return is impossible 3
一目惚れでした。
カミューは誰にそう告げるでもなし、高い空に浮かぶ雲に向かって心中呟いた。
最初の出会いからもうきっちり二十四時間経ってしまった。アレから寝ても覚めても彼の顔がちらつき、彼の声が木霊し、彼の仕草が蘇る。別れたのはもう六時間ほど前になるだろうか。
彼手ずからの朝食をご馳走になり、大学までのバスに彼が乗り込むところで別れた。まるで夢のような時間だったそれは、今振り返るととても呆気なかったように思う。
「あっと言う間だったなぁ…」
ぽつりと零してカミューはまた昨日からの出来事を思い出していた。
新しい職場での初仕事の日だった昨日は、とにかく覚える事で精一杯だった。以前も同じ仕事をしていたわけだから、多少違いはあっても殆どは同じでコツは直ぐに掴めたのだ。そしてそろそろと慣れてきた頃に彼が声をかけてきたのだ。
なんと言うか、他に言いようも無いのだが、まさしくそれは一目惚れだったのだ。
天使が祝福の鐘を鳴らしていたかも知れない。世界は光りに満ちていたかも知れない。そんな一瞬。別に同性愛嗜好は無かったのだが、これは恋だと即座に理解した瞬間だったのだ。
それから貸し出しカードからモニターに映し出された名前を見て、更に心がときめいた。
マイクロトフ。この名前だけは例え今記憶喪失になっても忘れないと誓った。
そして何とか彼に自分を印象付けようと滑稽なほどに愛想良く振舞ったのだが、結局はただの図書館員と利用者の学生だけの関係に留まり、別れてしまった。彼の姿が出入り口から去って行ってしまった後、随分と気落ちしたものだったが盗み見た彼の図書館の利用頻度からしてこれからは幾らでもチャンスはあるのだと前向きに考える事にした。
絶対に仲良くなる。
新しい職場で上手くやっていこうとかそんな事を考える以前に、如何にしてマイクロトフと言う学生と親しくなるかに決意を抱いた、そんなカミューだった。そして、天はそんな彼に味方したのである。
新しく越してきたこの街には高校の同級生であるフリックと言う男がいたのだ。相変わらず人の良い彼は忙しい仕事の合間を縫って、不慣れだろうカミューにこの街の案内を買って出てくれたのだ。そして馴染みだという店に連れて行かれたその先で、カミューは天の配剤を感じた。
人生に幸せを感じた。
よもや一目惚れしたその日に、名前だけではなくそのバイト先までも分かるなんて、出来すぎではなかろうか。いや、これは天が絶対に彼を手に入れるべきだと背中を後押ししてくれているに違いないのだ。決め付けてカミューはしかし浮かれる心とは反対に慎重に彼に近付いた。
最初は不自然で無いようにフリックと昔話をしたりして過ごしていたのだが、そんなフリックが疲れて寝入ってしまうと後はもう、ここぞとばかりに話し相手を求める振りをしてカウンターのマイクロトフへ声を掛けた。
仕事の片手間ではあったが、そんなカミューの話にマイクロトフはちゃんと付き合ってくれた。そこで色々埒も無い話を沢山したのだけれど、緊張していた所為か彼自身のプロフィールについては全く聞き出せなかった。それでも会話はとても楽しかったのだが。
ところが緊張しすぎたのと浮かれていたのとで、どうやら酒量のコントロールが利いていなかったようだったのが痛恨の大失敗だった。でもまぁ結果的には良い方に転んだので良しとするが、見知らぬ部屋で目覚めた時は全身から血の気が引く思いだったのだ。
バタン、と戸の閉まる音がしてふと身体を冷気が掠めていったことで、カミューの意識は急速に目覚めたのだ。それがまたなんとも心地の良い眠りから覚めたものだったから、最初は自分が何処に寝ているかなど気付きもしなかった。
だが徐々にハッキリと覚醒するにつれ、視界に映る室内の様子が全く見覚えのないものだと気付いて青褪めた。がばりとベッドの上で飛び起きて、そこで昨夜の出来事が蘇り幸せだった気分のままぶっつりと途切れている記憶に歯噛みした。
フリックの部屋で無いことは確かだ。それは昨日あの店に行く前に寄ったから知っている。しかし、そうならばここは一体誰の部屋と言うのだろうか。カミューは用心深く室内を眺め回した。
こまめに掃除しているのだろう清潔感のある部屋で、散らかっている様子も無くきちんと整頓されている棚や机の上。どうやら一人暮らしらしい部屋の調度や物を見て、それが女物ではなく男物の多い事を見てとりあえずほっと息をついた。
新しい街に来てさっそく女性関係でトラブルは避けたいものだった。どんなに話がこじれても上手く纏める自信はあったが、一目惚れをしたマイクロトフに対して不誠実な真似はしたくないと思った。たとえそれがこちらの一方的な想いに過ぎないのだとしても、あの如何にも真面目で潔癖そうな男の表情を曇らせるような事はしたくなかった。
それにしても、誰の部屋なのだろう。
考えて、そしてふっと浮かんだ考えにカミューは赤面した。
「……まさか」
掠れた声で思わず呟いた。がしかし赤くなった顔は収まらないし、そんな都合の良い事がそうそう続くわけが無いと思いつつも、浮かんだ考えは消えてくれない。
だけど。
「マイクロトフの……?」
もう心の中では飽きるほど―――実際には欠片ほども飽きてなどいないし、これからも飽きるわけなどないが―――呼んだ名前を口にしてカミューは呆然として改めて室内を見た。
だがそこには今カミュー以外の人物の気配はまるでなかった。ベッドヘッドに置いてある時計を見れば時間はまだ早朝である。まさかこれほどに早く出掛ける仕事でもあるのだろうかと考えたが、しかしそれにしてはカミューを置いて出て行くのはあまりに無防備に過ぎた。
幾ら一晩で多少なりと打ち解けたとはいえ、初対面の人間を置いて家を留守にするわけがない。とすれば直ぐに戻ってくるのだろうか……―――。
直ぐに……直ぐに?
思い至ってカミューは慌てた。
一体どんな顔を合わせれば良いと言うのだろう。無様に酔い潰れて部屋に泊めて貰ってベッドまで占領して、こんなにも迷惑をかけてしまって。しかも何だか今の自分は昨日着ていた服は皺だらけだし、髪も随分乱れているしで碌な格好をしていない。
別に普通の顔をして、迷惑をかけた事は謝って礼を言えば良いだけだし、格好についてはもう散々醜態を見せた後で仕方の無い事なのだから開き直れば良いだけの話なのだが、しかし恋する男の心理としてはそれでは済まないのだ。
わたわたと、這い出すようにしてベッドから降りるとそこに転がっていた靴を見つけて急いで履いた。そして部屋の隅に自分の鞄を見つけて中を確認するのもそこそこに、扉へと向かい、そして震える手でドアノブを掴むと押し開いた。
ところが間が良いのか悪いのか、そこには丁度戻ってきたらしい部屋の主が立っていたのだ。それに驚いて固まっているとぐいと扉が開かれ、やはりと言うか考えた通りにマイクロトフその人がそこにいて、親しげにカミューに声を掛けてくれ、あまつさえ朝食にまで招待をしてくれたのである。
カミューは混乱に陥りながらもマイクロトフに示されるまま椅子に座って待った。
だが待っている間にひとつ扉の向こうでは想い焦がれる相手がシャワーを浴びているのだという現実に気付いて、途端に大パニックに見舞われてしまったのである。
うわあ、どうしよう。
別にどうもしなくて良いだろうと、そこに第三者が居ればそう突っ込んでくれたろうが生憎そこにはカミューしか居なかった。
彼は立ったり座ったりを繰り返し、掌を握ったり開いたりとそれは忙しかったのだが、次第に落ち着きが失せて、手慰みに本の並ぶ棚などに虚ろげに視線をさ迷わせて、碌に背表紙も読まないままに一冊取り出して開いてみたりなどしていた。
だが、思ってもみない早さでシャワールームへ続く扉が開いて、カミューは口から心臓が飛び出るほどに驚いた。バタンと音が立つほどに勢いよく本を閉じてハッと振り返ればそこには濡れた髪のラフな格好のマイクロトフがいた。
シャワーの後なのだからそれは当たり前の格好なのだがカミューは慌ててわけの分からない事を口走っていた。なんとなく記憶の彼方を探って手に持っていた本が確か珍しいものだったと思い出して、言い訳のように告げたのだが、しかしそれが思いもよらない展開を呼んだのだ。
本を、この本をマイクロトフはカミューに貸してくれると言ったのだ。
と言う事はつまり、今度はこの本を返すためにまた会える口実が出来るという事では無いか。
カミューは二つ返事で本を借りる事にした。少し返事が遅れたので不審がられたかもしれないが、カミューは借りられる事になったその本が途端に宝物のように思えて、決して離すまいと胸に抱きかかえた。
ところがそこへまた爆弾投下をされてしまったのだ。
確かに今、マイクロトフは「カミュー」と。
名を呼んでくれたのだ。その口でその声で。
たまらなく感動した。
昨夜はまだ初対面と言う事で気安くはなれずにいたし、それに店員と客だったからマイクロトフは常にカミューには一歩引いた態度を取り続けていたのだ。だから決して名を呼び捨てる真似などしてくれなかった。ところが一晩経ってまるで旧知の間柄のように彼は自然にカミューの名を呼んでくれたのだ。
嬉しくて嬉しくて、カミューはそれこそご褒美を貰えた犬のようにはしゃいでしまって、だがそれが良かったのかこの朝の僅かな時間だけでぐっとマイクロトフとの距離が縮まった気がした。
数時間前、名残惜しくてもマイクロトフと別れる時、また会えるのだという確信がカミューの心を強くしてもいたのだろう。おかげでそれからずっとカミューは機嫌良く仕事をしていたのだった。
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2002/10/13