Moonlight
不意に訪れたマイクロトフを少しばかりの緊張を見せながらもカミューは自室へと迎え入れてくれた。
訪れたカミューの部屋は何だか久しぶりで、少し前までは三日と開かずに通い詰めていた―――朝寝坊の友を叩き起こすために―――だけに余計に余所余所しく感じた。
後ろ手に扉を閉めながら、マイクロトフは室内を何気無く見回した。
そして気付いたのは、部屋が知っているそれよりも幾分か綺麗に片付けられていたことだった。普段なら机の上に書類か本の一冊もあり、寝台横には溶けっぱなしの蝋燭の残りや、床の隅には空きボトルが転がっているはずなのだ。
何処となくものぐさなカミューの部屋は、だからいつも何かしら転がっている。だが、今夜久しぶりに入った部屋は、まるで別の部屋のように整頓されているのだ。
掃除をしたばかりなのだろうか、と首を傾げながらマイクロトフは薦められた椅子に座る。
実はこの数日部屋を訪れないマイクロトフの真意を測りかねて、あまりにも落ち着けなかったカミューが、手持ち無沙汰に部屋のあらゆる箇所を整頓清掃していたなど、知る由もない。
そのカミューは、先ほどからマイクロトフの顔を見ない。
ずっと背を向けて一言二言、呟くだけだ。
「水―――いや、酒の方が良いかな」
「いらん」
マイクロトフはそれよりも座ってくれとカミューを手招いた。
「話がある」
「……分かった」
光の加減か、青褪めて見えるカミューの伏せた顔を見詰めて、マイクロトフは彼が椅子に座るのを待つ。
目の前で躊躇いがちに正面に腰かけ、カミューは椅子の背に深く凭れて静かにマイクロトフを見た。その、琥珀の瞳と確り目が合うのを確認すると、漸くマイクロトフはごくりと唾を飲み込んだ。
何事も最初が肝心だ。
とにかく、搦め手は得意ではない。
何を言うべきかは予め分かっているのだ。ただ一点だけ伝われば良い。
マイクロトフはそんなことをぐるぐると考えながら、自覚している以上に緊張している己を宥めながら、手に汗を握りこんで真剣な面持ちでカミューを見た。
そして。
「俺に抱かれてくれないだろうか」
たっぷりと、十秒くらいカミューは固まっていた。
その表情はマイクロトフの口から発せられた言葉の意味を理解しようとしているのか、確りと閉じられていた口は何も言わずに、瞳だけが雄弁に揺れている。
だが、ややもしてカミューが低い声で呟いた。
「―――なんだって……?」
必死で頭の中で言葉を理解しようとしたが、結局カミューはそう聞き返していた。
一週間だ。
あの夜から一週間ものあいだ、カミューはマイクロトフに放置されていたのである。
尤も、何事もなかったかのようにそれまでどおりに振舞われたら、それはそれで傷ついただろうし、また直後に大騒ぎされていても反発して閉め出していたかもしれない。
それでも、一週間もマイクロトフはカミューの前に姿も見せなければ、言付けのひとつも寄越さなかったのだ。
その間にカミューがどれ程「とうとう見捨てられたか」などと考えたかしれない。長い友情があの夜に終わってしまったのかと、呆然としたり、それとも今日か明日にでもマイクロトフが何かを言いに来るかもしれないと待っていたり。
気が付くと早朝に一人でぼんやりと目覚めて、結局また一日が過ぎていたのだなと脱力感と共に新しい憂鬱な一日を始めていたなどとは、きっとマイクロトフは知りもしないのだ。勿論、そんなカミューもマイクロトフが同僚たちに心配されるほど、異様なふぬけた日々を送っていたとは知らないのだが。
ともあれ、毎日絶望と後悔と憂鬱に苛まれていたカミューにとって、久しぶりに訪れたマイクロトフの『話』は緊張せずには聞いていられないものだった。
何とか早鐘を打つ鼓動を抑えながら、びくびくと彼が何を言うのかと待ち構えていたのだ。
それが。
―――この男はいったい、何を言った?
もう一度聞いたら理解できるかもしれない。いや、聞き間違いがあったのかもしれない。だったら頷ける。だがマイクロトフは一言一句同じ内容を繰り返した。
「俺に抱かれてくれないだろうか、カミュー」
名前まで付け加えられた以上、その言葉の対象人物は、この場には他に誰も居ないがカミュー自身に間違いが無いという事である。カミューは、これは何かの嘘だと叫んでこの部屋を飛び出したい欲求に駆られたが、なんとか耐えてマイクロトフを見詰めた。
マイクロトフの二つの瞳はいつも以上の真剣味を宿している。
そもそもマイクロトフと言う男は冗談とか嘘などを口にしない。誰よりもカミューがそれを知っている。人をからかったり偽ったり、カミューと違って一切そんな真似をしないどころか、そんな行為そのものを厭う。
だがそんなマイクロトフの人物像を知っていながらも、カミューはマイクロトフの言葉を額面通りに受け取る事は出来なかった。
悟った途端に、胸が締付けられるように痛んだ。
冷や汗が滲む。
動揺に表情の制御が出来ず、泣きそうに歪むのが自分で分かった。
カミューはマイクロトフの目を見ながら短く息を吸った。吸い込んだ息は冷た過ぎて、氷を飲んだように胸が冷えた。
「…何を、言っているつもりだ?」
声が震えた。
どうして、こんなことに。
やっぱり言わなければ良かったのだ。こんな想いを味わうとは、流石にカミューも予想していなかった。
やっぱりこの男はどこまでも、カミューの慮外をいく。
その男は戸惑いがちに瞬いて顔を歪めているカミューを見ていた。
「カミュー」
カミューは再び息を吸い込むと、震える唇をなんとか思う通りに動かして言った。
「このあいだわたしがおまえに言った言葉は忘れてくれと頼んだ筈だ。例え忘れられなくても、こんな風に、蒸し返すなんて―――」
どうしても声が震えた。
とても信じられるような状況ではなかった。マイクロトフが何を考えてこんな言葉を言ったのかは分からない。ただ、愛情からではないのは確実だ。彼は、女性しか愛せない。
最初から分かっているのに。分かっていたのに。
「わたしは、おかしい。そんな事は分かっている。でも、誇りも信念もある騎士だよ。人並の人格や感情がある」
「カミュー?」
「いったい何を言ったつもりなんだ? おまえは、わたしを何だと思っている?」
マイクロトフの温もりが欲しいと言った。それは願いだった。
だが、無情に与えられても意味のないものだった。
「慰めや同情は要らない―――こんなことを、わざわざ言わなければならないのか」
「違う、カミュー」
「何が違うんだ? こんなわたしを、抱いてくれると言ったんだろう?」
こんな虚しい想いを味わうのなら、あの時にあんなことを言うべきではなかった。いくら精神的に疲れ、弱っていても決して口にするべきではなかったのだ。しかし一度言ってしまった言葉はもう引っ込められない、後悔しても遅いだけだ。
「わたしがそう願っているから、それを叶えてくれると……」
心がぼろぼろだった。泣きたいのか怒りたいのか分からない。疲弊しすぎて思考が麻痺しそうだった。だが、そこにマイクロトフの強い声が不意に響いた。
「違うと言っているだろうカミュー」
少し怒っているような声だった。顔を上げれば相変わらずの迷いの無い真摯な眼差しがカミューを見詰めている。
「間違えるな。俺はおまえに抱かれてくれないかと聞いたんだ。俺がカミューを抱きたいんだ。抱かせて欲しいんだ」
カミューは口早に言うマイクロトフを見詰めた。何が、どう違うというのだろう。そんな態度にマイクロトフは「だからな」と身を乗り出した。
「同情などではない。俺はカミューとそう言うことがしたいと思ったんだ。だが男同士だから女性を相手にするのとは違うだろう。なのに、俺はカミューを女性を相手にするようにしか考えられないんだ」
「……わたしは女性の代役か?」
「だから違う!」
ぽつりと言った言葉にマイクロトフは怒鳴り返して否定した。
「他の誰かの代役でもなく、ましてや同情なんかでもない。俺はカミューに欲情してるんだ。欲しくて服を剥いでむちゃくちゃに抱きたいんだ!」
一息に言い切り肩で息をして、そしてマイクロトフは突然顔を真っ赤に染めた。
「…カミューがおかしいのなら、俺もおかしいんだろう―――そう言うことだ」
ぼそりとそう言ってマイクロトフは俯いた。その耳までも赤い。
カミューはそんな男の様子に呆気に取られていた。マイクロトフが怒鳴るのはいつもの事だが、禁欲的な言動に反するような、こんな発言をするのは初めて聞いた。
―――欲しくて服を剥いでむちゃくちゃに抱き―――……。
胸の内で反芻した途端カミューは目を剥いて椅子から立ち上がっていた。
叫びそうになるのを、口元を掌で覆って防ぎながら信じられない目でマイクロトフを見下ろした。
「マ…マイクロトフ?」
さっき以上に混乱して思考の収拾がつかない。今度こそ、この男はいったい何を言った?
いや今度は聞き返せない。とてもではないが信じられないような事を確り聞いたのだ。二度も同じ事を聞いたら卒倒する。だが。
「何故だ?」
それでもカミューは聞いていた。
「何故そんな……どうして………」
するとマイクロトフは若干治まったものの、やはり赤い顔のままでカミューを憮然と見上げてきた。
「おまえがそれを聞くのか? カミューは忘れろと言ったが、あんな事を言われて気になら無い方がどうかしているぞ。おかげで俺は昼も夜もカミューの事ばかり考えてしまって、気付いたらいつの間にかカミューの事しか考えられなくなった」
「でも、だからと言ってそんな」
「だから、俺もおかしいんだろう。どうしてそこに結びついたのかはもう説明のつけようがない。欲情してしまったものはしてしまったんだからな」
そうしてカミューを見詰める瞳にいつの間にか宿る情熱の翳りを見て、今度はカミューが顔を赤くする番だった。
「どうして……」
困ったような今にも泣き出しそうな顔でカミューはまた言う。するとマイクロトフは首を傾け赤い顔のカミューを見て少し目を細めた。
「だったら聞くが、カミュー。おまえはどうして俺を?」
「それは―――」
「他に、誰だっていた筈だ。おまえを好いてくれる女性など大勢いるだろうに、何故この俺なんだ」
「それは、マイクロトフだからだ。他に理由など無い。マイクロトフだから、それだけなんだ」
項垂れてカミューは言った。するとマイクロトフも立ち上がり、そんなカミューの頬に触れて顔を上げるように促す。そうして正面に見たマイクロトフは穏やかに微笑んでいた。
「俺もだカミュー」
優しい声が耳に触れる。
「つまらない理由などない。カミューだからなんだと思うぞ。他の誰でもなく、カミューだから俺はこんなにも考えて悩んで、そして辿り着いた」
いつの間にか、身長はマイクロトフの方が高くなっている。こうして至近距離に立てば自然とカミューの方が顎を上げて見上げなくてはならなくなる。その頬をマイクロトフの手が支えた。
「なぁカミュー、キスしても良いか?」
そんな低いマイクロトフの声に、カミューが震えた。
「……マイクロトフ」
ゆらゆらと揺れる琥珀の瞳と、奥深い黒い瞳が今までにないほど近くなる。だが寸前カミューの手がマイクロトフの胸を押さえて阻んだ。
「カミュー?」
琥珀の瞳に不安が渦巻く。カミューは自分の鼓動が大き過ぎて頭がぼうっとしていたが、それでもこれだけは省けないと思ったのだ。
「その前に、頼む。ちゃんと言って聞かせてくれ、おまえはわたしを―――」
「好きだぞ」
時間が止まったような気がした。
見開いたカミューの瞳が戸惑うように二、三度瞬き、窺うようにそろりとマイクロトフを見た。それを逸らさずに見詰めてマイクロトフはなおも言った。
「愛している。カミューだけだ」
その時、ふっと黒い瞳が微笑んだように見えた。だが次の瞬間には唇を合わせられていて近すぎる視界から何も見取れる事が出来なくなった。
カミューが瞳を閉じると、口付けが更に深くなる。
いつの間にか腰に回されていたマイクロトフのもう一方の手が、もっと近くにとカミューの身体を抱き寄せる。カミューの両手も、いつしかそんなマイクロトフから離れ難いと言わんばかりにその広い背に回されていた。
そして長い口付けが漸く解かれた時、カミューはマイクロトフの首筋に顔を埋めながら呟いたのだった。
「ありがとうマイクロトフ。わたしも、おまえを―――」
マイクロトフは「ああ」と答えてカミューをまた強く抱き寄せた。そして互いに顔を見ないまま、マイクロトフはぼそりと口にした。
「それで、カミュー、さっき俺が言ったことだがな」
「………」
「俺に抱かれてくれないだろうか、という……」
カミューの身体が強張ったのを、マイクロトフはありありと感じとっていた。やはり、そこは抵抗があるだろうとは思っていたが、これほど顕著だと些か二の足を踏む。
「無理にとは言わんのだが―――やはり受け入れ難いよな………」
だが不意に、背に回されていたカミューの両手が、グイとばかりにマイクロトフを強く抱き締めた。そして小さな声がした。
「……い………から………」
「ん?」
聞き取れず、思わず聞き返すとがばりとカミューが顔を上げた。その顔はやはり赤く染まっていて、しかも睨み付けるような眼差しであった。
「良いから、マイクロトフ。抱いてくれないか」
「カミュー」
「おまえがそうしたいのならわたしに拒否する理由はない」
「しかし……」
逆にうろたえるマイクロトフをカミューは強く睨んだ。
「女性の代役ではないのだろう?」
「当然だ!」
間髪入れずに返すと、ふわりとカミューの表情が和らぎ、微笑みが彩った。
「だったら良い」
そっとカミューがまたマイクロトフの首筋に顔を埋める。
「わたし自身を求めてくれるのなら、それで、良い」
「カミュー……」
込みあげる愛しさにマイクロトフはカミューの髪に口付けた。
「うん、愛しているからカミュー……おまえを抱かせてくれ」
「良いよ…マイクロトフ」
密やかな応答は、夜の帳に吸い込まれるようにして消えた。
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告白話は大好きです。
もう読みながら一緒になってドキドキしたりきゃあきゃあしたり。
でも自分で書いた告白話を読みながら書きなおす作業は、とんでもなく恥ずかしいものだと今更実感……たすけてぇ。
2004/04/21
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