lost childhood 17
カミューの操る『烈火の紋章』。その威力を見たのは一度や二度ではない。
地獄の業火もかくやといわんばかりの猛火が幾度も敵を呑み込み、味方の窮地を何度も救ったのだ。だがそれがマイクロトフを襲った事は一度もない。
ところが、今。
幼いカミューの右手から繰り出された紋章の焔が、一直線にマイクロトフめがけて襲ってきたのである。
「やめろ!!」
傍らからカミューの絶叫が聞こえた。しかし急襲を受けて突然押し寄せてくる焔をかわし切れるはずもなくマイクロトフの身体は一瞬で紅蓮に包まれた。
目の前が真っ白になったようだった。
「マイクロトフ!」
紋章の魔力によって生まれた炎は唐突に掻き消える。
白い煙を立ち上らせて、マイクロトフはがっくりと膝をついた。しかし地面に倒れ伏す前にふわりと抱きとめられる。
「マイクロトフ、ごめん…ごめん……!」
「……カミュー…っ」
ユーライアを片手に下げたままのカミューが、泣き出しそうな顔でマイクロトフの身体を支えていた。だがどうして彼は詫びているのだろう。
マイクロトフは自分を抱き止めている腕を、掌で押さえた。そして自分を覗きこんでくる瞳を見上げて微笑んでやる。
「どうして……おまえが、謝る…んだ」
するとカミューは「だって」と掠れた声で言った。その情けない声がどうしようもなくマイクロトフの胸をざわめかせる。馬鹿なやつめと呆れてしまいたくなったが、そこへ、二人を遮るように子供の笑い声が響いた。
「だって? ちゃんと言わなくちゃ、カミュー」
その愉しむような声にカミューが振り向きもせずぎゅっと目を瞑ると怒鳴り返す。
「うるさい! だまれ!!」
「どうしてさ。でも、僕が黙ってもマイクロトフはきっともう気付いてる」
「だまれ!」
マイクロトフを抱き止める手に力がこもる。
「あはははは。なんでそんなに必死なのさ。隠す事なんかないのにね」
天使のように邪気のない笑みで、幼子は声を弾ませた。
「言ってごらんよ。本当の気持ちをさぁ」
「だまれと言っているんだ。それ以上口を開くな!!」
カミューはマイクロトフを抱き込んだまま、再び何処から取り出したか、札をかざした。青白い光が瞬く間に全身を包み、やさしい紋章の水が火傷を癒していく。
するとそれを見ていた幼いカミューが、ふうんと不思議そうに小首を傾げた。
「へぇ……治してあげるんだね。でも、すぐに殺しちゃうから意味なんてないのにさ」
そしてまた幼子は右手を閃かせた。だが、今度はそれが発動する前にカミューが横たえたマイクロトフとの間に立ち塞がり、ユーライアの切っ先を幼子に向けた。その右手にある烈火の紋章が赤く光りだす。
「マイクロトフを、死なせるものか」
「守るつもり? どうやって? ぼくは、カミューだよ?」
「おまえは、俺じゃない。夢魔だ」
「そう思いたい気持ちは分かるよ。だって今までずっとこのぼくを忘れようとしていたんだもんね。何しろずっとぼくはカミューの中で押し殺されてきたんだから。声も上げられなくて、苦しかったよカミュー」
そして突然、幼子は大きな瞳を涙に潤ませた。
「あなたの心の奥で身動きひとつできなくて、苦しくて、痛くて、でも泣くことも出来なくて、どうにかなりそうだったよカミュー」
ぽろぽろと、白い頬に涙がこぼれていく。
幼いカミューは小さな手で次から次に溢れてくる涙を拭いながら、しゃくりあげるように言った。
「どうしてお義母さんみたいにぼくを無視するの。どうしてとうさまみたいにぼくを殺そうとするの。これ以上ぼくを苦しめないでよ」
ひっくひっくと。
幼いカミューが泣いている。
その姿に、マイクロトフは堪らない胸の痛みを覚える。
烈火の紋章が見せてくれた過去のカミューは、常に人形のような瞳をしていて、どんな目に合っても泣きも喚きもしていなかった。だからこそ余計に、こうして泣く姿を見てしまうと酷く可哀想に思えた。
これは夢魔だと分かっているのに、しゃくりあげる声が届くたび、胸の痛みは増すばかりだった。
しかしそんなマイクロトフの内情を悟ってか、カミューが真っ青な顔で振り向いた。
「カミュー……?」
「マイクロトフ間違えるな。あれは俺じゃない!」
「ああ、だが、あれもまたカミューなのだろう…?」
カミューがここまで取り乱す理由がきっとそれだ。
愛されなかったが、カミューは彼らを愛していた。
だが、その反面、どんなに願っても愛情を与えてくれなかった彼らに対する憎しみもまた、あったのだ。しかし、そんな幼心に抱いていた密かな憎しみを、カミューは彼らを憎みきれなかったが故に、ずっと押し殺してしまいたかったのだ。
「違う! 俺は誰も憎んだりしていない!! マイクロトフだって、絶対に殺そうだなんて思ってない!」
泣きそうな顔で訴えるカミューの表情が、幼いカミューのそれと奇妙に重なる。マイクロトフは立ち上がろうと喘いだ。札のおかげで傷は癒えたが完全に復活できてはいない身体は少し不安定によろめく。しかし奥歯を噛んで踏ん張ると、自分を凝視するカミューに手を伸ばした。
「分かっているとも、カミュー。……だが、あれもおまえだ」
「マイクロトフ!」
赤く紋章の輝く右手を押さえるが、カミューはユーライアを左手に持ち替えると、それ以上の強さでマイクロトフの手首を握り返した。その必死さが、痛みとなって手首を締め付けてくる。
マイクロトフは、痛みに微かに顔を顰めたがそれでも構わずカミューの目を見つめた。
「カミュー、目を背けるな。あれは確かにおまえ自身なんだ。そうでなければ夢魔があんな姿で出てくるわけがない。夢魔は、おまえの悪夢を元におまえを苦しめようとしているのだからな」
現にカミューは苦しそうに喘いでいる。
忘れたい過去に直面する恐怖は、いったいどれほどのものだろう。
マイクロトフの手首を掴むカミューの右手が熱を持ったように熱くなっていく。烈火の紋章がますます赤く輝いているのだ。その手を見下ろし、マイクロトフはごくりと息を呑む。そして低く問いかけた。
「カミュー。おまえは、子供の頃の自分を殺してしまいたいのか」
途端にひときわ強く手首が締め付けられた。
そしてカミューの瞳は恐ろしいまでに表情をなくしていた。
「―――そうだよ」
短く答える。
カミューはマイクロトフの手首を握り締め、間近から瞳を合わせて吐き出した。
「俺は、あいつを殺して、なかったことにしてしまいたい」
「そうやって、今まであの子供に泣くこともさせずに押し殺してきたんだな」
「……泣いたら、俺が惨めだって認めることになるじゃないか。あんな姿、見るだけで吐き気がする」
まだ、幼いカミューは泣き続けている。
独りで自分で火をつけた家族の側で、しゃくりあげて泣いていた。
「惨め…?」
マイクロトフが怪訝に問い返すと、カミューの無表情だった瞳に一瞬だけ翳りが宿る。
「俺は可哀想なんかじゃない。不幸でもない。もう済んだ過去の事にいつまでも囚われて、挙句に哀れむような目でなんか、どうして見られなくちゃいけないんだ! 俺はそんなに惨めな人間じゃない!!」
「カミュー……」
思いもかけない言葉を聞いたようだった。
しかし激情に駆られたカミューはなおも叫び続けた。
「マチルダに来たのはそんな自分が嫌だったからだ! あそこに居たんじゃ、いつまでも俺は可哀想なまんまだ。忘れてしまえと言われながら、本当は俺があんな風に辛かったと泣くのをずっと期待されて。そんなのは真っ平なんだよ!!」
そしてカミューはまた小さく「俺は可哀想じゃない」と言って俯いた。しかし手首を掴む手の力はきつく、震えてすらいる。マイクロトフは呆然と聞いていたが、ハッと言葉を返そうとした。
「カ―――」
しかし再びカミューの目がそれを阻んだ。
俯いていた彼の瞳がまたも無表情を宿してマイクロトフを見つめる。
「誰も彼も恨んで泣いて、現れもしない救いを求めるしか能がない。そんな俺は認めない。だからあそこで泣いているのは俺じゃない。今の俺にはマイクロトフがいるし、愛されることも知っている。それで俺はもう十分なんだ」
「だがカミュー。それではあまりにも……」
泣けなかった子供のカミューが可哀想だ。
誰かに抱き締めて欲しかったはずなのに泣きもせずに耐えていた幼いカミューを、どうしてそのまま過去の中に埋めてしまえるだろう。今、こうしてやっと表に出てこれたのに。
しかしカミューは言い募ろうとするマイクロトフを、また泣きそうな目をして見た。
「あれが消えれば、可哀想な俺も消える。そうだろう」
そしてカミューは口元に微かな笑みを浮かべると、唐突にマイクロトフの手首を離し、その身体をつき離した。
「カミュー!」
「これは俺自身の問題だ。マイクロトフは黙って見ていてくれ。それにあいつは俺自身だけど、夢魔でもある。だとしたら倒せば良い」
カミューはユーライアを再び右手に持ち替えて、泣きじゃくる幼い自分の元へと足早に歩み寄っていく。
足は次第に速度を増し、緩やかな斜面を駆け上りながらカミューは剣を大きく振り上げた。
すると幼いカミューは涙に濡れた瞳を大きく見開き、己に駆け寄ってくる騎士の自分を凝視して凍りついた。その姿はまさしく、あの夜のカミューそのものだった。
「カミュー! 駄目だ! よせ!!」
マイクロトフは思わず駆け出していた。
どうして二度もこんな場面を見なくてはならない。
たとえそれが自分自身で振り上げた刃だったとしても、どんな姿をしていたとしても、マイクロトフはカミューが傷つけられるところなど見たくなかった。
それが、夢魔が作り出した幻のカミューだったとしても。
「カミュー! やめろ!」
叫びながら全力で追い駆けても、ダンスニーを抜いて食い止める暇がなかった。
だからマイクロトフは、我が身に宿る紋章が発動するに任せるまま、幼いカミューとユーライアの間にその身を投げ出す方法を、咄嗟に選んだ。
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2004/03/21