lost childhood 12
はじめに感じたのは絶望にも似た哀しみ。
ところがそれを実感するよりも早く、腹の底から滾るようにせり上がってきたのは純粋な怒りだった。
「…っざけるな!!」
硬く握り締めた拳で地面を叩きつける。吼えるような声は一帯に大きく響いた。カミューがその大音声に弾かれたように顔をあげる。その瞳をマイクロトフは射抜く程のきつさで見据えた。
「出てこい」
「え……」
一瞬怯えたような目をしたカミューに、しかしマイクロトフは更に声を張りあげた。
「夢魔め! 姿を見せろ!! 俺の前に出てこいっ!」
「マイ、クロトフ…?」
呆然とするカミューを前に、マイクロトフは立ち上がり辺りに視線を移して更に怒鳴った。相手の姿など何処にもない。ここに居るのはカミューと自分だけで、虚空に向かって喚いているだけの姿など滑稽だろう。しかし怒鳴るより他にこの怒りを表す術がない。
ルックの忠告などあっさりと吹き飛んでいた。ただひたすら夢魔に対する怒りが体中を荒々しく渦巻いている。
「俺は怒ったぞ。絶っ対に赦せん!」
握り締めた拳を震わせてマイクロトフは怒鳴った。
「夢魔の奴を絶対に成敗してくれる。そうでなければ俺の気が済まんぞ!」
すると呆気に取られていたカミューが小さく身じろいだ。
「どうして……」
その声にガッと勢い良く振り返るとマイクロトフは決まっているだろうと拳を振った。
「おまえにこんな真似をしたんだぞ!? 赦せるか? 俺は赦せんぞ!!」
傷付けて、苦しめて、打ち捨てられた者のように無気力な瞳になってしまうまでに―――赦し難い仕打ちだ。しかしマイクロトフがそう訴えているのに当のカミューは呆然としたまま首を僅かに傾げている。
「マイクロトフ……なのか…?」
「なにがだっ!!」
「おまえ、本当に―――マイクロトフ…」
「俺は俺だ! おまえを迎えにきたんだがな、くそ! 出てこいというんだ夢魔め! 叩き切ってやる」
獰猛に唸ってマイクロトフは険しい眼差しで周囲を見遣る。しかし、視界の中央ではカミューが茫洋と立ち上がるところだった。
「どうして、だい…? どうしてマイクロトフがここに居るんだ」
問われて漸く自分が何の説明もしていないのに気付き、マイクロトフは少しだけ怒りを抑えてカミューを見つめた。
「ルック殿やキリィ殿が尽力してくださっておまえの元へ俺を連れてきてくれた。カミュー、俺はおまえを迎えに来たんだ」
言って手を差し伸べるとカミューは大袈裟なほどにビクリと震えた。
「まさか、マイクロトフ……本当に、俺を…?」
「何故俺がおまえに嘘をつく。良いから来い。夢魔は腹が立つが仕方あるまい、早く帰れと言われているのを思い出した」
この怒りはそう簡単には収まりそうになかったが、カミューに説明をしたことで少しだけ頭が冷えた。見た通りカミューは随分と憔悴している。随分と夢魔に付け入れられたのだろう、何度も繰り返しマイクロトフの死に様を見せつけられたと言った。
考えるだけで胸が冷える。
もし―――自分がカミューの息絶える様を、幾度となく見せられたらどうなってしまうだろうか。恐ろしくて、哀しくてどうにかなってしまうかもしれない。だがそんな悪辣な世界を見せつける夢魔に、やはり今のように怒りを覚えていたと思う。
相手が人間ならざる、妖魔だと分かっていても。人を苦しめるばかりの非道な所業に怒り心頭に達したろう。
だが、今はそんな夢魔に怒りをぶつけるよりも、目の前で未だ呆然とするカミューを救う方が大事だ。
「帰ろうカミュー。俺と一緒に」
そんなマイクロトフの差し出した手を、カミューはあと数歩で取れる距離にいた。戸惑いながらも、右手が緩く持ちあがろうとしている。そんな緩慢な動作に焦れて、こちらからその手を掴もうとマイクロトフが歩み寄ろうとした。
その時だ。
「……ぐっ」
不意に背中に石でもぶつけられたような衝撃がマイクロトフを襲った。いったいなにがと背後を振り返ろうとするが、それよりも先にカミューの見開かれた瞳とぶつかる。
「カミュー…?」
どうした、と問いかけようとして更に背中に強い重みがかかって、マイクロトフは膝をついた。
痛い。
いや、熱い―――。
首を捻じ曲げ自分の背中を見遣ったマイクロトフは、そこに短剣が深々と突き刺さっているのを見た。途端に背中を中心に激痛が走る。しかし背後には誰の気配もなかったのだ。
「なぜ……こんな…っ」
痛みに息を殺しながら疑問を口にした途端、ここが夢の世界なのだと思いだす。
「―――っ…!」
そして瞬く間に四方八方を炎が埋め尽くした。
突然の急変にマイクロトフの理解がついていかない。しかし、目の前のカミューは驚愕に目を瞠りながらも、諦念をその表情に滲ませて、ふらふらと後退していく。
「カミュー…っ」
「またかマイクロトフ。また、おまえは―――」
そしてカミューは両手で顔を覆うと、最初と同じ場所に腰を下ろしてしまった。
「違う。カミュー、これは違う!」
まさか自分自身が悪夢を体現するとは思わなかった。しかしこれが、ルックの言っていた悪夢に飲み込まれるという状態なのだろう。
見回せばマイクロトフは燃え盛る家の中にいて、ぽっかり開いた間口の向こうにカミューが顔を伏せて座りこんでいる。そしてマイクロトフは背中に短剣が突き刺さり、動けない。これは、まるでカミューが実母と別たれてしまったあの時の再現そのままではないか。
言葉にならない憤怒がマイクロトフの全身を染めていく。
こんな状況を作りだすために自分はここに来たわけではない。なのにこのざまはなんだ。夢魔の好きなように悪夢に踊らされている。
「カミュー!」
背中から息が引き攣りそうなほどの痛みが走るが、マイクロトフは渾身の力を込めて名を呼んだ。
「目を覚ませカミュー! こんなものはただのまやかしだ、俺は……! 俺はこんなことでは死んだりしない!!」
身体中が震えるほどに激痛に侵されていた。
それでもマイクロトフは立ち上がろうと足掻く。これは現実ではないのだからと、本当は短剣など背中に突き刺さってはいないのだと必死で念じながら。
「これしきのことで、俺がどうにかなるものか! 夢魔などに、俺は負けん!!」
カミューに呼びかけながら、次第に自分に言い聞かせるような言葉で自らを奮い立たせる。すると今にも崩れ落ちそうでありながら、マイクロトフは身を起こすことに成功した。
立ち上がれば炎はひどく熱く、本当にこのままでは焼け死んでしまうだろうと思うほどに燃え猛りマイクロトフを襲ったが、それでも足に力を込める。
しかし、激痛は現実で知るそれよりも身体中をがんじがらめにし、今にも気を失いそうなほどだった。
これが本当に夢の世界なのかと疑いたくなるほどに、現実的な痛みと炎の熱。背中がびっしょりと濡れている気がするのは、血が流れているのだろう。このままでは失血死するかもしれない。
そんなマイクロトフであるのに、間口の向こうではカミューが今にも泣きだしそうな顔でこちらを見ているばかりだ。
ふざけるなとマイクロトフは途端に腹が立った。
「カミュー! この馬鹿、さっさと俺を助けに来んか! 気が遠くなりそうなくらい痛いんだぞ!!」
人が決死の覚悟で悪夢の中まで迎えに来て、それでこんな目に遭っているのに呆然と見ているだけの奴があるか。
「カミュー!」
「え…でも……」
「でもではないっ。早く来い! でないとお前をおいて俺は帰るぞ!!」
「そんな。ちょ……っ」
情けない脅し文句にカミューが慌てたように立ち上がる。そして炎をものともせずに飛び込んでくると、やっとマイクロトフの身体を支えて立たせると、燃え盛る炎の中から連れ出してくれた。
そして炎から遠ざかると、二人揃って石くれの上に身を横たえた。マイクロトフはもう背中の痛みが指先にまで伝わって震えるしかなく、カミューもそんなマイクロトフを半ば背負うようにして運んだために荒く息を乱していた。
「大丈夫か、マイクロトフ」
「ああ。夢、だからな」
たぶん大丈夫だ、と呟いてマイクロトフはまた痛みに顔を顰めた。
現実と違って直ぐに死んだりはしないだろうと思った。だが、もし夢の中で死んでしまったら現実の身体はどうなってしまうのだろうか。良く分からないが、きっとこの悪夢から戻れなければやっぱり身体の方も死んでしまうのだろう。
夢の中とはいえこれ以上失血すれば本当に死んでしまいそうだ。幸い短剣が突き刺さったままなので、一度に流れる量は少ないのだが、指先が凍えて震えが止まらない。
まったくこんな目に遭うのは現実の戦闘だけで充分だというのに―――。
過去の失態の数々を思い出してマイクロトフは唇を真一文字に引き結んだ。実際に、生死の境をさ迷った事がある。しかも一度だけではなく、重傷を受けた事は何度もあった。その都度、カミューに大変な気苦労をかけてきたのだ。
もしかしたら、それゆえのカミューの悪夢なのかもしれない。
だったら、この有様はマイクロトフの所為でもあるのだろうか。
「カミュー、俺はいつもおまえにこんな悪夢を見せてきていたのだな」
痛みに喘ぎながら囁くと、傍らでカミューが首を振る。
「これは、俺の心の弱さだから―――さっき、お前に怒鳴りつけられて、反省した」
「……なんだ」
「目を覚ませ、と。こんな事では死んだりしない……早く助けに来いって」
そしてカミューはくしゃりと泣き笑いに顔をゆがめた。
「何度も何度も、マイクロトフの死ぬところを見せられて、最初は死なないでくれって手を尽くした。泣いて懇願したりもした。だけどおまえはそんな俺の手をすり抜けて何度も呆気なく死んでいく―――そのうちに俺は諦めかけていたんだ」
カミューはぎゅっとマイクロトフの手を握りしめた。
「ここが現実じゃないことも、これが、俺を苦しめようとしている手段だとも分かっていた。夢魔、かい? そう怒鳴っていたね。そいつの仕業なのかな……ただ、負けてはいけないと思って、絶望だけはしないように、俺はそのうちおまえが死ぬのを見ない振りする事で耐えるようになった」
「カミュー……」
「でも、それじゃ駄目だったんだな。諦めずに何度でも俺はおまえを助けようと頑張らなくてはいけなかったんだ。俺は、目を逸らして耐えているつもりで、いつの間にかゆっくりと絶望を呼び寄せていたみたいだな」
そしてカミューはマイクロトフの身体をぎゅうっと抱き寄せた。
「ごめん、マイクロトフ。俺はいつの間にか昔のように―――全てを諦めてしまうところだった。あんな後悔は絶対にしないと誓ったはずだったのに……」
最後の方はまるで独り言のような呟きだった。だがマイクロトフにはカミューがなにを言っているのかが分かった。
マイクロトフは、少年時代のカミューが多くの事を諦めていたのを知っている。亡くなった母を振り返ることをせず、笑顔をなくしてひたすら「生きている」だけだった。
幼いカミューは実母を見捨てて逃げたも同然で、少年になったカミューは自分が助かる代償に父を刃に晒した。決してカミューの所為ではなく、どれも抗い難い運命の仕業だった。しかし、どれほど深い後悔に苛まれただろうか。
「カミュー」
マイクロトフはその背に腕を回すと、痛みも何も振りきってカミューの身体を抱き締めた。
「大丈夫だ。おまえはいつでも最大限に頑張っている。俺はそれを知っている。何も、後悔する必要はないんだ。だから、俺と帰ろう」
「マイクロトフ……」
「早く目を覚まして、俺におまえの笑顔を見せてくれ」
「うん、そうだね。マイクロトフ…好きだよ」
「ああ、俺もだ」
微かに笑ってマイクロトフはカミューの頬を撫でた。
もう、大丈夫だろうか。
悪夢はカミューから遠ざかりつつあるだろうか。
「カミュー、もう負けるなよ。ここは夢の世界だ。意思の力が全てらしいのだからな」
願えば空も飛べるはずなら、死なないと願えば、この背中の傷も消えるかもしれない。しかし―――先程よりもずっと身体が重く感じるのは、マイクロトフの気の所為だろうか。
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2003/12/07