lost childhood 10


 キリィが不思議な円陣を描いていく、その傍らでマイクロトフは眠り続けるカミューを見下ろした。
 相変わらず呼吸は浅く、顔色は悪い。その額にかかる前髪をかき上げ、冷たい頬に手の甲で触れながらマイクロトフは奥歯を噛みしめた。今もまだ戦い続けているのだろうと思うと一刻も早く何とかしてやりたい時が焦る。しかしそんなマイクロトフに、静止をかけるのはルックだった。
 少年はくどい程にマイクロトフに念を押す。
「良い? 相手は普通の夢魔じゃないからね」
「承知している」
「普通、夢魔を退治するには専門家の力が必要だけど、今ここには専門家は居ないし、あなただって専門家じゃない」
「それも、承知しています」
「夢魔をやっつけようなんて思わないことだよ。カミューの意識さえ夢魔から切り離せたら良いんだから」
 マイクロトフは何度も頷いた。
 ルックが言うには、仕組みはこうである。
 夢魔の恐ろしいところは、幽界に場を作りだしてしまうところだと言う。そうされてしまうと、人間にとってひどく不利らしい。幽界では夢魔は好きに姿を変え人間を容易く翻弄し、またとり憑いた相手の夢を利用するから人間もまた簡単に罠に落ちる。
 そうした夢魔を退治するのには夢魔専門のハンターがいるわけだが、彼らは独特の方法でとり憑かれた人間の夢に潜り、本来人間にとって不利であるはずの幽界で夢魔の正体を見破り、仕留めてしまう。夢魔ハンターは大概の事では左右されない強靭な精神力が必要とされるのだとルックは言った。
「他人の夢の中で自分の夢を紡ぐくらいの強い創造力が必要だね」
 マイクロトフは首を傾げたが、話を聞いていたビクトールがなんとなく分かると頷いた。
「どっかの遠い国の呪術師の話を聞いた事がある。そいつらは自分の夢を好きに操れるらしいぜ? 普通夢ってな思い通りにならねえことが多いだろう? なんでこうなるって突拍子もない展開になったり、不思議なことがおきてたり、な」
 だけどよ、とビクトールは言う。
「そいつらは、夢の中で自分の思い通りに身体を動かしたり喋ったりできるんだそうだ。それは訓練次第で誰にでも出来るって話しだが、その呪術者みたいに夢の中で自在に空まで飛べるようになるには、素質と長い年月が必要らしいなぁ」
 何故ビクトールはそんな話を知っているのだろうと思うがとりあえずルックが異論を唱えないので黙って聞くマイクロトフだ。
「夢使い」
 不意に誰かが言った。
 声の主を探せば、キリィが相変わらずの作業を続けながらちらりとこちらを見るではないか。
「キリィも知ってんのか」
 ビクトールが機嫌よさげに問えば、彼は帽子ごと緩く頷いた。
「聞いた事がある。夢使いと呼ぶんだそうだ。恐らく世に言う夢魔ハンターも彼らと繋がりがあるのではないか、と思う。彼らは夢の中で自在に武器も作りだせば、紋章がなくても炎や雷で攻撃も出来るらしい」
 それがルックの言う創造力というものであり、だから夢魔を退治できるのだ、と。強く願い思う力が全てなのだとキリィは教えた。
 ふうん、と頷いたのは軍主の少年である。その横でナナミが大きく頷いた。
「すっごいね。私なんてね、こないだ夢の中で崖っぷちからまっさかさまに落っこちた夢見ちゃったんだよ。崖下にひゅーんって落ちるのがもうすっごく怖くて、起きた時に胸が痛いくらいにドキドキしてたんだよ」
「ナナミって夢の中でもおっちょこちょいなんだから」
「あ、ひどーい。うん、でももしあの時崖から落ちないで、逆にふわって飛べてたらきっと楽しかっただろーなー」
 ナナミは小首を傾げてそんな事を呟く。それからぱっと目を見開くとマイクロトフを見た。
「マイクロトフさんは夢の中で空飛んだ事ある?」
「は、空…ですか」
「うんそう。夢の中で空を飛ぶのって気持ち良いって聞いた事あるんだけどなぁ。ね、どう?」
 どう、と言われてもと、マイクロトフは己の胸を押さえると何とも言えず気まずい顔をした。
「俺は……実はあまり夢を見ないので」
「あれ、そうなの?」
「はい」
 頷いてマイクロトフは唇を引き結んだ。
 マイクロトフの眠りは実は深い。一度眠ると朝の定刻まで夢も見ないのだ。時折、うたた寝などした時に稀に見るくらいだが、それも曖昧で断片的で大したものではない夢ばかりだ。
 するとそれを聞いたルックが不機嫌そうに顔を顰める。
「ちょっと不安になってきたよ。夢も見ない人間が悪夢に乗り込むのって……」
 そんな少年の呟きにマイクロトフはうろたえた。
 やはり夢魔と対決するには、夢を見慣れている方が良いのだろうか。だがしかしこの期に及んで、だったら取り止めだと言うわけにも行くまい。
「ルック殿、俺はどのような不都合があっても諦める気は―――」
「分かってるよ。精々頑張ってきて」
 ひらひらと手を振るルックは、そろそろキリィの仕事が終わりそうだと言うので己の杖を握り直して厳しい顔つきになっている。するとまたビクトールが口を挟んだ。
「まぁ要するにあれだろ。幽界とかいう場所に突っ込んでカミューを捕まえて夢魔からとっとと逃げ帰ってくりゃ良いわけだ」
「実に適当で乱暴な言い回しだけど間違いじゃないね」
 ルックは振り向きマイクロトフを見上げた。
「絶対無茶はなしだよ」
 再度念を押して、ルックはキリィに変わり今度は自分が魔法陣を描き始めた。





 マイクロトフはまるで吸い上げられるような感覚に意識を覚ました。
 ハッとして目を開けば、そこにはルックが立っていた。
「何ぼさっとしてるんだよ。ほら、さっさと行くよ」
 くるりと踵を返して背を向け、ルックが向かうのは真っ暗な闇である。マイクロトフは立ち上がり慌ててその後を追った。そうしながら徐々に混乱していた意識が纏まってくる。
 魔法陣が完成し、マイクロトフはカミューと共にその中に並んで横たわった。その直ぐ傍でルックが風の紋章で『ねむりの風』を唱えたところまでは覚えている。
 そこから、今の今まで記憶がないという事は、それまで意識を失くしていたという事なのだろう。それにしても、いったいここは何処だ―――。
 思いかけてマイクロトフは漸く思い出す。
 ああ、そうか。
「ここが、幽界への道……」
 呟けばルックが歩きながら顔だけ僅かに振り返る。
「いや、もうここは幽界だよ。はぐれたら二度と元に戻れないから気をつけて」
「え―――」
 言いながらもルックはすたすたと先を歩いて行く。しかしやはり先には光明もなく、一切の闇しかない。マイクロトフにとっては少年の姿しかはっきりと見えなかった。こんな場所で彼の姿を見失えば確かにどうにもならない。
「ルック殿……っ」
「急いで。じゃないとこっちが持たないから」
「は……?」
「場を保ちながら、道案内のために意識を幽界まで潜らせているんだからさ―――悪いけど無駄話する余裕はないんだ」
 と、突然にルックの姿がまるで幻のように一瞬だけ揺らいだ。マイクロトフが驚き息を詰まらせていると、再び少年が振り返りきつく睨む。
「早く確りして欲しいな。途中からはあなた一人で先を進まなくっちゃいけないんだよ?」
「は、いや……しかしこんな暗闇では…」
「闇? ああ、あなたにはそう見えるのか」
 呟いてルックは相変わらずの速度で先を進みながら、ぐるりと辺りを見回した。
「意識を研ぎ澄ませば、あなたにも見えると思うんだけどな。足元を見てご覧よ、ずっと下に自分の身体が見えるから」
「え」
 驚き足元の闇を見下ろす。
 すると確かにそこは真の闇ではなく、まるで煤けた硝子の上に立っているかのような心地だった。くすんだその先には、おぼろげな景色が見えている。
 更に目を凝らしてマイクロトフは再び息を呑んだ。
 いや、実際には飲む息などないのだろう。
 見て初めて実感した。
 今の自分は意識だけの存在なのだと―――本拠地の城の会議室で、変わらず横たわったままの己の身体を見下ろした途端、マイクロトフは思い知った。
 そして目の前を歩くはずのルックを再び見て、驚愕する。
 少年は歩いているわけではなかった。何故ならその足は動いていなかったからだ。その姿は、真下に見える会議室に立つ姿勢のままであった。
 床についた杖をまっすぐに立てて両手で支え、背筋良く目前を見据えている。その足は微動だにしていないのだ。そして気付けば己の足もまた動いていない―――いや、動く足の感覚すらない。
 果たして己自身が今ここにあるかも、分からなくなってくるのだ。まるで指先から砂塵と化して自分が粉々になって散ってしまいそうな、そんな心地が―――。
「駄目だよ。確りしてって言ったろ」
「……ルック殿」
「ここは幽界。今あなたの意識は身体から離れてここにいる。それを忘れないで」
 マイクロトフは重く頷く。
 どうやら、自分の考えているよりもずっととんでもない世界にいるらしい。心構えが足りなかった。
「申し訳ない、ルック殿」
「ま、普通の反応だろうけどね。まだ落ち着いてる方だから安心してよ」
 そしてルックは不意に真上を見た。
「見つけた―――」
「……っ」
 足元の会議室はいつしか消え失せ、ルックの見上げた先には見た事もない風景が広がっていた。
 荒涼たる、焼け跡。
 まるで全てを焼き尽くされたというリューベやトトの村のように。
 黒く炭化した家屋の柱梁。
 草や土すら黒ずみ、所々から白い煙が立ち上っている。

 ―――これは。

 呆然とするマイクロトフの傍ら、ルックが呟く。
「僕はここまでだからね……無茶だけはしないでよ」
 振り向けば少年は青褪めた顔でマイクロトフを見遣り、そこで初めて杖から片手を離した。
「それから、あなたが帰りに迷わないように―――」
 ルックの指先がマイクロトフの胸に伸びた途端、カッと白く光る。
「帰りたい時は、これに呼びかけたら引き戻してあげるから」
 これ、と少年が指差す胸元には白い光が見えた。
「じゃあ僕はもう戻るから」
「ルック殿」
 再び少年を見ればその姿はゆらゆらと霞みのように揺れていた。
「ルック殿!」
「忘れないで。ここから先は夢の世界―――強く願えば、叶うかもしれない世界だから―――…」
 夢使いのように。
 空も飛べる。
 だから。

「頑張って」

 最後にそう一言残して、ルックの姿は完全にかき消えた。



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2003/11/22