exorcist 3


 到着の時刻を逆算でもしていたのか、目的のアパートの前に停まると一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。テイラー氏だった。
 彼は気の毒なほどに青褪めた顔色をしていて、酷くやつれていた。しかし薬品会社の研究員と聞いて思い浮かべていた様子とはかなり違う、上背のある体格の良い男だった。
 二人はそのテイラー氏に各々名乗ると、まずはと近くのレストランに入った。時刻は昼を随分と過ぎた頃で、店内では買い物帰りの女性たちが好き好きにお茶の時間を楽しんでいた。
 そんな中に標準以上の体格に恵まれた男が三人。平日の昼間ではとても目立った。しかもそのうちの一人がモデル並みに容姿の整った男である。
「落ち着かないか?」
 座った途端に隣からそう声を掛けられて、マイクロトフは無言で顔を顰めた。カミューはそれに軽く笑って前を向く。
「ところでテイラーさん。奥様は今は?」
「昼はずっと眠っています」
「なるほど、それでは手短に幾つかの確認をさせて下さい」
 言うなりカミューはマイクロトフが一瞬言葉を失うほど、優しい微笑を浮かべてテイラーを見た。それに、テイラーは縋るように両手を組み合わせて「ああ…!」と低く叫んだ。
「助けて下さい! リサを、彼女をどうか助けて下さい神父様!」
「大丈夫ですよテイラーさん。神は全てをご存知です。きっとあなたの奥様を救って下さいます」
 カミューは手を伸ばし、テイラーの肩を優しく叩いた。それから、まるで勇気付けるように「さあ顔を上げて」と語り掛ける。
 マイクロトフは、その自分に対する態度とのあまりの違いに唖然と口を開いたままだった。
 こいつはどういう性格をしているんだ。
 まるで聖母の微笑みもかくや、と言わんばかりの見事な笑みにマイクロトフでさえうっかりと車内でのやり取りを忘れそうになった。
「それでテイラーさん、あなたに聞きたい事があるのですが、この二三日の事で構わないのですが、奥様はあなたに何か言ったりはしませんでしたか」
「はい、それはもう恐ろしい声で、口汚く罵りの言葉を」
「それは例えばどんなものでしたか」
「例えばだなんて、とても私の口からは言えないような……」
「そうですか。では、それらはあなたに対して向けられた罵りでしたか」
「ええ、そういうものもありました。その……淫売を買う男だと、言われました。でもそんなとんでもありません、私にはリサだけなのです!」
「分かっていますよ、落ち着いて」
 興奮するテイラーに対しても、カミューの口調はあくまでも穏やかで優しげで、そして根気良く対応し続けている。
 信じられん。
 実のところ、マイクロトフはこの家族から話を聞くと言うのが苦手であった。
 相手は大切な身内を悪霊に憑かれて心身ともに疲れ果てている。だから、そこへ現れた悪霊祓いの神父に対してそれこそ全力で縋り付いてくる。冷静に話をしようと思ってもこれがかなり難しい。
 マイクロトフも担当地区の村の人々から様々な相談事をされて、それにいつも誠実に応えているが、それは教会の中での事だからとても落ち着いて話が出来る。これとそれとは違うのだ。
 しかも聖書を読んで説教はできても、マイクロトフの本来の性格は口下手だった。昔から言葉を飲み込む癖があり、そのうえ頭に血が上りやすくてそうなると訳も分からず突っ走ってしまいがちになる。
 とてもではないが、今のカミューのような対応など出来はしないのだ。
 テンコウ司教が自分にカミューを宛がったのが、なんとなく理解できたマイクロトフであった。
 そして、レストランでほぼ一時間ほど。しまいには嗚咽を漏らして切々と妻との色々を語り出したテイラーを相手にカミューとマイクロトフはそれでも聞き出したいことを何とか彼の口から引き出したのだった。



 リサ・テイラーは実は三ヶ月ほど前から様子がおかしかったらしかった。
 本来の彼女は少し大人しいところもあるが、根は明るくて気持ちの良い優しい女性で、テイラー氏はこんな素晴らしい女性と巡り合って恋に落ち、そして結婚を受け入れてもらえた事を幸福に感じていた。
 だがそんな彼女が三ヶ月ほど前からひどく口数少なくなり、外出を嫌うようになって昼間でも遮光カーテンを引いて寝込むようになった。最初は体調でも崩して具合が悪くなったからだと思っていたテイラー氏だったが、それが二ヶ月以上も続いた頃に彼女の様子が一変したのだと言う。
 夜中、突然飛び起きた彼女は、この世の全てを呪ってやると、まるで別人のような世にも恐ろしい低い声で呪詛の言葉を大声で喚き出したのである。
 驚いて混乱しながらもテイラー氏はそれを宥めて何とか落ち着かせようとしたが、とんでもない怪力で振り払われて壁に強か頭を打ちつけて暫く動けなくなったほどだった。
 しかしそれも明け方近くなると徐々に声の調子も弱くなり、窓の外が白み始める頃に彼女は眠りに落ち、青白い顔で夜が更けるまで眠り続けたのである。
 そして再びの夜更け、彼女はまたも低い声で喚き出し、明け方までそれが続いた。テイラー氏はそれが三日続いた時に漸く彼女の実家に連絡を入れて、過去を知ったのだ。
 だがテイラー氏がそれで妻となった女性を見捨てる事はなかった。
 夜中喚いて暴れ続けてそれ以外は深い眠りについてしまう彼女のために医者を呼び、大人しい間に点滴を打ってやり、夜は夜で必死で彼女の話し相手になろうと務めた。そして最初の異変の夜から一週間の後、教会から一人のエクソシストが派遣されてきたのだ。
 それからはマイクロトフたちも知っている。

 テイラー氏のマイクロトフとカミューに向ける目には複雑なものがある。縋るようなものと、隠し切れない不安と。だがそれにカミューは優しい笑みで答えるのだ。
「大丈夫ですよ」
 それこそ聖母のように慈愛溢れる眼差しと微笑みに、マイクロトフはカミューと言う男がますます分からないと思った。
 車の中で、皮肉な笑みを見せた男は。
 自分には信仰心を求めるな、と冷えた眼差しで吐き捨てた男は。
 ところが惑乱のうちにアパートの階段を上るマイクロトフの耳に、再びあの投げ遣りで乱暴な声が聞こえた。

「おい。よもや忘れてはいないだろうがもう一度言っておく。決して俺の邪魔をするな。でなければ俺が窓からお前を叩き出すからな」

 ぎょっとして振り向いたが、カミューは既にさっさと階段の上へと足早にのぼっていた。そして先に行っていたテイラー氏に落ち着いた表情で語りかけているのだ。
 一瞬、幻聴かと思ったが、言われた言葉の内容が車内で釘を刺されたそれを、わざわざ念押ししたのだと気付いて眉を寄せる。
 そうするとどうにも腹の奥が気持ち悪い。
 言われなくとも、このカミューと言うエクソシストのお手並みをまずは拝見させてもらおうじゃないかと、マイクロトフは布に包まれた『ダンスニー』を掴む手に力を篭めた。
 テイラー夫妻の住むアパートは、まったくもってごく一般的なそれだった。築十年程だろうか比較的新しい作りで、通りから大扉をくぐった先の階段は広い。おそらくは家族向けの間取りになっているのだろう。
 明るい日差しが射し込む階段を上っていった三階に夫妻は住んでいる。だが一歩玄関の扉を開いて中に踏み入ると、驚くほど薄暗い。見渡せばあらゆる扉を閉めきり、窓も分厚いカーテンが引かれていた。
「驚かれたでしょう。妻が―――」
「ええ、分かっていますよ」
 慣れたものなのかカミューは落ち着いた声で頷いて答えた。マイクロトフもまたこんな情景は良く目にしていたので大して慌てずに彼らの後をついていった。
 中に入ればやはり家族向けの広い間取りが掴めた。真っ直ぐ廊下を進むとおそらく広いリビングに出るのだろう。しかし途中に水場のほかにも幾つかの部屋がある。きっと子供が生まれても良いようにとこのアパートに移り住んだのだろうと、マイクロトフは思った。
「妻は、奥の寝室です」
 薄暗い室内に似合った押し殺した低い声でテイラー氏が告げる。カミューはそれにマイクロトフを振り返りもせずに、奥へと一人で進んでいく。
「おい」
 待て、と慌てて後を追うマイクロトフだったが。扉の前でカミューが立ち止まり唐突に振り向いた。

「ところでマイクロトフ神父―――あなたは、どちらだ?」
「何?」

 問い返したマイクロトフにカミューは目を細めて、眇めるような目つきでじっと見詰めてきた。そして。
「鈍くはなさそうだが。見えるのか、見えないのか、どちらだと聞いている」
「だから何がだ」
「悪霊だ」
 まるで、それ以外に何があるとでも言うようなカミューの口調にマイクロトフは一瞬、虚をつかれた。その間が良くなかったのか、カミューは近くに居ないと聞こえないような小さな舌打ちを打った。
「なんだ、不感症か」
「な……っ!」
 あまりの言葉に面食らったのも束の間、瞬いた次にはカミューの手がドアノブを回し、扉を押し開けていた。



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2005/04/29