lost childhood 13
夢の中とはいえ、寒さも感じれば震えもするのが不思議である。
いつのまにか燃え盛っていた炎は消え、跡には煤けた瓦礫と鼻につく嫌な臭いがするだけだ。だが、今のマイクロトフにはそんな臭いを遥かに凌駕する背中の痛みがある。
「マイクロトフ……」
「―――平気だ」
短く答えてカミューに支えられながら立ち上がる。
「帰るぞ」
しかしその帰る術というのが心許ない。マイクロトフはルックの言葉を思い出しつつ、己の胸元に視線を落とした。
―――帰りたい時は、これに呼びかけたら引き戻してあげるから。
そう言ったルックが指先を伸ばした時、確かに眩い光がマイクロトフの胸に吸い込まれていったのだ。その場所におずおずと掌を置くと、不意にそこからじんわりと熱が生まれてくるのを感じた。
「……これは…」
呆然と呟き、マイクロトフがハッと胸から掌を離した瞬間、そこから翠色の光がふわっと広がってみるみるうちに視界を翠の閃光で埋め尽くした。
「う、わ」
その衝撃に思わず目を閉じて身を硬くしたマイクロトフとカミューだったが、光が収まった時、目の前に浮かんでいたそれに唖然と言葉をなくした。
「マイクロトフ、これって…」
カミューが呆然とした声で呟く。それも当然だろう。二人の目の前に浮かんでいたのは、極小のルックだったのだ。
掌に収まる程度の全長は翠がかった光に淡く包まれていて、片手には自分の身長と同じくらいの杖を持ち、空中にぷかぷかと浮かびながらふんぞり返っている。その目は本人と変わらないきつい眼差しなのだが、どうやら口が利けない様子でしきりに杖を振り回していた。
「ルック殿の化身だろうか?」
「さぁ……これ幻…じゃないよね」
マイクロトフが首を傾げると、そのルックは空中をすうっと滑るようにして移動し、カミューの目の前で留まりその前髪に手を伸ばした。
「い、痛っ」
どうやら幻ではないらしい。小さな手がカミューの前髪をまるで綱引きのようにして引っ張っているのだ。
「どうやら、このルック殿が出口まで導いてくれるようだぞ」
「この頼りなさそうなのがかい。って、イタタ」
またも髪を引っ張られてカミューがたたらを踏む。
「ごめんなさい。前言撤回。頼りにします! だからっ」
カミューが叫ぶようにして言った途端、ぱっと前髪を離して小さなルックは満足そうに頷いた。そして杖を大きく振り回すとくるりと向きを変えて、ふよふよと進みだした。
「ついて行けば良いのだろうか」
「…だろうね……」
げんなりした口調でカミューがマイクロトフの身体を支え直す。そして二人でゆっくりとルックの後を追い出した。
小さなルックは何度も気遣わしそうに二人の様子を振り返りながら先を進んだが、次第にその速度が遅くなっていく。急がねば、と思うのにマイクロトフの足が徐々に重くなっていくのだ。
「マイクロトフ。少し休もう」
「いや。かまわん」
「だけど」
「これは夢だ。目が覚めれば、こんな怪我など負ってはおらんのだから」
頑なに言い張ってマイクロトフは足を引き摺るようにして先を急ぐ。しかしその身体をカミューの腕がきつく抱き寄せて引き止めた。小さなルックが先から戻ってきてじっとそんな二人を見下ろしている。
「駄目だ。これが夢なら尚のこと、辛い想いはさせられない」
そしてカミューは自分から地面の上に座り込むと、マイクロトフの身体を強く引っ張る。全身が鉛のように重かった身体は抗いも出来ずにカミューの身体に凭れるようにして倒れた。
途端にどっと疲労が波のように押し寄せてきて、マイクロトフはカミューに抱えられるまま荒い息をついた。するとその肩を撫でながら静かな声が耳に滑る込んでくる。
「俺はね、嫌な夢って嫌いなんだよ。現実で幾らでも嫌な事があるのに、どうして夢の世界でまで辛いことを体験しなくてはいけないのかってね」
「だが、ここは夢魔の見せる悪夢だ」
辛くないわけがない。
だがカミューは小さく首を振る。
「でもこれは俺の夢だよ。マイクロトフまで辛い思いをしなくて良いんだ。それに、おまえが辛いのは俺も辛いんだから」
「……カミュー」
「その夢魔とやらはよく分かっているね。おまえの傷は、自分のそれよりも痛いよ」
にわかに明るい声で冗談めかして言うが、カミューの感じているだろう痛みはマイクロトフにも十分理解できた。その事をすまなく思う反面、またもや夢魔に対する怒りが湧いてくる。
相手は目に見えない存在だが、その脅威は本物だ。
背中から今もじくじくと流れ続ける血がそれを物語っている。マイクロトフは遣り切れず深い吐息をつくと目を伏せた。だが直ぐに目を開けると自分を横抱きに支えているカミューに声をかける。
「カミュー……おまえは夢で、空を飛んだことがあるか」
「うん?」
「俺は、ないんだ。夢をあまり、見んからな」
だから夢の中で自分の思うように動くという事がよく分からない。
「そうなのか? まぁマイクロトフはいつも熟睡しているしね。俺は、朝に見る夢が多いけど、空を飛ぶ夢は何度かあるよ」
その目の前では小さなルックがなにをするでなく、ふらふらと浮いている。それを見てカミューがくすりと笑った。
「けれど、こんなふうに飛んでいるのじゃない。夢の中で俺は鳥の姿になって空を飛んでいるんだ」
「鳥、に…?」
「そう。鳶か鷹か、それくらいの大きさの鳥になって、強い風を翼に孕んで螺旋に廻りながらぐんぐんと上へのぼっていく」
雲を幾重も抜けて上空へとまるで何かを追い求めるような勢いで、のぼっていくのだとカミューは囁く。
「マイクロトフ。その夢の、空の果てにいったい何があると思う」
「なんだ。太陽か」
「ああ、それは良いなあ。でも、違う。果てには―――何もない」
「………」
「何もないんだ。一生懸命飛んでのぼったはずなのに、果てには塵ひとつない、無の世界でね」
「カミュー」
思わず咎めるようにマイクロトフは名を呼んでいた。それ以上を言わせたくなくて、けれどカミューは構わず先を続けた。
「だけどさマイクロトフ。そこで目が覚めたら、ほら、おまえがいるんだよ」
そしてカミューは掌でさらさらとマイクロトフの肩を撫でた。
「カミュー……」
「良いんだよ。俺は、だから良いんだ」
言葉もなく、ただマイクロトフはまた目を伏せると吐息を細くこぼした。
「早く目を覚ましたいな」
「……そうだな。少し、楽になった。…行こう」
「立てる?」
「ああ。ルック殿も、頼む」
漸く立ち上がった二人に、小さなルックはまたも杖を振り回して忙しく飛び回った。その身体は相変わらず微かに翠色に光っていて、それが暗い光景の中で救いのように輝いている。なるほど、道しるべなのだということだ。
ところがそうして再び歩き出そうとしたマイクロトフとカミューだったが、不意に目の前を行くルックがぴたりと止まった。その小さな身体が止まりきれなかったカミューの顔にぶつかる。
「うわ」
その声にマイクロトフが足元から顔を上げる。
「な……っ」
そして驚きのまま固まってしまった。その傍らで、やっと小さなルックを顔から退けたカミューも同じく目前を見据えて凍りついた。
ぜぇぜぇと喘息の音が聞こえてくる。
一行の目前に立ちはだかっていたのは、死んだ筈の男。ハイランドの、この夢魔を封印球から解き放ち、最初の犠牲者として悶死したあの男であった。
その息苦しい喘ぎと、この世ならぬ者の薄昏い眼差しに心まで冷やされていくようだった。その幽鬼のような姿を認めてマイクロトフは失血からくる寒さだけではない悪寒が、全身を這い登るのを感じた。
「貴様は」
名も知らない。ただ、狂人のようとしか見えなかった男。
その壮絶な死に様は今も目の裏に焼きついているし、既に男が死んでしまっているのは分かっている。だが、この男もまた夢魔によって悪夢を見せられながら死んでいった者―――果たして、これが夢魔の見せる幻なのか、それとも男本人の魂がそこにあるのか、見分けなどつかなかった。
だが男はゆるりと哂った。そしてぽっかりと虚のように開いた口から、錆びたような声を放った。
「よく、来たな」
まるで抑揚のない呪わしい声に戦慄が走る。
「背中は、痛むか」
「ぐぁ…!」
途端に刃が刺さったままの背にずきりと激痛が走った。
「マイクロトフ!」
痛みに崩れ落ちそうになるマイクロトフをカミューが慌てて支える。その前で男は喉奥で引き攣ったような笑みを洩らした。
「死ぬるか」
笑っているのに全く感情が窺えない。まだ生前、狂ったように哄笑を迸らせていた姿の方が人間らしく思えた。
「夢で死ぬると、現(うつつ)でも死ぬるぞ」
その言葉にマイクロトフよりもカミューの方がハッとした。そして再び背からじわじわと染み出してくる血を見て絶望的な表情をする。そんな顔に大丈夫だと言ってやりたいのに、目の前の男がひくひくと虚ろな喉を震わせて笑うたびに、背に突き立った刃を目に見えない力がぐいぐいと押すのだ。
悲鳴を押し殺してマイクロトフはとうとう地面に手をついた。
「マイクロトフ!」
「…カ……ミュー…」
立ち上がらねばと思うのに。
そして立ち向かわなければと強く思うのに、少しも身体の自由が利かない。まさしく夢の中では自分自身のことさえままならないように、だ。そんな自分の弱さに歯噛みしたい気分でマイクロトフは掌に感じた土を握り締めた。
このままでは、夢魔の良いようにされてしまう。何とかしなければと心ははやるのに、動いてくれない身体が悔しくて堪らなかった。
ところが。
「おまえは大人しくしてろ」
頭上から冷えた声が降ってくる。ふと見上げればカミューが己の腰に手を持っていくところだった。
「我らの目覚めを邪魔するならば、排除するまで」
カミューの厳しい声と共にすらりと引き抜かれたのはユーライア。美しい白刃が煌いてマイクロトフは目を細めた。
「悪夢を、切るか」
錆びた声が不快を含んで吐き捨てる。
「やってみるがいい。悪夢が、切れるものか、どうか」
その声に応じるようにカミューはユーライアを正眼に構えた。
「切ってみせるさ。夢の中ならではこそ、叶うこともある」
そしてカミューは、こんな状況に不似合いな優しげな微笑を浮かべた。
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ちびルックは、某ドラ●もんのミニドラのようなものをご想像ください。
2004/02/20