exorcist 5
マイクロトフの目は、幼い頃から不思議なものを見続けていた。物心のつく頃にそれがオーラと呼ばれるものだと聞かされたが、そういうものとは少し違う気もしていた。
オーラとは万物を取り巻く生命エネルギーらしい。だがそれにしては、マイクロトフの目に映るものは、とても稀で滅多に見ないものだった。
そしてある日、唐突に気付いた。
それが『力の流れ』なのだと。
良く見れば確かに流動的なそれは、まさしく流れだった。活火山の噴火口から流れる溶岩。激しく流れ落ち飛沫をあげる滝つぼ。地上に容赦なく落とされる稲妻。
これが不思議と写真やテレビを通すと見えないのだ。しかし現実にマイクロトフ自身の目で見た時、それらはオーロラにも似た美しい色の流動的な流れを纏いつかせて、自然の猛威をマイクロトフに知らしめる。
そして日常の暮らしの中においても、稀にその『力の流れ』は見えた。
最初にそれに気付いたのは、ストリートで歌う青年を見た時だった。自然の風景に見えるそれ程ではなかったが、確かにはっきりと青年の身体から、彼を取り巻く周囲のギャラリーに向かって暖かな色をしたそれが放出されていた。
その青年をテレビ画面に映った何か大きな賞の授賞式で見たのは、それから三年後の事である。やはりテレビのモニター越しには何も見えなかったが、きっと大きな舞台で歌う彼からは聴衆に向かって相変わらずあの素晴らしい暖かな色の流れが放出されているのだろうと思った。
他にも、美術館で見た絵画や彫刻にその『力』の名残が纏わりついていたのも見た。それは弱い力ながらも鑑賞していく人々に何らかの影響を与えていた。
つまりは、おそらく際立って優れたアーティストは、そんな『力』を放出できるのだろうと、マイクロトフは納得していたのだ。ところが、この日常にある『流れ』はそれだけではなかったのだ。
それは悪意の塊りだった。それまで見たこともないような暗い色をしたその力の流れは、まるで汚れて澱んだ川底に溜まる泥のようにわだかまり、近寄り難い気配を発していた。
しかもそれ自体が何らかの意思を持っているかのように、対面したマイクロトフを見つけ、ゆっくりと後を追ってきたのである。当時、まだ十一才だったマイクロトフにとってそれは悪夢の体現であり、下校の最中のこと、泣くのも忘れて混乱のまま逃げ惑った。
そして、とある教会に逃げ込んだのである。
大きく開いた協会の正面扉の向こう。
蝋燭の灯りだけに照らされた薄暗い教会の中と比べて、外の方が昼間の明るさに満ちていた。しかし、その昼日中のさなかでその悪意の塊りは教会の敷地内には決して入って来ようとはせず、その内に諦めたように去っていった。
そして、その教会で出会った神父の導きにより、マイクロトフは神学校への進路を決めたのである。
見定めれば『流れ』はその強さや性質や方向をマイクロトフに教える。そして、かつてあの悪意の塊りが教会に決して入ってこなかったように、それらを忌避するまた別の『力』があることも学んだ。
―――ダンスニー。
古い時代に作られた鉄剣だと教えられた。
手に持った感触はずっしりと重く、両刃の表面は鏡面のように濡れ輝いて触れるだけで切れそうな鋭さを持っている。古城の壁に掛けられていてもおかしくはない意匠の立派な剣だが、刃の潰されたそれらとは違い、ダンスニーは充分に殺傷能力のある正真正銘の武器だった。
だがこれは人を斬る為のものではなかった。
ダンスニーが生み出された理由はただひとつ。この剣は魔を祓うためにだけ打たれ鍛えられた一振りだったのである。
「その剣は」
抜き身の白刃にカミューが驚いたような声を出す。
マイクロトフは今しがた室内を埋め尽くしたその力を真っ二つに裂いた剣を緩やかに構えなおし、カミューをちらりと見る。
「死霊悪霊、魔物の力を祓い清める力がある」
その通りだった。
マイクロトフがそれらの悪しき力の流れを見極める目を持っていることを知ったテンコウが、鍛冶師のテッサイに命じて新たに鍛え直させマイクロトフに持たせた剣であった。
かつては、聖人と崇め尊敬された中世の騎士がこの剣の持ち主だったとも聞く。鉄の十字架を溶かして鍛えたとも言われるダンスニーは何度も何度も聖水で清められ、力の弱い悪霊は見ただけで恐れ戦き退散する。
これまでずっとマイクロトフはエクソシストの仕事をこのダンスニーと共に潜り抜けてきたのだ。それも、こうした乱暴な相手を中心に。
「俺にはポルターガイストの力の動きが気流のように見える」
それらは全て悪霊に憑かれた人物、その本人から発せられる力の流れが引き起こしている。今日のように強力な例は稀だが、それらの力の流れは見極めさえ出来ればダンスニーで断つ事が出来る。
前任者はこの力に押されて窓から落とされ重傷を負ったという。だからこそその力が見えるマイクロトフが後任に推されたのだろう。
「そしてそれをこの剣で断つ事が出来る。つまり、悪霊の力では俺を害する事は出来ない」
そうマイクロトフが断言した途端に、室内を騒がせていたポルターガイスト現象がピタリと止んだ。続いて不自然なほどにしんと静まり返る。
そこへカミューがぽつりと呟きを落とした。
「それは、便利だな」
思わずマイクロトフは気が抜けそうになる。
「……言いたい事がそれなのか」
「ん? ああ、不便だなんて言って悪かった。撤回する」
車内で言われた。そんな大きな物を毎回持ち歩いているのは不便だと、確かに言われた。しかし今問題にするのはそういう事だっただろうか。
何か違うような気がする。
そうだ。違う。これまでマイクロトフが出会ってきた人々と、カミューの反応はあまりにも。
「カミュー、おまえはまったく…! この剣の神聖な力を便利だの不便だなどと言ったのはおまえが初めてだぞ!」
不遜極まりない男である。半分呆れたようにそう言うと、カミューはだってね、と笑み混じりに答えた。
「俺は悪魔の姿が見えても、これまで便利なことなんてなかったからね。逆に不便な事だらけだよ。その点、おまえの力は良い」
そしてゆっくりとした足音がマイクロトフの方へと歩み寄ってきて、直ぐ近くにカミューの気配を感じた。
「教えてやろうマイクロトフ。ベッドのレディを見てごらん。彼女の左側に、とても醜い奴がいる。翼もない下等な悪魔さ―――だが悪魔は悪魔。悪霊より悪知恵も力もあって性質が悪い。そいつがね、今おまえの剣を見てガタガタと震えている」
カミューに指先がすうっと指差した方向に、マイクロトフは陰気な気の流れを見た。
カミューの目に、彼の言う悪魔がどんな姿として映っているのかは分からない。けれど。
「カミュー。俺からもおまえに教えてやろう。今までの経験から、俺の剣の力を見た悪霊や悪魔は、二通りの反応を示している。ひとつは勝機なしとみて退散する。そしてもうひとつは―――逆転を狙って全力で抗ってくるのだ」
そしてマイクロトフの経験が教える。
「今回のこいつは……残念ながら後者だ。カミュー、あんまり相手を煽ってくれるな!」
マイクロトフの目に、陰気な気が翳りを増して徐々に練り固まっていく流れが映る。いまやリサ・テイラーの身体の左側は、その翳りの濃さに後ろの壁が見え難くなっているほどだ。
しかし焦るマイクロトフとは裏腹にカミューは呑気だった。
「なるほど、確かに闇雲な感じだね。けれど、大丈夫だマイクロトフ。今ので俺に見えたものがある」
「なんだ!」
「下等な悪魔がどうしてこれほどまでに強い力を出せるのか、ずっと疑問だったんだ」
確かに、悪霊や悪魔は恐ろしい存在だが、この神が見守る地上においては彼らが人間以上に強くなれる筈はないのだ。どうしたって生きている人間の方が強い。そうでなければ、世の中は悪魔や悪霊に支配されている。
だから普通は前任者のように、たとえ強力なポルターガイスト現象に巻き込まれたとしても、それほどの大怪我を負う事はありえない。それはマイクロトフも引っ掛かっていた。
カミューはもしかしてその原因を知ったのだろうか。しかし、どうやって。
そう思った気持ちがそのまま表情に出ていたのだろう。思わず振り返ったマイクロトフに、意外なほど側近くに立っていたカミューがくすりと笑みを零した。それから、余裕の笑みで口角を吊り上げると意味深な目をして見詰め返してきた。
そして、言ったのだ。
「マイクロトフの脅しで、奴が一瞬怯んだろう。その時に、奴の取り憑いている本当の人間が分かった」
本当の?
一瞬、その意味が分からなかった。
するとカミューは不意にマイクロトフの肩に手を置いた。
「思い出せマイクロトフ。レディ・リサは八年前にも悪魔に憑かれている。その原因は当時、高校卒業を控えた時に付き合っていた男に振られたからだ、とされていた。だが別にあったんだな理由が。誰も知らなかったが―――奴がついさっき零したよ」
奴、とは悪魔の事だろう。そういえばさっきも悪魔に向かって取引めいた言葉を投げていたカミューだ。反対に向こうの言葉も聞き取れるのかもしれない。
「なんだそれは」
マイクロトフは聞きたくないような、聞きたいような、どちらともいえない曖昧な気分で先を促した。悪魔がいったい、何を言ったのだろう。だがそんなマイクロトフにカミューは爆弾を落とした。
「彼女は妊娠していたんだ」
「……おい待て、今おまえは高校卒業前だと言っただろう!」
「別にそんな事は珍しくないよ。それに、医者にかかる前に彼女は流産したらしい。だからきっと親も知らないんだろうな。だからあれから八年間、彼女は平穏に過ごしてきた」
言いながら、カミューは再び掌にマッチを握り締めていた。
「結婚し、幸せな新婚生活。だけどレディにとって思わぬ落とし穴があったんだ」
「……」
「また、妊娠したんだ」
「カミュー! それでは彼女は今……!」
「三ヶ月? 四ヶ月かな。もうそろそろ目立ってくるんじゃないかな。彼女にとって妊娠は恋人との破綻だ。恐ろしくて仕方がない現象だ」
「それが悪魔を呼び寄せたと言うのか! 馬鹿な!! 結婚して子供が出来るのは自然な事だろう。それを恐れるなど……!」
信じられないと首を振るマイクロトフに、しかしカミューは肩に置いた手に力を込めて、くっと喉を鳴らして笑った。
「そう? 子供が嫌いなレディは多いよ。結婚しても子供なんて要らない。セックスは好きだけど妊娠なんて絶対に嫌。そんなレディが世の中にどれだけいると思うんだ。まぁレディ・リサの場合はそんな女とは少し違うけれどね」
皮肉に言ってからカミューは眇めた瞳でリサ・テイラーを見遣った。気付けばその右手が、いつの間にかマッチを折っている。
「そんなわけでここには、俺とおまえと、レディ・リサと、それからもう一人、彼女の子供がいるんだよ。まだ生まれていない、祝福を受けていない無垢な生き物が」
生き物。
その言い方に眉をひそめたマイクロトフだったが、今はそんな事にいちいち目くじらを立てている時ではなかった。
「悪魔は、その胎児に取り憑いているのか!」
「まぁ正確に言うと、レディに憑いていながら、子供の力を掠め取っている状況だ。胎児には神への信仰心もない、祝福も受けていないから神の御手も流石に及ばない。胎児の状態とは言え立派な人間だ。その人間の底知れない生命エネルギーをあの悪魔はまんまと利用しているってわけだ」
マイクロトフは思わず唸った。
「……こんな事は初めてだ!」
「確かに、珍しいね」
「こんな状態では尚更、早く何とかしなければ母子共に危険ではないか!」
先程からリサ・テイラーは叫び声を上げたり、苦しさにのた打ち回ったり、妊婦がやっていいとは思えない激しい動きをしている。
ところがそれに対して、カミューはとんでもないことを言った。
「この際、子供は諦めてもらった方が良いかもね」
「なんだと!」
「そもそも、母親から望まれていないんだ。このまま生まれない方が幸せかもしれないだろう」
「そんな事は―――そんな事はない!」
マイクロトフは怒鳴っていた。
「どんな親であれ、子供が母親の胎内に宿ったからには生まれなくて良いなどと言う事は絶対にない!!」
「―――へえ、言い切るのか」
そう呟いたカミューの声は、驚くほど冷ややかだった。しかし熱くなったマイクロトフにとって、そんな事は些細な変化だった。
「どんな子供でも、きちんと誕生して生きる選択肢が与えられているのだ。どんな困難があろうと、子供は生まれて幸せになるために等しく神から希望を与えられている」
「神がね―――だけど神だって万能じゃない。こうやって悪魔をはびこらせているのがその証拠だろう? もしかしてそれも神がお与えになった試練だとか、おまえも言うのかい」
「馬鹿な。神が意図的に何かをするわけがない。そんなものは俗っぽい人間の思い込みだ。全ては、人間が弱く愛しい生き物だからだ」
「愛しい……」
「誰かを愛するが故に、人は過ちを犯す。怯え悲しみ憎み怒る。その気持ちは時に強く悪魔さえも呼び込むが、それでも人間はその悪魔を追い払い、立ち直る事が出来る。俺は何度もそうやって希望を抱いて新たに歩き始めた者たちを見てきたぞ。カミューは違うのか」
「……え?」
「おまえだってエクソシストとして様々な人々に出会ってきただろう。そうして悪霊を祓って、救われた者の顔を見てきたのではないか」
「………」
「確かにこの世は困難だらけだ。生まれてこなければ良かったと嘆く者も、いる。だが、そう言いながらも幸せを掴む者もいるのだ。俺はその手助けをする為にこうしてこの場にいる。人は弱いからな―――だから救いを求める。俺は神の僕としてその救いの声に応えるために、持てる力を使って全力で手助けをするのだ」
拳を握り固めてカミューを睨むように見詰めながら言ったマイクロトフに、目の前の男は何故だか不満げに顔を顰めさせた。
「……おまえは、それを本心で言っているのだとしたら、とんだ馬鹿だな」
「好きなように言え。俺は俺だ。俺の信じるように生きる。どこかに俺の手を欲する者があれば、駆けつけて貸してやる。だからなカミュー、俺の前で『生まれてこないほうが良い』などと馬鹿げた事は金輪際言ってくれるな」
するとカミューは不満げな顔から、今度は何かを堪えるような顔をした。マイクロトフはてっきりまた、馬鹿だとかなんだとか勢いのままに言い返されるのかと思ったが、違った。
カミューはどうしてだか、酷く悲しそうな顔をして、それから頷いたのだ。
「分かったよ……」
そんなカミューの小さな声が、しんとした室内にぽつりと落ちた。
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2005/05/22