過去は過去とカミューが割り切っているのなら、それまでの事なのだ。
しかしもしも、未だに当時の記憶に苦しむことがあるのなら、力になりたかった。
だがカミューは、ひた隠しとも思えるほどに過去をマイクロトフに教えなかったのだ。それはつまり、理由があり意図があったと考えるべきなのだろう。
間違いなく、カミューはマイクロトフに対して少年期の事を気にしている。
そして今、それが故に魔物につけ入られて、苦しんでいるのだ。
「……カミュー」
マイクロトフは囁き、握り締めたままだった右手を強く握った。
絶対に助けてやる。
そうしてから改めて、どういうつもりなんだと怒鳴ってやる。
だから、頑張れ。
その時、医務室の扉が開き知った気配が入室した。
「ああ、戻ったんだね」
振り向けば佇むのは風の魔法使いの少年で、マイクロトフが烈火に意識を繋げていたと知っている口振りでそう言った。
マイクロトフが無言で頷けば、ルックは「そう」と呟き顔を逸らして窓の外を見遣る。そして眩しさに目を細め、憮然と呟いた。
「準備が整ったよ。どうする?」
いつの間にか、夜が明けていた。
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2003/11/05