Gymnopedie


 休暇前の夜になると、いつも何かに追われるかのように街へと下りるのは何故だろう。安らぎを求めている筈なのに、帰路ではよりいっそうの重さを背負ってしまったように感じるのは―――。
 珍しく、早い時刻に城への帰途についていた。いつもならもっとずっと夜も深くなってからだ。通り過ぎる家々にはまだ食卓を囲む団欒の明かりが灯っており、固く閉ざされた窓からその光が淡く漏れ零れている。
 そんな仄かな明かりを横目に騎士服ではない私服のコートの襟を立て、まるで身を隠すかのようにカミューが俯いて歩くのは、街の大通りではなくひとつ裏の小道だった。がたがたの、街灯の光も届かない路面を歩くたびに頭痛が酷くなるような気がするが、明るく綺麗に舗装された道を歩く気には何故だかなれない。
 まるで、明るい場所には出られない日陰者のようだ。
 それもあながち間違いではないな、とカミューはそんな自分を嘲笑った。
 常に己を否定し続けている人間など、日陰者以外のなんだと言うのだろう。
 思って、そしてそんな自分とは正反対の、日向にいるべき男の顔を思い出して目を伏せた。
 ―――おまえがいるから、わたしはまだ、ここにいる。
 凍えるロックアックスの街並みから夜空を見上げてカミューは苦い笑みを喉の奥に沈めた。
 こんな想いは身勝手で、もし相手に知れたら迷惑なだけだろう。それでも何処までも不完全な己の、ただひとつの拠り所として縋ってしまう。
 いつからそうなったのか、もう自分でも分からない。
 もしかしたら錯覚なのかもしれない。
 彼はただの友人で、彼にとっての自分もまた友人の一人に過ぎないだけなのだから。
 だが、それならこの胸に宿る焦燥と空虚感はなんだ。
 今、確かなのはカミューにとってマイクロトフが掛け替えのない存在になってしまっている事だった。彼は、薄暗く背徳的な感情を胸に潜ませ、それを必死で覆い隠しながら何事もないように付き合い続けていきたい程の相手なのだ。

 ―――おまえが、いるから、わたしは……。

 いつの間にか、カミューの足は止まっていた。路地裏の冷たい壁に凭れ、ぼんやりと建物と建物の間に見える狭い空を見上げる。不意に感じた肌寒さに、天を仰ぎ見ながら震える吐息をついた。
「……あぁ」
 雪が降りそうだ。
 この街に来るまでは街を覆うほどの雪など見たこともなかった。冷たくて綺麗だが、綺麗過ぎて―――苦手でもある。
 降り出さないうちに帰ろうと、壁に預けていた背を離す。途端に冷たい風が身体を取り巻いて去っていった。
「………」
 寒い、とすら言葉にできず、カミューは息を潜めてまた歩き出した。



 結局、城に帰り着く前に降り出してしまった雪に、髪も服もしっとりと濡れてしまった。
 コートの雪を払って、暖炉に火を入れて薪を放り込む。隊長以上に与えられる私室には作りつけの大きな暖炉があり、今だけはその境遇に感謝した。重い気分のまま雪に降られ、戻った部屋が寒いでは救われない。
 服を乾いたものに着替えてワインを少し飲むと漸く人心地がついた。
 深く椅子に凭れてこめかみを揉む。疲労がとぐろを巻いて身体の奥にわだかまっているようだった。
 安らぎを求めて街に通っていた筈が、それがいつの間にか疲れるばかりの行為になってきていた。この矛盾をそろそろどうにかしなければと思うのだがどうやって解決すれば良いのかは、ひたすら途方に暮れるばかりで、やはり相変わらずの街通いは続いている現状である。
 カミューは椅子に深く凭れた姿勢のままで暫くただひっそりと息を詰めて居た。実はこうして気配も存在も無くしている時が一番心が休まる時かもしれなかった。
 世界が無になって、自分の息遣いすら無限の彼方に消えていく。現実の煩わしさもしがらみも全て意識の遠くへと追いやられて、ただそこに在るだけのものと成り果てる。
 このまま、空気に融け消えていったなら、きっと楽で良いだろうに。

 ところが不意に甲高い音が響いて、室内に停滞していた倦怠と静寂が打ち破られた。ハッとして顔をあげるともう一度、今度はもっと強く扉を叩く音が確りと響いた。
「誰だ?」
 こんな夜遅くに。
「俺だカミュー。起きているのだろう?」
 厚い扉の向こうから届く聞き慣れた声にカミューは驚いて立ち上がる。
「マイクロトフ」
 足早に扉まで歩くと何の躊躇いもなく開け放ち、そこに深く黒い瞳を見つけてカミューは思わず瞳を眇めた。
「どうしたんだ? こんな時間に」
 狭まった視界の中、俯いたマイクロトフの黒い頭髪がゆらりと揺れて朴訥な声が響く。
「また出掛けていたのか?」
「少しね」
「そうだな。明日は休みだからな…」
「…ああ……で、それを持ってきたと」
 マイクロトフの俯いた先、包装紙に包まれたボトルを見つけてカミューは得心の笑みを浮かべた。時折揃う休日の前夜にこうして酒を持ち寄って夜を明かす習慣が、いつの頃からか二人の間に出来ている。
「飲まないか?」
 マイクロトフがボトルを持ち上げて首を傾げるのにカミューは機嫌よく首を傾げ返した。
「飲ませないつもりか?」
「……入るぞ」
「どうぞ」
 一瞬絶句してから憮然となったマイクロトフの足が、カミューが笑いながら退くより先に室内に踏み込んでくる。その遠慮のない態度は相変わらずで、部屋の住人である方もそれを当然のように受け止める。今更礼儀がどうのと言う程の間柄でもなかった。
 そしてカミューは扉を閉め室内を振り返って、ボトルの開封をする精悍な横顔を見付けてじわりと胸に染みる温かな感情に微笑みを浮かべた。
 さっきまで寒さに凍えていたのが嘘のようだった。まるで、太陽のような男だ―――その眩しさでカミューの存在をもはっきりと照らし際立たせてくれる。それが、どんなにか心地良いことか。
 そう自覚して、カミューは直ぐに自分のそんな情緒の不安定さに目を伏せた。さっきまでと考えている事が逆だ。
「カミュー」
「…なんだ?」
 すかさず我に返って瞬きをして見ると、マイクロトフが開けたボトルを片手に室内を見回していた。
「グラスは、どれを使う」
「ああ…」
 問われてカミューは一直線に部屋を横断し、壁際に寄せてある戸棚を開いた。そして奥まった場所に置いてあった小振りな切子のグラスを二つ取り出し、マイクロトフに見せる。
「これで良いかな」
「十分だ」
 マイクロトフの頷きを見てからカミューはそのグラスの中に息を吹きかけて軽く埃を飛ばして卓上に置いた。そしてちらりとボトルのラベルを視界に入れた。
「なんだ、ワインじゃないのか?」
 一見した酒の銘と、漂ってきた香りにカミューは軽く目を見開いた。
「ウォッカだ。寒いから」
「なるほど。で、肴に何を所望する?」
 こう寒くては氷も無用だ。
「適当にあるものを」
「了解」
 また戸棚を探って、カミューはそこから乾いた干し肉を取り出した。香草と混ぜて乾燥させたもので、日保ちが良い上に生臭い香りがなく、好んで買いつけているものだった。それを卓上に無造作に置いて漸く席についた。
 その間にマイクロトフが置いたグラスに無言で酒を注いでいた。カミューはグラスの縁まで透明な酒が満ちるのを待ってから、黙ってそれを取り上げ嚥下する。
 それにしても互いに酒の趣味が無粋だ。
 しかしそれで良い。甘い酒よりもよほど自分たちに似合っている。
 焼けつくような喉越しでライ麦の蒸留酒が胃の腑へと落ち、そこから重く怠いような熱が身体の中へと広がり染みていった。そして口の中に僅かな苦味と痺れが残る。
「あぁ、美味いな―――」
 呟いてカミューは目前に座る男を見た。すると黒い瞳が何やらまじまじとこちらを覗き込んで来ている。
「なんだマイクロトフ」
 首を傾げるとマイクロトフは「うむ」と頷いて己も酒を飲む。それからグラスの中で揺れる透明な酒を見下ろして真一文字の唇を開いた。
「カミューと俺が友人だというのがおかしいと今日また言われてな。どこがだろうかと考えていた」
 おかしいかな、と首を捻る。唐突な話題に、しかしカミューは大仰に頷いて掌を開いてみせた。
「あぁ、それはおかしいだろうな」
 カミューは言って、早々に空けたグラスを置くとボトルを引き寄せた。
「おまえは自他共に認める堅物だろう。社交辞令が苦手で気の聞いた事ひとつ言えず女性の相手を苦手としている。頭で考えるより先に本能で身体が動くような不器用な奴だ」
「いつも思うが、それは誉め言葉では―――ないんだろうな」
「誉めているのさ。かたやわたしはといえば、女性と見れば手を取り笑みを傾け、巧みな話術で誰からも好意を得るような軟派な男だ。いつも理屈を捏ねてから動くから冷静と言えばそうだが、騎士としては少し臆病の部類に入るかな」
「カミューが臆病……冗談か?」
「―――失礼な物言いはこの際置いといてやろう。まぁつまり、わたしたちの言動は常に正反対だから、当然ながら気が合う筈がないだろうと周囲は思うんだろうな」
 再びグラスに満ちた酒を嬉しそうな顔をして舐めるカミューの言葉に、マイクロトフは腕組みをして唸った。
「カミューほど気のおけん相手はおらんが」
「そうだね。マイクロトフほど気遣い無用の相手もいない」
「…だからと言って無遠慮に酒をどんどん飲み干すな、こら」
 カミューが傍に置いて放さない酒瓶をひったくってマイクロトフはその減り具合に顔を顰めた。もう中程まで目減りしてしまっている。
「まったく。カミューのこう言うところを皆知らないから、好きなことを言うんだろうな。何処が思慮深いんだか……」
「まあな。マイクロトフにしろ誤解が多いと思うよ。こんなにけち臭いのに大らかとか言われているものなぁ」
 にこやかに笑いながらのカミューの言葉にマイクロトフも苦笑を禁じえない。悪意が欠片もないから笑って過ごせるのだろう。するとふとカミューは目を見開いて「あぁ、そうか」と呟いた。
「つまり我々は良しとするところと良しとしないところを分ける境界線の位置が近いんだろう。酒のひとつやふたつで険悪になろう筈もない価値観がさ」
 言ってカミューは酒瓶を寄越せと手振りをする。マイクロトフはそんなカミューの手元のグラスがもう空なのを見て渋々酒瓶の栓を抜いた。
「いや、俺はそんなに真面目なつもりはないのだがな」
 注いでやりながら自分のグラスにも注ぎ足して、また栓をした瓶を今度は足元の床に置いた。
「おい、何を隠している」
「大事に飲めという事だ。おまえと飲むとどうも酒のありがたみが薄い」
「……反論はしないがな、マイクロトフだって似たり寄ったりのくせをして」
 ぼそりと零してカミューは今度は少量口に含んでその酒の香りを暫し味わってから嚥下した。大概にして酒には量強さ共に人並以上の素質を持つ二人である。ボトルの一本は軽い。
「まぁ今夜は寒いし、仰せの通り大事に飲むさ……そう言えばマイクロトフ、雪が降っているのを知っていたか」
「いや、知らなかった。たくさん降っているのか?」
「明日の朝には一面真っ白だろうね」
「そうか。雪か」
 ちらりと見上げた先、マイクロトフの表情が嬉しげな色を浮かべた。そしてカミューの視線に気付いてか目を瞬いて、それから照れたように笑った。
「朝起きて窓の外を見た時にな、雪で真っ白になっていると俺は無性に嬉しくなるんだ」
 カミューは笑って頷いた。
「なら、明日の朝を楽しみにすることだ。今夜は格別冷えるから、雪も一晩中降り続けるだろう」
 グラスランド育ちではあったがもう何度目かのロックアックスでの冬に、それとなく予想をつけられるようになった。
「もう本格的に冬だな」
 朝起きるのがますます辛い、とこそりと笑むとマイクロトフが顔を顰める。どうやらカミューの、冬の朝の醜態を思い出し、今年も例年通りの冬になりそうだと思ったのだろう。
「いい加減カミューも一人で起きられるようにならんとな」
 城内の居住区は団によって住み分けがされている。それなのに毎朝自主的な早朝訓練の後にマイクロトフはわざわざ赤騎士団のカミューの部屋を訪れて起こしてくれるのである。
 最初のうちこそカミューも一人で起きる努力を欠かさなかったが、生憎と持って生まれた寝汚さはそうそう治らないらしく、騎士見習いの頃から毎度同期の者達の手を煩わせていた。そんな中、面倒な起床役を買って出たマイクロトフだったのだが、互いに違う団に配属された今もそれが続いているというわけだった。
「うーん……これでも毎朝努力はしているんだが」
 確かにカミューも毎朝寝坊をするわけではなく、マイクロトフが起こしに訪ねたときに既に目を覚ましていることも少なくない。それでも、まだまだ起床係は必要であるのだ。
「心構えが足りんのではないか?」
「え、いや………」
 雲行きの怪しさにカミューは視線を逸らせた。心構え云々と言い始めたらマイクロトフは長いのだ。若いくせに説教が長いのは良くないよな、とその説教の唯一の対象者であるカミューは勝手に頷く。
「ところで」
 不意に言葉の調子を変えてにっこりとカミューは笑う。こんな時は話題を変えるのが一番だ。酒ももう無いし、マイクロトフの機嫌を損ねるとおかわりが貰えない。
「わたしとおまえが友人であるのがおかしいと、今日おまえにそんな事をいったのは誰だった?」
「ん? 青騎士でな……」
 そして聞いた名前にカミューは素っ気無く肩を竦めた。
「知らないなぁ」
 呟いてカミューは空のグラスを愛嬌と一緒にマイクロトフに振って見せたのだった。



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ちょっとした日常。

2004/03/03

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