lost childhood 9


 その朝は綺麗な朝焼けの、とても気持ちの良い朝だった。
 マイクロトフはとにかくとても腹が減っていたので、まだ開店前だったハイ・ヨーの店に行くと、無理を言って朝食を作ってもらった。そのレストランの広いテーブルには、ルックもいた。
 少年は夜通し準備のために起きて調べ物をしてくれていたようだった。しかしそれほど憔悴した様子もなく、マイクロトフの前で黙々と同じく朝食を片付けていく。
「あのさ」
 サラダの皿にフォークを突き刺しながらルックが徐に口を開く。その視線は突き刺されたレタスの葉に注がれていたが、この場にいるのはマイクロトフだけなので、恐らく自分に向かって話しかけたのだろうと思われた。
「はい」
「詳しい説明は、この後会議室で全員に向けてするんだけど」
「はい、宜しくお願いします」
「その前にさ、あなたにだけ言っておくことがあるんだ」
 ルックの視線は相変わらずサラダにある。しかし、その意識は強くマイクロトフに向けられていた。
 マイクロトフは水を飲んで口の中をさっぱりさせると、そんな魔法使いの少年をじっと見詰めた。
「なんですか」
「うん、あのさ」
 ルックの手元でフォークが動くたび、シャクシャクとレタスが音を立てる。次第に見るも無残に萎びていくそれを、マイクロトフもつい見詰めてしまう。と、その耳に少年のひっそりとした声が届いた。
「本当は、もっと簡単に夢魔を封じる方法があるんだ」
「……は」
 思わず目をぱちくりとしてマイクロトフが視線を戻せば、ひどく不機嫌そうな表情のルックがいた。
「簡単に、と?」
「そう。他人の悪夢なんかに潜り込むような暴挙をしなくても、本当は夢魔なんて魔物は簡単に封じられる」
「………しかしルック殿」
 昨夜、ルックは確かにマイクロトフに言ったではないか。カミューの悪夢と戦えと。まるでそれ以外に方法がないかのように。そして少年は夜通し悪夢に挑むための準備にかかりきりになった。それなのに、別に方法があるというのはどう言う意味だ。
「では何故」
 マイクロトフの疑問は当然だと、ルックは小さく頷いた。しかし不機嫌そうな表情は変わらないままで、言葉を続けた。
「ただ、その簡単な方法をとった場合、カミューは助からない」
「……っ」
「一緒に封じてしまうんだよ。夢魔はカミューの中に取り込まれている状態だから、カミューの身体ごと封印を施してしまう。それだと、とても簡単だろ」
 相手は逃げようもないし、封じてしまえばもうそれを解かない限り脅威はない。
 言ってルックはフォークを置いて、両手で何かを包みこむような動作をとった。そして最後には掌を合わせてぎゅうっと握り込む。
「でもカミューの魂も夢魔と一緒に封じられて、封印の中で夢魔に全て喰われて消滅する」
「―――そんな方法は、認めません」
 腹の奥が煮え滾るのを感じつつ、マイクロトフは押し殺した声で辛うじてそれだけを言った。すると、ルックは不意に握り合わせていた両手を離すと、力の抜けたように座る身体の横にだらりと下げた。
「だろうと思ったから、言わなかったのさ」
 そして背凭れに身体を預けると、軽くあくびをする。
「勝率の分からない危険な賭けと、たった一人を犠牲にするだけの確実な方法と、両方を示されてどちらを取るかと言われたら、シュウもあいつも、確実な方を取らなきゃいけないしさ」
 軍師としても、軍主としても大勢が危機に晒される事態は回避しなくてはならないのだ。それは、マイクロトフも当然心得ている指導者としての義務だ。たとえ犠牲となるのが騎馬隊頭領のカミューでも、だ。
「そしたら、あなたがどれだけごり押ししても、カミューはもう助けられないだろ」
 そしてルックはこの朝初めて疲れたような面差しをしてマイクロトフを見詰めた。
「分かってる? 期待してるんだよ。絶対に夢魔を消滅させて彼を救って還ってきてくれないとさ。でなきゃ最悪、あなたも一緒に封印するからね」
 励ましているのか脅しているのか分かりにくいルックの言葉であったが、マイクロトフは胸の奥が熱く熱く昂ぶってくるのが分かった。
「ルック殿……」
「勝率は少しでも上げておいた方が良いだろ。その代わり掛け金も釣り上がるけど―――でも、負ける博打をする気はないんだ」
 そしてルックがぐっと奥歯を噛み締めて見詰めてくるのに、マイクロトフはゆっくりではあったが、深く頷いて返した。
「承知した。必ず、カミューを連れ帰ると誓う」
「……もしもの時は恨まないでよ」
 ルックの呟きに思わず笑みをこぼす。
 これほどに大きなチャンスを与えられたのだと、知ったマイクロトフに恨む気持ちなど微塵もない。
 今、確実にマイクロトフの腹は決まった。
「ルック殿、感謝します」
 必ず夢魔からカミューを救う。絶対にだ。
 拳を握り締めてマイクロトフは自身にも誓った。それこそ命を賭けて―――。そんな騎士にルックは目を細めて肩を竦めた。
「感謝するのはまだ早いよ」
 これから準備の仕上げにかかって、説明をして、そして夢魔と立ち向かうという一番重要で過酷な仕事が待ち受けている。
 マイクロトフは再び頷き、皿に残っていた朝食を平らげるべくフォークを握りなおした。





 それから、マイクロトフがルックと共に訪れた会議室には、関わりのある面々が既に集合していた。
 眠そうな目を擦りながらビクトールなどは窓辺で大あくびをしている。そして彼は常に寝不足気味なのか青い顔をしているのは軍師のシュウだ。軍主の少年は姉と共に不安な面持ちで入ってきたルックとマイクロトフとを見詰める。
「お待たせした」
 ペコリとマイクロトフが頭を下げると、やはり最後まで付き合うつもりでいるのかホウアンが、運び込んだ簡易の寝台に横たわるカミューの傍らに立って頷く。
「…これで、全員揃いましたね」
 しかしそんなホウアンの声に、いや、と首を振ったのはルックだ。
 少年は一人すたすたと部屋の中央に進むと、携えていた杖でカツンと床石を叩いた。
「もう一人、くるよ」
「誰だ」
 シュウの問い掛けにルックは振り返り、マイクロトフの背後の扉を見詰めた。
「来たかな」
 言葉どおり、扉の向こうから足音が響くのが聞こえ、マイクロトフは思わず扉の前から退く。すると音も立てずに扉が開き、そこから真っ赤なコートを着た男が入ってきた。
「キリィじゃねえか」
 目深に帽子をかぶった男が、ビクトールの素っ頓狂な声に顎を引く。そしてルックが再び杖で床を叩いて全員の視線を集めた。
「ぼくが呼んだんだ。今回は彼の協力無しには何も出来ない」
 そして少年の視線がちらりとマイクロトフを見る。
 なるほど、キリィが居たからこそ危険な賭けも出来るということなのか。軽く頷きマイクロトフは赤いコートの男を見た。
「キリィ殿、宜しく頼みます」
「―――俺は、ただ自分の知っていることを、僅かばかり教えたまでだ」
「…シンダル、か」
 シュウが呟く。それにあっと声をあげたのは軍主の少年だった。ついでにマイクロトフもそうかと頷く。
 キリィは今は失われた高度文明『シンダル』を追い求める遺跡ハンターである。シンダルといえば一般的に知られているだけでもとにかく謎だらけの文明だが、かつて古代魔法が最も使われた文明だと言われている。その謎を追い、解き明かすうちにその古代魔法に精通する部分もあるのだろう。
 現在はその一端しか伝承されていない古代魔法は、その全てを解き明かしたなら世界を手中におさめる事が出来るとまで言われている程のものだ。
 今回はその古代魔法を利用して、夢魔と対決するのだろうか。マイクロトフがそうして結論付けたところで、再びルックの杖が床石を鳴らした。

「手順を簡単に説明するよ、良い?」
 ルックが静かな声で語り出す。
「まず魔法陣を描いて、ここに特殊な力場を作る。周囲と完全に切り離しをするんだ」
 杖の先が床から僅かに浮いて、すーっと円を描く。かなり径の広いそれは人間が一人充分に収まって余りあるほどの大きさだった。そしてルックは寝台に横たわるカミューを見る。
「そして更にその内側に、キリィにシンダルの転移魔法陣を描いてもらう」
 キリィがこくりと頷くが、黙って話を聞いていたビクトールが「なぁ」と声をあげた。
「なんで転移魔法なんだ? どっか行くのかよ」
「精神だけね」
「あん?」
 なお首を傾げる傭兵に、ルックは小さく溜息を落とした。
「昨日言った本に書いてあることだけどね、夢魔はとり憑いた対象に夢を見せる時、まず対象の精神を幽界に誘い出すんだ。そこで思う様夢を見せて少しずつ精力を削り取る」
「ちょい待ち、幽界ってなぁ…なんだ」
 ビクトールの重ねた問い掛けにまたルックはげんなりとした顔をする。
「幽玄の世界だよ。魔物が生まれる場所とも言われているし、夢と現実の狭間とも言われている。普通、人間は生身では行けない」
「じゃあどうやってマイクロトフはそこまで行くっつうんだ。ビッキーみてえに飛ばしてもらっても生身じゃ無理なら意味がねえ」
「だから精神だけ飛ばすために、シンダルの秘法を利用するんだろ。まったく、順序だてて説明しなきゃいけないわけ?」
「しょうがねえだろ、こっちは素人だぞ」
 ぶすくれるビクトールの後ろで、シュウも片手を挙げる。
「同じくだ。できれば詳しく聞かせてもらいたいな」
 するとルックは諦めたように肩を落として溜息をこぼした。
「分かったよ。ったく、なんで今更こんな面倒な真似……」
 それからルックは杖を立てて一同を見回した。
「まず転移魔法についてだけどね。ビッキーが使っているのは紋章の力を利用した魔力による転移なんだけど、そこは分かる?」
「おまえが時々突然消えたり現れたりするのは?」
「あれも紋章の力。基本的にはビッキーと一緒だけど、これは術者の魔力が相当高くないと転移は無理なんだけど、シンダルの秘法の場合は魔法陣と手順さえ正しく踏めば、魔力がなくても誰でも転移できる」
「あ、つまりマイクロトフでも簡単に移動できんだな?」
 準備と手順は簡単じゃないけどね、と付け加えてルックは頷く。
「それから、今回は生身を残して精神だけを幽界の、しかもカミューにとり憑いてる夢魔の居る場所まで飛ばさないといけない。これには少し強引な方法をとらせてもらう。言っとくけどこれは、ぼくだからこそ出来るんだからね」
 そしてルックは自分の額を指し示した。
「高い魔力を秘めた紋章使いは、自力で幽界まで精神を飛ばす事が出来る。だからこそ『蒼き門の紋章』なんて無茶な紋章も使えるんだけど、その理屈を利用して、カミューの身体から繋がっている幽界までの路に横穴をあける」
「…あ?」
「カミューの身体は今ここにあるだろ。でも精神は幽界に連れていかれてる。だけどその精神は決して身体から離れないんだよ。必ず通じている、でないととっくに死んでる」
「ちょっと待て、もうわけがわからねえ」
 ビクトールが唸るのに、ルックはひょいと肩を竦めた。
「熱したチーズみたいに細く長く伸びて、端と端が繋がってるみたいなもんだと思ってよ」
「あー、分かった。たぶん」
「それで、その伸びたチーズの真ん中に、無理やり別のチーズをくっ付けるって言ってるんだよ」
「マイクロトフは、そこからカミューの居るだろう場所まで辿るって算段か」
 ビクトールがぽんと手を打って答えるのに、ルックは軽く頷いた。
「そう。熊のわりには物分りが良いじゃないか」
「なんだとう?」
「とにかくね、カミューとマイクロトフとをシンダルの転移魔法陣の中に並べる。それを強力な魔法陣で囲んで、現世からの干渉を断つ。それからぼくが幽界までの横穴を繋げて、マイクロトフの精神だけをそこまで転移する」
 あとは、マイクロトフの奮闘次第。
 分かった? とルックがとどめに問えば、ビクトールはこくこくと頷いた。どうやら他の連中もこれで何とか手順が分かったらしい。
「じゃ、始めるよ」
 ルックの言葉でキリィがコートの内側から何やら草臥れた本を取り出す。ボロボロの革表紙のそれは、中を開けば細かく何かが書きこまれている。どうやら手帳の類らしかった。
 そして、広い会議室の中央に不思議な魔法陣が描き込まれていくのを、マイクロトフたちは緊張の面持ちで見守るのだった。



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2003/11/14