つきたちの花


 執務を終えたあと、部屋でじっとしていては気が滅入る一方だったため、カミューは恋人である歌姫の許を訪れた。だがそんな青年を迎えたのは、暖かな湯気の立つスープだった。
 カミューを部屋に迎え入れた彼女は、青年の手を取り食卓に有無を言わさず座らせた。そして「さぁお食べなさい」とスプーンを握らせる。
 年上の恋人には逆らわない方が良いと心得ているカミューは、「いただきましょう」とそれを口に運んだ。途端に喉を滑り落ちるその感触に、肌が粟立つ。そう言えば、ここ数日まともに食事をしていないなと思い出した。
「ゆっくりお食べなさい、カミュー」
 母のような慈愛を与えてくれる彼女。時間をかけてスープの器を明けたカミューは、そんな彼女の柔らかな優しさに気付いた。
「それほど……目に見えて弱っていましたか?」
「ええ、放って置けないほどにね」
 それに、と空になった器を掬い上げ、彼女はテーブルを片付ける。
「どうやら私、このくらいしかあなたの力になれないみたいだし」
「……え?」
「五日目で漸く私の事を思い出してくれたのでしょう? 私はずっとここにいて、あなたが来てくれるのを待っていたのに」
 薄情な人、と笑う彼女の目はだが真剣で。突然笑みを途切らせると、そろりと指先を伸ばしてきた。
「あなたの周りは役立たずばかりね。こんなに青い顔をして――― 一目で何も食べてないんだろうって分かるのに。どうせ、まともに寝てもいないんでしょう?」
「ご慧眼ですね、フィーナ」
 歌姫フィーナの語る言葉は、ゆっくりとしていて耳に染み渡り、つい素直に弱音が出てしまう。
「あら、分かるわよ」
 艶のある声音が心外だわ、と囁いてカミューの髪を子供のそれのように撫でた。
「ぼんくらな騎士さんとは見る目が違うもの―――少し痩せたわね?」
「そう言えば、身体が軽いですね」
「もう、いい加減ね」
「いた…」
 少しこけた頬を軽く抓ってフィーナは離れた。
「きちんと食べたら後は寝なさい。なんなら手を握って子守唄を歌ってあげるわ」
「フィーナ?」
 彼女は、振り返ると不思議そうな顔をして見上げるカミューに、すこし哀しい顔をして微笑んだ。
「私、この五日の間で開き直ったのよ。だから、素直に言う事を聞きなさい」
 カミューはそんな恋人の言葉を、目を瞬かせ逡巡すると、直ぐに微笑み返して頷いた。
「ロックアックスいちの歌姫の子守唄を聞いて……眠らぬ男はいませんね」

 フィーナのベッドに寝るよう促されて、カミューはそれに逆らわず静かに身を横たえた。すると肩まで毛布をかけられて、ぽんぽんとあやすように叩かれる。
「お眠りなさい」
 優しい声に、カミューは薄く微笑む。そんな青年の手をやんわりと握ってフィーナは首を傾げた。
「子守唄は何が良いかしら」
「本当に歌を?」
「ええ、勿論よ」
 何かご希望はあって? と問う歌姫に、カミューは瞬く。
「あぁ、フィーナ」
「なぁに?」
「『つきたちの花』という歌を知っていますか? 南方の民俗唄らしいのですが」
「ごめんなさい、知らないわ。―――何か特別な歌?」
「いえ……そうですか」
 知らないのなら良いんです、とカミューは目を閉じた。
 そしてそれきり静かな寝息をたてはじめたカミューのために、フィーナは囁くような歌声で、古くから歌い継がれている子守唄を口ずさみ始めた。低い掠れるようなそれは、まるで母のそれのように優しい歌声だった。



 疲れた顔をして眠るカミューの目蓋に唇を落として、フィーナはずっと気になっていた青年の手の甲に視線を落とした。青黒い痣が痛々しい。
「……困った人ね」
 呟くと、歌姫は痣を冷やす濡れ布を用意する為に立ち上がった。だが呼吸を止めて振り返って、カミューの寝顔をじっと見つめる。
「こっちが母の心境になった途端、子供みたいな寝顔をして……」
 フィーナの心情変化を敏感に感じ取ったのだろう。安心しきった顔をして眠る“かつて”の恋人。
「もう、未練もないわ」
 呆れた顔で溜め息をついてから、フィーナはえい、と再びカミューの頬を軽く抓る。だが深い眠りに入ったカミューが、それで目覚めることは無かった。



 夢の情景のなか、浮かび上がった赤い花が揺れている。
 大きな白手袋に埋もれていた小さな赤い花の束。
『なぁ、カミュー。俺が花束を持っていたら可笑しいか?』
 記憶に鮮明な、不本意そうに眉を寄せていたマイクロトフの顔と、憮然とした声。
『何故そう思うんだ?』
 誰かにからかわれたのだろうと見当は付いた。だがつい、それを聞き出してやりたいと言う意地悪い気分が頭をもたげるカミューだった。
『部下がな、謝るんだ。知っているだろう? あの無愛想な奴らが俺とこの花束を見た途端に顔を逸らせて笑いを堪えてな、申し訳ありませんと―――こうだ』
 カミューも笑いを堪えられなかった。
『ほ、本当かそれは』
 吹き出して盛大に笑うカミューに、マイクロトフも笑みを浮かべた。
『そんなに笑うな』
『すまないマイクロトフ。いや、彼らはおまえが微笑ましくて笑ったんだろうな。決して滑稽だから笑ったんじゃないと思う』
『滑稽…っておまえ。ひどいなカミュー』
 口調は拗ねていても、笑うカミューを見てマイクロトフも穏やかに微笑んでいる。
 その表情が今思い返してみると、どこか切なそうな笑顔に見えた。

 ―――何故かな。

 声だっていつもの低い張りのあるものに笑いを含んだ、穏やかなものだった。
 なのに、どうして今はその声すらも切なく聞こえるのだろう。

 ―――いないから、かな……。

 たった数日間なのに、久しく見ていない気がするマイクロトフの笑顔。
 記憶の中で見るものは、どうしてもその時の感情に左右されるものだから、だから思い出されたマイクロトフのそれは哀しげなのだろうか。

 ―――かなしい。

 マイクロトフの不在は哀しい。
 眠りの中、カミューは唐突に自覚した。
 途端、急速に夢の世界が遠ざかっていく。

「あら、起きたのね」
「フィーナ…」
 薄暗い寝室の僅かな明かりの傍で、フィーナが読んでいたらしい本を閉じた。
「良く寝ていたけど―――どうかしたの?」
 起き上がりベッドから降りるカミューに、フィーナが驚いた声をあげる。
「…城に戻ります」
「今、真夜中だけど……関係ないみたいね」
 小さく笑ってフィーナは「慌てないのよ」と先に寝室を出ると、落していた明かりに火を灯す。ぼんやりと室内が浮かび上がり、危なげだった足許がよく見えるようになると、歩を進めカミューはフィーナの後ろ姿に呼びかけた。
「フィーナ」
「なあに?」
 振り向いた彼女の表情は、灯火を背後にしているために良く見えない。
「全てが終われば、わたしはあなたに話をしなければならない」
「………」
「だが今は―――」
 その先を言いよどむカミューから、フィーナはふいと背を向けた。
「良いのよ。私もう待つのは慣れっこだもの。早くお帰りなさいな」
 艶のある声に、カミューは項垂れた。
「…ありがとうございます」
 青年のくぐもったような声に、顔だけ振り向けたフィーナの眼差しは優しげな微笑みに細められていた。だがカミューはそれを見る事もなく颯爽と身を翻すと、暗い夜の通りへと出て行ってしまった。その後ろ姿を一瞬だけ見送り、フィーナは扉を閉じて奥の寝室へと戻る。
「もう…慣れてしまったわ」
 歌姫は呟くと、まだ青年の温もりが残るシーツに身を横たえ頬を寄せた。

「私じゃ、あの人にあんな顔をさせられないものね」

 囁きは一筋の流れと一緒にシーツへと吸い込まれていった。


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飛ぶ豚が好き…だから歌姫のモデルはあの女性
しかし赤…女泣かせ以前にひでえ奴…

2000/07/11

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