return is impossible 5
目覚めた時、カミューはまだ夢の中にいるのかと錯覚した。
何しろ、とても幸せで天に舞い昇りそうなくらいの夢をみていたはずが、目を覚ましてみれば目の前には自分と手を繋いで眠るマイクロトフがいたのだから。
夢の中でカミューはマイクロトフの手を取って「好き」だと告げていたのだ。現実にはなかなか簡単には言い出せ無いだろうと思っているその言葉を、臆面もなくマイクロトフにぶつけていたのだ。そんな光景がありのまま、起きてまでも続いていればまだ夢の中かと疑いもするだろう。
だが生憎それは夢ではなかった。
まだ太陽も昇らぬ未明の頃の白々しい薄明るさの満たす部屋の中で、僅かばかりの肌寒さに包まれて感じる繋いだ手の温もりは現実だった。
「あ、あれ…?」
カミューは焦った。
アレは夢で、コレは夢ではなく。好きだと告白したのは夢で、手を取ったのは夢じゃない。―――確かにそうと言いきれるのだろうか?
ふうっと、目覚めた時の状態で横たわったまま、カミューは気が遠くなるような目眩を覚えた。
落ち着くんだ、そして思い出せ。とドキドキと煩いくらいに身の内からせっつく鼓動を抑えながらカミューは記憶を辿る。そして昨夜もまたみっともなくも酔い潰れてしまったのだと思い出して青褪める。
だが昨夜のそれは、その前の夜と違って前後不覚になるほどには酔ってはいなかったのだとも思い出した。そうなのだ、酔いの心地良さに身を任せながら、マイクロトフに担がれて夜の道を運ばれたのをなんとなく覚えている。覚えていてしまっている。
そして柔らかなベッドに横たえられて、間近にマイクロトフの気配を感じながら急速に深い眠りに引き込まれようとして―――そこで、頬に触れられる感触がして、今にも眠りの淵に引き摺り込まれながら、カミューは目を……開けた。
そうだ。確かに目を開けたのだ。
て、こと、は………。
あれは夢では無かったという事になる。
そう気付いてカミューは真っ赤になり、それから真っ青になり、最後には酸欠状態の魚のようになって固まった。
ドクドクと脈打つ心臓が胸に痛い。こめかみを伝う冷や汗が冷たい。繋いだままの手が痺れたように感覚が消えていく。
それは好きだからいつかは、と考えなかったわけはない。だがこんな会ってからまだ二日目だったのに、こんなにもあっさりと意図無くして告げるつもりなんてまるで無かったのだ。なのに自分と言う男はなんて事を。それに肝心のマイクロトフの反応をまるで覚えていないではないか。
カミューは後悔に苛まれてぐっと奥歯を噛み締めた。
どうしてこんなに愚かなのだろう。
こんなふうに一目惚れをするなんて生まれて初めてだったのに。この恋を、大切にしたいと思ったのに。応えて貰えなくとも、好きだからせめて友人としてでも付き合っていけたらと、そう思っていたのに。
もうこれで台無しになってしまったかもしれないと考えたら、無性に情けなくて悔しくてたまらなかった。そして喉の奥から自分を罵る言葉を吐きそうになったのだが、そうするとマイクロトフが起きてしまうからと、奥歯を更に強く噛んで堪えた。
すると、何故だろう。涙が滲んだ。
泣くつもりなど微塵も無いのに、ぐっと堪えれば堪えるほど押し出されるように涙が出る。ついにそれは目の縁から零れ落ちて横たわるカミューのこめかみを滑りシーツを濡らした。
と。
「カミュー…?」
低い声が問うように名を呼んだ。
え、と目を見開けば間近にあったマイクロトフの、その目が開いていて黒い瞳がじっとカミューを見詰めていた。
「どうしたんだ。どこか痛むのか?」
早朝の静けさの中、潜めるような小声でマイクロトフは囁き掛けてくる。その瞳は親愛に満ちていて、まるで安心させるかのように穏かにカミューの瞳を覗き込んできた。
「…マイクロトフ……」
カミューもまた、奮えながら囁きほどの小声で名を呼び返した。だがそこには隠せ無いほどの切なさが交じっていた。するとマイクロトフはふと目を瞬かせて、そう言えば繋げたままだった手をぎゅっと握り締め、そしてくすりと微笑んだ。
「二日酔いか? 飲み過ぎだ」
「……違うよ、違うんだ…マイクロトフ」
何処までも優しい声音が哀しくてカミューは即座に否定する。
そうでは無いのだ。
泣いているのは酔いのせいでは無い。痛いのはこの胸で、そうして穏かで優しい瞳で微笑まれれば尚更それを無くしてしまったのかと思い知って哀しい。
今はまだマイクロトフも起きたばかりで昨日の出来事を思い出せないでいるに違いないのだ。だがこれが目覚めた時、ハッキリとカミューの告白を思い出してしまえば、この微笑みは消え失せてしまうのだろう。
「ごめん……マイクロトフ…ごめん」
「…どうした。また迷惑だと思って謝っているのか?」
「そうじゃないよ…」
カミューはシーツに頬を擦り付けるようにして首を緩く振った。
「カミュー?」
「とにかく、ごめん。あ、そうだ…あの本、直ぐ返すよ……貸してくれて、有難う」
もう会わない方が良いだろう。だったら本も直ぐにでも返さなければなるまい。実はあれ以来ずっと鞄の中にしまって肌身離さず持ち歩いている大切な本だった。今すぐにでも取り出して、元通り、何も無かったかのように棚に戻せるのだ。
だがマイクロトフはぼんやりと不思議そうな目でカミューを見ている。
「カミュー? 本は好きなだけ貸すと言った筈だぞ」
「うん、でもね……」
カミューは困った顔をして、僅かに微笑んだ。寝惚けているのだろうマイクロトフに説明をするのはつらい。だから苦笑で誤魔化して黙り込んだ。
そして沈黙が痛いほどに身に突き刺さる。
何をしているのだろう。さっさと身を起こして、マイクロトフの手を退けて本を置きこの部屋を出て行けば良いのに。なのにカミューはこの、ベッドに横たわり指先だけでも彼の温もりを感じている今が、とても失い難くて惜しくてならなかった。あまりに心地良すぎるためだろう。間近には彼の気配があって、どこもかしこも彼の匂いで、そして黒い瞳が穏かに見詰めてくれているのだ。
思ったら、またじわりと涙が滲んだ。
だが今度はぐっとその涙も堪えてカミューは強く目を瞑った。そして次にこの目を開けた時には、起き上がってしまおうと心に決めた。
ところが。
「なぁ、カミュー」
不意に呑気な調子でマイクロトフが呼びかけてきた。
「少し考えたんだが、あの本だがな」
カミューは薄っすらと目を開けた。すると薄く滲んだ視界の向こうにマイクロトフの慕わしい笑顔があった。それが真直ぐにカミューへと向けられている。
「………」
カミューは息を呑んでマイクロトフの次の言葉を待った。すると。
「あの本は、返さなくても良い」
言われた言葉にカミューは目を瞠り、そして勢い起き上がった。
「ど、どうして……?」
尋ねる声が震えた。
どうしてマイクロトフがそんな事を言うのかが分からない。だがもしかして、もういっそのこと返す必要も無いほどにカミューを………。そこまで考えてまた悲嘆に飲み込まれそうになった時、ぽつりとマイクロトフが言った。
「どうして、か。まぁ、記念にとでも言うのかこの場合は」
「記念…?」
「ああ、カミューが俺を好きになってくれた記念だ」
「………え?」
「人から、あんなふうに好きだと言われたのは初めてだったが、多分あれは誰に言われるよりも俺は嬉しかったと思う」
「な……マイクロトフ…?」
「きっと俺もカミューのことは最初から好きだったのだろうな。だからおまえに言われて合点がいった」
「……それって…」
「まぁ、だから本は返却不可だ。返すと言ってもいらんからな、受け取れ」
にっこりと笑ってマイクロトフは自分一人横になったまま肘を突いてカミューを見上げた。
「あぁ、だが図書館から借りた本はきちんと返すからな」
くすりと笑ってマイクロトフは上になった方の手で、呆然とするカミューの腕をぽんと叩くように撫でた。
「カミュー?」
優しい声がカミューを呼ぶ。
「どうした、まだどこか痛むのか?」
穏かに問う声は慈愛に満ちていて、さっきまで痛みに埋め尽くされていた胸を癒していく。
「ほら、カミュー……男がそんなに泣くな」
起き上がって伸ばされた指先が、少しばかり乱暴に涙を拭ってくれるのも、なにもかもがカミューの心を嬉しさと幸せで満たしてくれる。
「だってな……マイクロトフ……これは、泣くなって言う方が……難しいよ」
カミューは泣き笑いの表情でぼろぼろと涙を零して、同じ目線になったマイクロトフに両腕を差し伸べた。そして、抵抗なく抱き締められてくれる存在の確かさにほっと息を吐いて目を閉じた。
なんて幸せなんだろう。
カミューは、新しい街と、新しい恋と、そして恋人へ感謝して、初めての口付けを贈った。
end
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2002/10/13