lost childhood 16
抱き合ったまま暫く無言の二人だったが、ややもしてどちらからともなく離れた。いつの間にか二人共の瞳には穏やかさが戻っている。
そして二人は再び歩き出し、緩やかな坂道をゆっくりと進んだ。
ともかく今は、先を進むしかないのだ。
カミューにとっては何度も歩いた道だろう。マイクロトフにとってもまた、烈火の紋章が見せた記憶の中から幾度か覗いた景色だった。
そして覚えのあるとおりに、斜面の向こうに屋敷の屋根が見えた。
いつの間にか厳しい表情を浮かべている二人の前を、小さなルックはふらふらと飛んでいたが、不意にその身体がぐらりと揺れた。だが不審に思いながらその小さな翠の瞳が見つめる先を辿ってマイクロトフはぎょっとする。
「………」
冷や汗が垂れる。
そこには屍が横たわっていたのだ。
一見して普通の町人の装いの男が草むらに倒れ、死者特有の虚ろな目で天を見上げていた。
「粉屋の主人だ」
カミューがぽつりと言った。そして青褪めたその顔がゆらりとその向こうを見てまた緊張に頬を震わせる。
「息子も、いる」
父親の向こう側にうずくまるような格好で倒れている少年。その顔もまた屍のそれだった。
そしてマイクロトフはハッと息を呑んだ。
丘へと続く道の脇。青々と茂る草むらの至る所に、屍が累々と転がっているのに気付いたからだ。そのどれもが町の人間のようだった。隠居した皺深い老人も、頑健な職人風の男も、噂好きな感じの女も、やんちゃそうな子供も―――。どれもこれも。
呆然とマイクロトフが死者たちの姿を眺めていると、その横でカミューが大きく身体を震わせた。
「な……何故…」
引き攣ったような声は、悲鳴をかみ殺した故か。
今、カミューの目前に死者となって横たわっているのは、幼い頃に住んだ町の住人たちだったのだ。あの頃と変わらぬ姿で、死に絶えている。
よく見れば刺し殺された者もいる。中には焼け死んだような姿の者も。一体誰によってこんな無残な姿にされたのか。
きっとこの先に、夢魔が再び彼らを待ち構えているに違いなかった。
「カミュー」
マイクロトフは愕然と固まるカミューの肩を掴んで揺すぶった。
「先へ進むぞ」
「あ……あぁ」
「惑わされるな。夢魔の仕業だ!」
「分かっている……すまない、動揺した…」
軽く首を振ってカミューは気を取り直す。だがその顔には紛れもない衝撃の痕跡が残っている。青褪めて萎れた頬はまるで彼を老成した者のように見せた。
だが、マイクロトフはまだその時のカミューの苦悩を理解していなかった。
見知った者が累々と屍に成り果てた風景に、ただ衝撃を受けたのだろうとしか考えていなかったのだ。だから、この先に待ち構えている者の正体を本当に予見出来ていなかった。
「カミュー……夢魔に決して負けるな」
「…うん」
夢魔はカミューにとっての弱点を攻めてくるだろう。
考えたくはないが、もしかしたら父親の姿を借りて出て来るかもしれないのだ。あの夜、屋敷が燃えたあの時に悪鬼の形相で剣を突きつけてきたあの恐ろしい姿で。
或いは、母を殺したあの男。
罪に恐れ慄き何年間も沈黙を通し、最後の最後で全てをぶちまけて泣き崩れた狂人のような男の姿で出て来るかもしれない。母を殺したようにカミューを殺すために。
しかしそんなマイクロトフの予想は、屋敷の全貌が見通せる場所まで来た時に、完全に裏切られた。
「………え……?」
何処か呆然とした声が、自分の口から出たのだと気付いたのは、一拍遅れてからだった。
丘の上の屋敷。
焼けてところどころ柱や梁が剥き出しになった哀れな姿の屋敷だ。完全に崩れ落ちるまでには至らず、それでも全体を炎に包まれて黒ずんでしまった建物は、今は気味悪く嘆き悲しむような佇まいをしている。
その正面に、小さな影がぽつんと立っていた。
立っているのだから死者ではない。
屍の野に唯一の生ある姿にマイクロトフは遠くから目を凝らした。
だがはっきりと認識する前にカミューが突然、腰にさしていたユーライアを引き抜いたのだ。
「ど…うして……っ!」
恐れるような声音に驚きながら再び屋敷の方を向いたマイクロトフは、そこで漸く人影の正体を見極めることが出来た。そして、呆然と声に出していたのだ。
まさかそんな。
二人の到着を待っていたらしい人影は、小さく首を傾げるとその手をゆっくりと慕わしげ振ってきた。
「おかえりなさい、カミュー」
聞こえた声は、マイクロトフが烈火の紋章の中から聞いた声だった。
何処か優しげに聞こえる声に、マイクロトフはもう一度傍らのカミューを見た。
彼はユーライアを構えたまま、歯を食いしばり人影を睨み付けていた。だがその瞳は隠しきれない動揺に揺れ動き、歯の隙間から忙しない息をこぼしている。
そして再び人影が動いた。
その歩みの先にはまた別の屍が幾つか転がっていた。マイクロトフはその屍の顔を見て、またぎょっとする。
それは、カミューの父の顔だった。しかもその隣には義母までが横たわっているではないか。
人影は、その並ぶ屍の傍まで来ると嬉しそうにくすくすと笑った。
「でも、帰ってくるのが遅いよ、カミュー。待ち切れなくて、だから……ね、ぼくが……殺してしまった」
嬉しそうに囁く、その人影は―――。
「カミュー……!」
幼い頃のカミューの姿だった。
柔らかそうな金茶の髪。小さくすっぽりと掌で包み込めそうな頭。小作りながらも整った利発そうな面立ち。
母譲りの優しげな顔だが、大きく潤みがかった瞳は強い意思を宿していて、幼い顔立ちを裏切ってひどく大人びた雰囲気を醸している。
そんな幼い自分を睨んでカミューはユーライアを構えていた。
しかし、幼いカミューの方はそんな大人の自分をにっこり笑って見ていた。
愉しげに。
無邪気を通り越して、いっそ空恐ろしい程の笑みを浮かべて。
「どうしてそんな怖い顔をするの。願いどおりにしてあげたのに?」
「だまれっ!!」
カミューが怒鳴る。
しかし幼子のじれったいような口調は些かの怯みもない。
「嘘は駄目だよ。本当はこうしたかったんじゃないか。みんな殺してやりたかったんだ」
ねえ?
そこで、幼子の視線が唐突にマイクロトフへと向けられた。
「驚くことないよ。だってさ、当たり前のことだろう? ぼくが、どれだけ酷い仕打ちをされたかを考えればさ」
嘲笑って、幼子は小さな右手を閃かせた。そこには、大人になっても変わらなかった鮮やかな炎の陰影が宿っている。
「ぼくを人殺しと罵りながら、奴らこそ、ぼくを殺そうとしたんじゃないか。この男だって―――」
カミューは足元に転がる父親の死体を見下ろした。
「自業自得さ。育てる気がないなら最初から見殺しにしていれば良かったんだ。下手な情なんかかけたおかげで、このざまだよ」
そしてカミューはまた、にやりと嘲笑った。
「子供のぼくに何が出来たの。何も出来ないなんてこと、本当はみんな分かっていたんだ。それなのにどうして奴らはぼくを罵ったのかなぁ? 火付けだって? 悪魔の子だって? そうじゃない。ぜんぶ口実だよ。あいつらみんな、ただ自分たちの嫌な気持ちやどす黒い感情をぶつける相手が欲しかっただけなんだ」
淡々と喋るカミューの小さな右手が徐々に赤く染まっていく。
「一度も、使わなかったよ。使うなって言われたから……一度だってこれを使ったことなんてなかった」
呟き、カミューはぽつりと、だから余計にあいつらを図に乗らせたんだよね、と言った。
「さっさとこれで身を守れば良かったのに。ねぇカミュー。本当はこうやって、みんな燃やしてしまいたかったんだ」
その途端、小さな右手から真っ赤な焔が迸り、父親と義母の身体をあっという間に包み込んだ。既に絶命している彼らはみるみる全身を焔に舐めとられ焼けていく。
その光景を驚愕のままに見つめていたマイクロトフは、だが慌てて隣に立つカミューを見た。
「カミュー……っ」
彼はユーライアを手にしたまま呆然と立ちつくしていた。
徐々に焼け崩れていく両親の姿を凝視して、何も言わない。その姿に幼い声がくつくつと笑う。
「カミューがずっと望み続けた光景だよ。もっと嬉しそうな顔をしてよ」
そして晴れ晴れとした笑顔で―――満足そうに言った。
「みんな、燃やしてあげるよ。これで、もう誰もカミューを傷つけない。誰もカミューを苦しめたりしないよ」
幼子は、小首を傾げながら説得するように大人のカミューへとそう語りかける。
そしてマイクロトフは悟った。
これは、辛いときに救いの手を差し伸べられなかった幼いカミューの心だ。
誰も助けなかった。
虐げるばかりで、誰も。
幼いその心と身体を癒す者のいなかった。
延々と傷つけられるばかりだった。
抱き締めてくれる腕の温かさを知らない。
与えられた筈の愛情を諦めてしまった、子供の心なのだ。
それはつまり、カミューが言いたくなかった、忘れたかった自分―――失くしてしまいたかった、ひとりの子供なのだと。
だがそれを知ったマイクロトフが、まだ治まらない驚愕に言葉をなくしている目の前で、幼子が意味深に俯いた。
そして。
「ねぇ、カミュー。本当はもう、気がついてるでしょう」
幼い声がゆっくりと諭すように囁く。
「マイクロトフだって、いつかはいなくなる。かあさまのように、勝手に人を庇ってカミューを残して死んでいくんだよ」
思わずぎくりとした。
強張った視線の先、小さな天使のようなカミューがゆっくりと顔を上げ、マイクロトフを見つめて微笑を浮かべる。
「その時、カミューはとても傷つくよ? かあさまやとうさまの時とは比べられないくらい……」
だからね。
「今、殺してしまおうよ」
幼い顔がそう言って烈火の紋章をかざした。
15 ← 16 →
17
2004/03/11