lost childhood 15
記憶の風景は随分と色褪せて、けれどあの日に初めて見た彼の髪の色と瞳の色だけは今も同じ鮮やかさを持っている。
あの日から常に傍らにあった、彼の眩いほどの輝き。
そつのない笑顔も結構だが、自分は彼の綻ぶような笑顔が好きで、面と向かってそんな笑みを向けられると、いつでも胸がじんわりと暖かくなった。
―――はじめまして。
あの時から、はじまった。
それからの彼を、自分は独占している。
金茶の髪はあの頃より少し色味が濃くなったような気がする。
猫っ毛のようにふわふわとしていたのに、いつの間にかさらさらと滑る髪になった。その手触りを今も昔も知っているのは、きっとマイクロトフくらいのものだろう。
あれでいて、そう簡単に他人の手に触れさせないところは、本当に人に慣れない猫のようだ。くしゃくしゃと、その触り心地の良さそうな髪を掻き乱せる特権を持っているのは、全く限られている。
最初は握手くらいしか出来なかった。
はじめまして、よろしく、と。お定まりの挨拶を交わしたのは一瞬。次には二人とも剣を抜いていた。
剣術試験の対戦相手だったのだ。
その時、マイクロトフが知っていたことと言えば、彼の名がカミューというのと、年がひとつ上なのだと言うことくらいだった。
彼がマチルダの外から来た人間で、遠いグラスランドから来たのだというのは随分後になってから、別の者の口から聞いた。マチルダには珍しい綺麗な髪の色だとは思っていたが、それがカミューを異邦人だと教える理由なのだとは考えてもいなかった。
ただ、陽光を受けてキラキラと光る髪が綺麗で、繰り出される剣先がまるで舞のように空を切り裂くのがすごいと思った。
一度で惹き付けられた。
カミューの剣に夢中になった。
ひとつ上とはいえ、同年代でマイクロトフと渡りあう実力の者は、それまでいなかったからだ。
試合の結果は引き分けで、決着はつかなかったがそれはカミューに声をかける良い口実になった。試合の後で呼び止めて振り向いた彼に、再戦の申し込みをすると、ひどく驚いた顔をしていたが受けてくれたのだから。
柔らかな笑顔で、こくりと頷いた。
―――いいよ。
短く。けれど、確実に諾を返してくれた瞳にマイクロトフも笑顔を返した。
その時から、マイクロトフはカミューの親友で、そして一番身近な場所にいた。それ以前の、何も知らず。
「マイクロトフ?」
不意にカミューが案じるような声をかけてきた。
ハッとして振り向くとあの頃と変わらない色をした瞳が、そっとマイクロトフの顔を覗きこんでいた。
ここは幽界。カミューの魂が引きずり込まれてしまった、夢魔の作り出した悪夢の中だ。マイクロトフはルックに導かれて、迎えに来た。
今、二人の歩く道はマイクロトフが辿った道だった。
荒漠とした世界に焼け焦げた瓦礫がところどころ山を成している。それらが視界を掠めるたびに言いようのない焦りが胸を覆っていくのだ。カミューを探して夢中で駆け抜けた道だったが、今ならはっきりと理解できる。
「カミュー……俺は、この道を知っている」
「え?」
砂利を踏む二人の足音しか聞こえなかった世界で、ぽつりと落とした言葉にカミューが不思議そうに瞬く。マイクロトフは不意に横に見えた焼け落ちた建物を指差した。
「あれは粉屋の家だな。息子は乱暴者で嫌な奴だった」
子供の頃のカミューを一番に苛めていた。ガキ大将で他の子供たちは皆が粉屋の子倅に逆らえず、まるで言いなりの兵隊のように大勢で寄って集ってカミューを追いつめていた。
「父親も何かにつけてカミューを悪し様に言っていたし、つくづく嫌な親子だったが、こうして無残な家を見ると怒りの持って行き場がなくなる」
「マイクロトフ、何を言って……」
「おまえは、マチルダに来る前の事を何も教えてくれなかったな。俺も聞かなかったしそれを不自然だとも思っていなかったが、今思うとそれこそ不自然なことだった」
マイクロトフは何度かカミューに自分の子供時代の話をした覚えがある。それなのに、その反対はないのだ。ただの一度も。なのにこんな事件が起きるまでそのことを疑問とも思っていなかったのだ。
「教えてくれカミュー。それは、言わなかったからなのか、言えなかったからなのか……どうなんだ」
ひく、とカミューの喉が震えたようだった。
瞠られた瞳は動揺を隠しきれずにおどおどと揺れている。
「え…? な、何言ってるの」
「おまえの子供の頃の話を、どうして俺は知らなかったのだろうと、聞いている」
今、こんなときに聞くべきではないのかもしれないが、こうもまざまざと彼のグラスランドでの世界が焼け落ちているのを見ると、無視できなくなってくる。
この道は、町を東西につき抜ける大通りだ。
両側には家々が立ち並び、通りに面した場所は商店が幾つも連なっている。比較的、人口の多い町の特徴を有していた。この大通りを真っ直ぐ進むと次第に人家がまばらになり、緩やかな傾斜をのぼると丘の頂が望める。そこに、カミューの育った家があるはずなのだ。
小さなルックは先程から二人を導いているが、このまま進むと間違いなくその場所に辿り着く。
現実にあの屋敷は燃えた。
近所の悪童の仕業によって、焼けたのだ。その時カミューは実の父に放火の罪を疑われ、危うく死にかけたのである。
烈火の紋章の中で全てを見たマイクロトフでさえ気付く、この道なりを、カミュー自身が気付いていないわけがなかった。綺麗さっぱりその記憶を失っていない限り。
ルックはただ幽界からの出口に向かっているだけなのだろう。
しかし、直面する景色からは夢魔の意図を感じずにはいられない。或いはカミューの悪夢が色濃く反映されているだけなのかもしれない。ともあれ、否応なしに不安を煽られずにはいられないのだ。
「カミュー。この道の先には、おまえの家があるはずだ。大丈夫か」
するとカミューは信じられないという顔で首を振る。
「どうして、マイクロトフ」
「俺は見た」
それを果たして告げるべきなのか、迷ったのは一瞬だった。
「おまえがこの町でどのように暮らし、そして何が原因でこの町を離れることになったのか。全てを俺は、おまえの烈火の紋章を通じて知ることが出来た」
「―――全て?」
呆然とした声が問い返してくるのに、マイクロトフは頷いた。
「ああ、全てだ。カミューのこの……」
そしてマイクロトフは手を伸ばすとカミューのこめかみに掌を押し当て、髪の生え際にうっすらと残る白い傷跡に親指で触れた。
「この傷が、どうして出来たのかも―――俺は、見た」
見ることしか出来なかったけれど。
こんな一方的な告白は、公平ではないと分かっていたが、言わずにはいられない。
「あの時、俺が傍にいて庇ってやれたら良かったのに」
カミューに烈火の紋章があるように、マイクロトフに宿るのは騎士の紋章。守るべきものを守るための紋章なのだ。
「カミューが悪意をぶつけられていたあの頃、俺は騎士になることだけを考えて勉強していた」
それが悪いことだとは思わない。だが、その落差を思うとどうしようもなく、憤りが湧き起こってくるのだ。傍にいたなら、話し相手にもなれたのに。手の届く距離だったら、抱き締めてやれたのに。
「同じマチルダの騎士にするなら、最初から同じマチルダに生まれていたら良かったんだ。そうしたら、俺はもっと早くにカミューに会えたのに」
だが、それが運命というものだ。
人それぞれの、生まれと境遇があるからこそ、出会いがあり絆が生まれる。
あの経験がなければ、カミューは今もグラスランドで、遠く離れたデュナンの地に訪れることなく、マイクロトフと出会うこともなく生きていたかもしれない。
あの全てが必要だったとは思わないが、無ければ良いとも言いきれない。
しかしこれだけは、切実に願った。
烈火の紋章の中で、無力感に喘ぎながら、何度も思った。
「俺は、でも……」
マイクロトフはまだ呆然としているカミューの髪に指先を差し込んだ。知った手触りが今は何だか泣きたくなるような気持ちにさせる。そしてそのままマイクロトフはカミューの頭を自分の肩に抱き寄せた。
「俺は、カミューをずっと抱き締めたかったんだ」
引き寄せられるままに肩口にカミューの頭が押し当てられる。マイクロトフは無抵抗の背中に腕を回した。
「本当は目覚めてから抱き締めたかったんだがな、この景色は些か暗い」
暗くて陰湿で、今にも怒鳴り散らしたくなる。
誰に。
夢魔か、或いはまだ、囚われている愚かな男に。
「良いか、確りと聞けよ」
背を抱く腕に力を込めると、カミューが僅かにびくりと身を強張らせた。マイクロトフはそのままきつく抱き締めると、一呼吸してからはっきりと言った。
「カミューは、俺のだ。誰にも渡さんし、傷つけさせない。あれは、既に過ぎ去った過去の出来事でしかないのだからな。夢魔如き下劣な魔物に食われるような真似は、絶対に許さん」
「マイクロトフ……っ」
「分かったらさっさと帰るぞ。忘れるなよカミュー。この先にはおまえの家があるが、それは悪夢の中のただの幻だ。ここは意識の世界だ。惑わされるな」
そしてカミューの肩を掴むと身を離してその顔を覗きこんだ。途端にマイクロトフは眉を顰めた。
「……なんて顔をしているんだ、おまえは」
「…って、マイクロトフ…っ」
寄る辺をなくした子供のような、不安そうな顔で小さく悲鳴のように囁く。
「だってではない。俺はもう全てを知ってしまったんだ。忘れることは出来ないし、知らない振りも出来ん。だからおまえもそう理解しておけ」
大した開き直りである。だが、そう言うしかないのだ。
「何故、おまえが明かさなかったのかが俺にはわからん。しかも、何をそう負い目に感じているのかもだ。俺が見た限りでは、カミューは何も悪くなかったのに」
途端にカミューはまるで肺を破られたような息苦しい様で、大きく喘いだ。
「……でも俺は、父親を……―――母親だって…み…見捨て……た」
己の胸元をぎゅうっと握り締めて今にも地面に膝をつきそうに揺れる。
「自分が……自分だけが助かりたいために……実の親を、俺は…」
マイクロトフはその告白を受けて目を驚愕に見開かせた。
「カミュー、おまえは」
そんなことをずっと考えていたのか。
「馬鹿な」
それは違うだろうと、目撃者であるマイクロトフは首を振る。しかしカミューは激しくその言葉を否定した。
「俺は逃げ出したんだ! 母からも父からも! 血を流して俺を見て、恐ろしかったんだよ。親なのに……助けなくてはいけなかったのに……!」
マイクロトフは驚きつつも、カミューの腕を掴むと間近から瞳を覗きこんだ。
「カミュー、それは仕方のないことだ」
「なにがだよ! 見たのならおまえも知っているだろう!? あの時引き摺ってでも外に連れ出していたら死ななかったかもしれないのに。そうしたらあの人たちだって、俺と暮らさなくても良かったんだ……」
母を置いて逃げたこと。
父と義母と腹違いの兄への罪悪感と。
しかし。
「確かに俺は見た。だから知っているとも」
マイクロトフは唸るように声を絞り出した。
「カミューがどれほど懸命に生きようと頑張ったかを知っている。幼いおまえが必死で逃げてくれたから、あの日俺たちはマチルダの、あのロックアックスで出会えたんだろう!」
怒鳴り、マイクロトフは再びカミューの身体を抱き締めた。そして震える声で吐息のようにこぼした。
「俺は……カミューがマチルダに来てくれた事が、嬉しいんだ…」
誰も傷つかないのが一番良い。
だがもし、誰も傷つかない代償にカミューがマチルダに来ないのだとすれば―――そんな仮定の話は想像もできないのだ。
「おまえと出会えた事を、俺は感謝すらする……」
こうして抱き締めてやれる今を。
カミューを自分に与えてくれた運命に。
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2004/03/07