lost childhood 18


 小さな身体を腕の中に抱き締めて、マイクロトフは来るべき衝撃に目を閉じた。
 だが、その背を襲うはずの刃はいつまで経っても振り下ろされなかった。
 マイクロトフはそのあまりの静けさに、恐る恐る目を開く。すると腕の中に囲い込んだままの幼子が身じろぐのを感じた。思わず強い力で抱き締めてしまっていた腕の力を緩めると、何故だか幼子はくたりとマイクロトフの身体に凭れかかる。
 呆気に取られながら今度は慌てて後ろを振り返った。
 そして、更に呆然と口を開いて固まった。
「カ…ミュー……」
 ユーライアを振り上げていたはずのカミューは、今はその腕をだらりと垂らしてマイクロトフを見下ろしていた。しかしその瞳はただ見ているのではなく、透明な涙をするすると流していた。
 秀麗な面差しは青褪め、表情もない。
 声もなく泣いている姿に目を瞠るマイクロトフに、しかしカミューは静かに瞳を伏せただけだった。
「カミュー?」
 ユーライアがゆっくりと鞘に収められる。
 その弾みでか、ぱたぱたっと涙が幾粒も零れ落ちた。
「カミュー、カミュー……!」
 マイクロトフは、涙に弱い。
 殊更、カミューの流す涙にはどうして良いか分からなくなる。滅多に泣かない男なだけに、彼の泣く姿を見てしまうと頭が真っ白になってしまうのだ。
 それにカミューはいつも唐突に泣くから、その対処も浮かばない。
 今もどうして泣いているのか全く見当がつかなかった。
「どうしたんだカミュー…」
 カミューの意思を無視して幼いカミューを守ろうとしたのが、いけなかったのだろうか。また、傷つけてしまったのだろうか。
「カミュー、俺は」
「―――信じられない」
「え……」
 カミューは涙を掌で拭うと鼻をすすった。
「なんでだよ。十何年も昔のことでどうして今更俺は泣いてるんだ」
 そして、止まらない、と呟いてまた涙を指先で散らせた。
「ああもう、どうしちゃったんだろ」
 口だけ笑みの形に歪めて笑う。
 そしてカミューが受け皿のように広げた掌に、次から次に涙の粒が落ちていく。みるみるうちに水溜りとなって掌から零れる涙。
「誰が泣いてやるかと思っていたのに、おまえという奴は、人の意地をあっさりと叩き折ってくれるよな」
 笑い泣きながらカミューは言い募る。
「はは……結局くだらない意地だったんだ。でも、あの時の俺は泣きたくても泣けなかったんだ。仕方がないよな」
 そしてカミューは突然膝を折ると、掌を濡らす涙を振り切ってマイクロトフの腕の中に手を伸ばした。
「ほら、来いよ」
 呼びかけは腕の中の小さな存在へ。
「おまえの存在を認めてやる。そうしないときっと泣き止めないだろうしね」
 まだぼたぼたと涙を零しながらのカミューの手は、小さな肩にそっと触れた。するとマイクロトフの胸に凭れかかっていた重みがふわりと浮く。思わず腕を解くと、幼いカミューが緩やかにその小さな顔を上げた。
「……カミュー…」
 腕の中の幼いカミューが笑っていた。
 泣きたいくらいに優しい笑顔で、大人の自分を見上げている。
 そして泣きっぱなしの大人のカミューは、そんな幼い自分を見下ろして小さく首を傾げた。
「まったく、嬉しそうな顔してくれるもんだね。そんなに、マイクロトフに庇って貰って嬉しかったかい」
 呆れたようなカミューの声に、幼子はこくりと頷いた。そして、マイクロトフの見ている前で、大人のカミューの胸元に飛び込んだ。

 それはまるで幻が消えるようだった。

 小さな自分の身体を、カミューがぎゅっと抱き締めた途端、まるで融け合うように幼い身体が消えてしまった。
「…な……―――」
 目を瞠るマイクロトフに、カミューがにやりと笑う。
「マイクロトフ」
 濡れた瞳が笑みに細くなる。途端に我に返った。
「カミュー。あの子供は何処に…っ」
「ここ」
 カミューの指先が己の胸元をトンと叩いた。
「俺の中。元に戻ったんだよ」
「…どういうことだ」
 あれは夢魔ではなかったのか。いや、しかし。
 今にも頭を抱えて唸りたくなるマイクロトフに、カミューが短い溜息をこぼした。そしてやれやれと天を仰ぐ。
「マイクロトフの言う通りだったね。あいつは、俺自身だった」
 そしてカミューはまた涙を零した。
「信じられるかい、マイクロトフ。おまえが庇って抱き締めてくれた瞬間、俺も一緒に抱き締められたんだよ。おまえが抱き締めてくれる感触が一緒に伝わってきた―――その途端に、俺の中で張りつめていたものが壊れてしまった……」
「何が、壊れたんだ」
「意地、いや……大きな壁かな。小さい頃に作った壁。誰の悪意も入って来れない代わりに、好意も一緒に撥ね付けて、中にいる俺の声も感情も封じ込めてた」
 高く聳えた心の牢獄。
「その壁が一瞬でなくなった途端、何もかもが一気に流れ込んできちゃったよ。全部マイクロトフの所為だな。おかげで、くそ……まだ涙が止まらないよ」
 すねた顔で涙を零しながら、文句のように告げられてマイクロトフの強張っていた顔が、ゆるゆると感情を取り戻していく。泣いてはいるけれど、カミューの顔には屈託が無かった。
 最後に見た幼いカミューの、ひどく澄んだ笑顔が脳裏に浮かぶ。
 泣きたがっていた子供は、本当ならあんな風に笑っていたはずだったのだ。
 感情を押し殺していた子供の頃を、あの瞬間にカミューは取り戻した。認めてやると、大人のカミューが幼いカミューを受け入れた時に。
「は……人の所為にする奴があるか。自業自得ではないかこの馬鹿者」
「ひどいなぁ。追い討ちかけること無いだろ」
「その通りではないか、カミュー。俺が、どれだけ胸の潰れる想いを味わったと思っているんだ」
 心配をさせて。
 なんとかしたくて必死で考えて、こんな幽界くんだりまで出向いて。
 殺されそうになって。
 しかしカミューはそんなマイクロトフに、全く腹が立つほどに嬉しそうな笑顔を浮かべて言った。
「でもマイクロトフ。それは俺が好きだからだろう?」
「……カミュー」
 思わず低い声が出た。しかしカミューは笑いながら、声を震わせて小さく首を振った。
「違うよ、からかってるんじゃない。嬉しいんだよ。本当に、おまえは……俺を好きでいてくれる。俺を愛してくれて……守ろうとして」
 また、カミューの瞳が潤んでいく。
 だが今度は目の縁から涙が零れ落ちる前に、その腕の中に抱き込まれていた。震える吐息が、耳の直ぐ側で聞こえる。マイクロトフは思わず自分を抱き締めるカミューの背に腕を回してた。
「カミュー」
「うん……嬉しい。ありがとうマイクロトフ」
 涙で少し鼻にかかったような声が、密接した場所から響いてくる。そんなカミューの本心からの言葉に、少し面食らうマイクロトフだ。思わずぶっきらぼうな声で返事をしてしまう。
「今更だぞカミュー。俺はずっとカミューを好きだと言っている」
「うん。でもほら、実感したというかね」
 喉で笑いながらカミューは、ぎゅうっとマイクロトフにしがみつく。
「ああもう…本当に好きだよマイクロトフ。好きになった相手がおまえで良かった。俺は、おまえを選んだ自分を偉いと思うよ」
「なんだそれは」
「何でも良い。愛してるよマイクロトフ」
「……カミュー」
 自分に抱きついている男の背を宥めるように撫でながら、マイクロトフは小さく吐息を零した。どうやらまだ、泣いているらしいカミューに苦笑が漏れる。
 ところが、何故だかそこで不意に足元が覚束無くなった。

「ん…?」
「あれ?」

 ふわりと浮かび上がるような、感覚。
「カミュー、少し離せっ!」
「え、わあ!」
 一瞬離れかけた二人の身体は、しかし直ぐに互いが互いを必死と掴まえて離れない。何故なら二人は浮いていたのだ。
「な!!」
 地面が無くなっていたと言った方が正しいだろうか。
 見回せば周囲の景色も一変している。町並みが消え去り、空虚な闇が広がっていた。
 だがその風景に見覚えがあったマイクロトフは、慌てて周囲を探した。そして見つけた。
「ルック殿!」
 小さなルックが中空に浮かんでいる。彼は杖を振り回すと二人を導くように闇の向こうへと消えていこうとする。マイクロトフは自分にしがみついてくるカミューを揺さぶり、同じくルックを見るように促した。
「カミュー! ルック殿について行くんだ。そうすれば目覚められる!」
 闇の中、薄く翠色に光るルックの後を追って、マイクロトフは暗闇を進んだ。ところが少しも行かないうちに一緒に進んでいたはずのカミューが虚ろな声をもらす。
「マイクロトフ。何だか変な感じがする」
「おい、ここでまた後戻りなんぞ……」
「違……う…。なんか、目の前が白くなって…き……」
「カミュー!?」
 声と共にその存在が何故だか霞んでくる。
「カミュー! ちょっと待て!」
「あ……なんか、この感じは…」
「おいこら!!」
 怒鳴ってもカミューの姿は徐々に薄れていってしまう。
 突然の変異に焦るマイクロトフに、しかしカミューは何故だかへらへらと笑っていた。
「何を笑っているんだおまえは!」
「……あはは…大丈夫だよ、マイクロトフ。これは、あれだよ……毎朝のお馴染み……―――」

 ―――目が覚める時と同じ。

 声だけ残してカミューが完全にかき消える。
 その刹那周囲が真っ白に埋め尽くされた。



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2004/03/28