One is alive
マイクロトフは汗に霞む目を何度も瞬いてダンスニーの柄を握り直した。だがぬるりと脂を含んだ血の滑りが、握る指の力を四散させる。
背後から鋭い命令が飛んだ。
殺せ。
勢いのままに振り返りそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。
だが噴き上がりそうな思いが不快な歯軋りをたてる。
―――この上まだ刃を突き立てろと言うのか。
刹那沸き起こった怒りとも悲しみともつかない困惑がマイクロトフの胸の中を荒々しく吹き抜けた。
だが、命令は絶対である。
剣を構え直したその時、全身に纏わりついた返り血がさざなみを立てて怨嗟を訴えたような気がした。それを振り切ってマイクロトフは深く呼吸を整えた。
殺せ!
再び背後から迸った叫びが、マイクロトフの最後の躊躇いを打ち消した。
雨が降っていた。
しとしとと風景を昏く濡らしてゆく小雨の中、青い騎士服を身に纏う騎馬の集団が黙々と進んでいた。
誰もが一切、口を開かずに伏目がちに道の先を見つめながら馬の鐙を揺らしている。その様はまるで幽鬼の群れのように静かで不気味だった。
その集団の中ほど。
マイクロトフもまた他の者と変わらない面持ちで、無言のままに小雨の中の道程をゆっくりと進んでいた。
ひたすらに、泥と化した街道の土肌を蹴る馬の蹄の音だけが聞こえてくる。それから、軽鎧を雨粒が叩く硬質な音だけが。
『マイクロトフ、視察のお供だって?』
城を出る前に聞いた友の声が何故か不意に雨音の中、耳奥によみがえった。
ほんの数日前のことなのに、ずっと昔の事のように思い出している。
マイクロトフは馬に揺られ雨に打たれながら、半眼に瞼をおろすと、ぼんやりと友の姿を思い浮かべていた。
『副団長の視察に、どうして第二部隊のおまえが出るんだ?』
マイクロトフはその時、なんと答えたのだったろうか。
ああ、とか、うんとか。
赤い騎士服姿で、唐突にマイクロトフの部屋までやってくるなり戸口に凭れて話しかけてきたカミューに、自分はてきぱきと支度を整えながら適当に相槌を打ったような覚えがある。
『まぁどうせ、見得張りの為の増員だろう? 馬鹿げてる』
『カミュー』
『分かった悪かった。余計な事は言わないよ』
他団のことなのに、どうしてと言いたくなるほどカミューは色々と詳しかった。マイクロトフは、彼の言葉に是非を返せずにむっつりとするしかなかった。
『でも、わたしならごめんこうむる任務だね。他にやるべき務めは腐るほどあると言うのに、どうしてたった一人の騎士の虚栄に付き合わされなくてはならないんだ』
『任務に不服など有得んぞ。上からの命令には絶対服従だ。それも騎士の務めではないかカミュー』
『かたぶつめ。その調子ならおまえという奴はどんな馬鹿げた命令でも黙々と従ってくれそうだな』
鼻を鳴らして友人は肩を竦めていた。
しかしマイクロトフにしてみれば、恐れ多くも他団の副団長を『たった一人の騎士』呼ばわりする、その不敵さに呆れるばかりだった。互いに中隊長にしか過ぎない、ほんの下っ端騎士であるのに。
そもそもカミューのこんな不穏当な発言は始終聞いているからこそマイクロトフも溜息混じりに聞き流すが、もしも他の者が聞いたとしたら、目を剥いて危険思想だなんだと軍法会議沙汰にするかもしれない。
マイクロトフには、カミューがどうしてこうも不敬な発言をするのか、いまいち良く分からなかった。
今、自分たちが命令を下される側にあるのは、それだけの実力しかないからだ。逆に命令を下す側には、それに見合った資質と責任があるわけで、だからこその絶対服従なのだから。
資格のない者に命令は下せない。
命令を下すからには、その資格があるのだから。
それが、当たり前のことだと思っていた。どうやらカミューはそんな自分とは違ったのだと、この時には漠然と考えもしていなかったのだ。
『良いさ。せいぜい、おまえがどじを踏まないように祈っておこうじゃないか』
呆れたような口調でひらひらと手を振るカミューの姿をちらりと見た。
そこで漸くマイクロトフは、突然ふらりと現れた友人の意図に気付いたのだ。
思わず口元に笑みが浮かんでしまったのには、悪気はなかった。
『カミュー、もしかして見送りに来てくれたのか?』
しかしマイクロトフの嬉しげな声に、途端に嫌そうな顔をしたカミューはそうは思わなかったと思う。
『うるさいなぁ。支度が済んだのならとっとと行ってしまえ。それで、無事にその仏頂面を見せに戻って来い』
『分かった、行ってくる。カミューも俺がいないからといって寝坊するなよ』
『はいはい』
『返事は一回だ』
『心得た、マイクロトフ殿』
笑いを噛み殺しながら、暫しの別れを告げた。
副団長の領内視察は、一週間ほどの行程を組まれていたからだ。
ぐるりとマチルダ領内を巡り、各地に異変はないか、ただ見て回るだけの単純な任務だった。
だから任務を終えて城に戻っても、きっと変わらない日常がそこにあると信じていた。
だが今は、あの時のカミューとの会話が、ひどく遠い過去の出来事のようにしか思えないのだ。
雨を吸った騎士服の重みが、湿った軽鎧と一緒に肩へ圧し掛かる。
マイクロトフは馬の揺れに合わせて身体を揺らしながら、遠く霧雨の向こうに漸くおぼろげに見えてきたロックアックスの街を見つめていた。
ロックアックスを衝撃的な事件が襲った。
―――青騎士団、襲撃される。
定期的に行われる領内視察巡行の際の出来事だった。視察部隊を率いていたのは青騎士団副団長、構成部隊は第二と第八部隊。その報せを聞いた途端カミューは血相を変えた。
第二部隊はマイクロトフの所属する部隊であった。
襲撃者は不明。だがその場所と時期的に見て、赤月帝国の兵士であろうと思われた。かの国は今内部が騒がしい上に都市同盟に対しやたらと挑発的であったからだ。
カミューはとるものもとりあえず、たった今帰城したという青騎士たちの一行へと駆け付けた。城門の方が酷く騒がしく、カミューの他にも多くがそこへと物見高い顔で集まっている。
そしてカミューはそこにマイクロトフの姿を見付けた。
「マイクロトフ…―――」
だが、その名を呼び掛けてカミューは息を詰めた。
外の雨に打たれたのだろう。びっしょりと濡れた全身の、その騎士服の裾からは今もぽたぽたと滴を垂らしている。だがそれよりも。
穢れない真っ青だった騎士服は夥しいほどの血色に染められて黒ずみ、それと対照的に白い包帯が頭部と剥き出しの腕を包んでいる。だが何よりも印象的だったのは、中身の無い鞘だった。
「マイクロトフ」
「…カミュー」
歩み寄ったカミューに気付いたマイクロトフが、刹那泣きそうに顔を歪めた。だがそれは直ぐに、深く打ち沈んだ表情に消される。そうして伏せた眼差しがここではない何処かを見詰めながら、詩でも暗誦するような声で囁いた。
「人を切ったのは―――初めてじゃない」
「ああ」
「無抵抗の人間を切ったのは―――初めてだ」
「………」
「俺は、切れと命ぜられたから、切ったんだ。無抵抗の相手を、殺す為に」
「マイクロトフ」
抑揚の無い声にカミューがその肩を揺さぶって正面を向かせた。そうして視線を合わせたその黒い瞳は憤りに濡れていた。
「―――腹が立つ」
押し殺した声がそんな言葉を吐いた。
「今は、無性に……腹が…立つ……っ」
マイクロトフの奥歯が不快な音を立てて軋んで、それをカミューは神妙な面持ちで聞いた。何に怒りを覚えているのか聞かずとも漠然と知れる。
今にも爆発しそうだと、そんな事を考えたがここはあまりに人が多過ぎる。カミューはマイクロトフが下手な事を言わない内に何処かへ連れだそうかと思案を始めた。しかし意外にもマイクロトフは冷静だったらしい。
案じる表情のカミューに一瞥をくれ、それから肩を掴む手をそっと退けた。
「カミュー…おまえだけになら構わないだろう…」
一歩だけ傍に寄ってマイクロトフはカミューの肩に額を置いた。
濡れた髪が首筋に触れて、ぞくりと騎士服の下の肌が粟立ったような気がした。そんなカミューの耳に、肩口から掠れるような小さな声が響いた。
「俺が上官ならあんな命令はしない―――許さない……いつか必ず、ただしてやる」
絶対にだ、と囁いてマイクロトフはカミューから離れた。
そして間近で、マイクロトフの瞳を見つめた瞬間、時が止まった。
深い黒瞳は、今は燃えるように揺らめいている。
未だかつてないほどの野心を燃やして、彼はカミューを見透かしてずっと先を睨み付けているのだ。
それは、マイクロトフという騎士が初めて『力』を望んだ瞬間だった。
カミューは半ば呆然としてそんな男の独白を聞いていた。そしてふと自分の胸の中に灯った僅かな光のようなものに密かな驚きも覚えていた。
熱源のようなその熾りを胸に認めて、カミューは目の前に満身創痍で立つマイクロトフを改めて見つめ直す。そして感情が突き動かすままに微笑みを浮かべた。
それは、本当に極自然に口から滑り出ていた。
「おまえがそれを望むのなら、思うまま突き進め」
天啓のように脳裏に閃いたその意識によって、カミューは夢中に居るかのような心地で囁いた。対するマイクロトフはそんなカミューの僅かな変容に何か得体のしれない様子を感じ取ったのか、途端に常の朴訥な表情に立ち戻る。
「カミュー?」
途端に彼の瞳に宿っていた炎が色をなくすように消えていく。
しかしはっきりとマイクロトフの中に灯された光を感じたカミューは、大丈夫だと頷いた。
「何をそんな心配そうな声を出している。案ずるな、わたしはいつでも傍にいる―――」
まだ、仄かで頼りない光ではあるけれど、それは確かにカミューにとっての光明になり得た。意地や不屈が齎すものだけではない、確固たる意義がそこに顕れたようで、その魅力は瞬く間にカミューを取り込んだ。
だが、今はまだマイクロトフにはこんなカミューの気持ちは伝わらないだろう。進言するまでもなくひたすらに突き進むしかできない男なのだから。
暫くは空回りしそうだな、と密かに自嘲しながらも潜む愉快さに笑みを零しながらカミューは軽くなった心地で改めてマイクロトフの姿を見直し、そこで漸く顔を顰めた。
「マイクロトフ。傷の手当は済んで……いないようだな」
見たところ応急処置だけであるようだ。それに、中身の無い鞘も気になる。
「ダンスニーはどうした」
「城に戻るなり、砥ぎに出せと取り上げられた―――」
「そうか、それで心許無さそうな顔をしているのだな?」
からかうように呟けば、憮然とした表情が返る。どうやら図星だったらしい。先程の荒々しいまでの心情の吐露もそれゆえかとカミューは軽く瞳を眇めた。
「さっさと傷の処置をしに行ってその有り様をどうにかしろ」
「カミュー」
何やら酷く幼げな顔をしてマイクロトフはカミューを見る。そんな様子に苦笑を浮かべてカミューはその肩を押し出してやった。
「付いて来て欲しいなどと言うつもりでもあるまい」
「当たり前だ」
カミューの台詞に心外だと叫びそうな声でマイクロトフは身を翻す。そうしてそれきり、他の青騎士たちと混ざって回廊の奥へと去って行った。
その、今は血に汚れ惨憺たる様相ではある背を見送り、カミューはその唇に微かな微笑を乗せた。その瞬間に決意は固まる。
その背を―――守ろう。
マイクロトフが高みを望むのならば、自身もまたそこに並ぶ為の高みへと昇ろう。保身の為では無く、己の居場所を作る為にでは無く、マイクロトフがマイクロトフである為に。
その決意は、それまでカミューを縛めていた厭わしいなにがしかから、唐突にその身を解放する契機となった。それは驚くほどの変化としてカミューの精神を揺るがす。それまでただ自分のために望んでいた高みが、全く違うものに見え始めてきたのである。
傍目にはただ微笑を浮かべただけに映っただろう。
しかし。
この日この時。カミューの人生の中でそれはひどく劇的な出来事だった。
つまりはそれが、カミューという騎士がそれまで意識していなかった『力』を初めて望んだ瞬間でもあったのだった。
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騎士です騎士!
こういう彼らの内面をずっとずっと書きたかったんですが、本では加筆の部分(雨中の回想)を書き切れずに意味不明……。
今回書けてかなり気分が晴れました。
選んで投票して下さった方々のおかげです、有難うございます。
2004/03/10
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