つきたちの花


 マイクロトフには時として人を威圧し畏れさせる迫力がある。それは彼の友人として長く親しみを深めてきたカミューとて例外ではなかった。怒りにとらわれ身を震わせるマイクロトフを見て何度息をつめたか知れない。だがそれは決して弱者が強者に感じるそれではなく、今のように全く声も出ないほどの怯えを導くものではなかった。
 そう、今カミューは声が出なかった。
 見えない糸が幾重にも喉に絡んだように声が出ない。それどころかマイクロトフから放たれる迫力に、恐れと戸惑いを感じて呼吸さえもままならないように思えた。
 マイクロトフは、こんな男だったろうか。
 たった数日間離れていただけだった。その間にマイクロトフの安否を思い、そして自身に潜む不確かな想いを自覚したカミュー。そして無事を知ってから思い知らされたマイクロトフが自分に向けていた想いの強さ。
 何かがカミューの中で変わったのは確かだ。それは何かしらカミューがマイクロトフを見る目に変化をもたらしただろう。だが今感じる相違は、それだけだとは判じ難かった。
 違う。
 未だかつて、こんな近距離でマイクロトフの瞳を覗き見る事は無かった。ましてや髪を撫で梳かれるなど、あろうはずも無い。それにしても、カミューの胸を叩き続ける違和感は強い。
 マイクロトフはこんな目をしていたか。こんな声を出していたか。こんな触れ方をしてきたか。
 答えは全て否であった。
「マイクロトフ」
 どうした、と聞かれた。それに辛うじて応えた言葉は、単に名を呼ぶだけで、まるで他の言葉が浮かばない。どうしたと聞きたいのはこちらの方だと、カミューはマイクロトフの視線から一時逃れるように目を瞑った。
 遮断された視界に救われて、カミューは深い吐息をつく。するとマイクロトフが触れてくる部位だけに、妙に痺れるような熱さを感じてならなかった。
 再び目を開くとやはりそこにあるマイクロトフの昏い瞳を見る。カミューは薄く唇を開くと、喉の渇きをおして無理に声を出した。
「マイクロトフ、手を、離してくれ」
 この言葉は果たして相手の耳に届いただろうか。そんな事を思う間もなく、髪を撫でていたマイクロトフの手がぴたと止まった。
「なぜだ」
 低い声の応えにカミューは軽く溜め息を吐き出した。
「痛い」
 既に塞き止められた血流のために、指先が痺れて冷えてきている。するとふわりと手が離れた。瞬間どっと汗が噴出してカミューを支配していた緊張が解ける。
「すまなかったカミュー」
「いや…寝惚けたのか?」
 何となく足許から這い登ってくるような気持ちの悪さを振り払うように、カミューは茶化すように聞いてみた。
「寝惚けたわけではない。が、ついおまえがおまえなのかと……そうだな恐らく確認したかったんだろう」
「…どう言う意味だ?」
 聞きながらそろりとベッドに手をついて身を起こすと、カミューは暗い部屋の中立ち上がった。
「言ったろう。妖花はおまえに化けたんだ。それも瓜二つに。見ただけでは―――ましてやこんな暗ければ分からない」
「わたしが妖花だとでも思ったのか?」
 痺れる手首に指を絡めてカミューは俯く。
「起こして驚かせたのはすまなかったが、わたしは間違いなくわたしだ」
「ああそうだな。今おまえに触れてそれは分かった」
 マイクロトフの低い声が耳朶にまつわり、俯いたままカミューは眉根を寄せた。
「カミューの方が冷たい。妖花は熱くも冷たくもなかったからな。やはり結局は魔性のものだ。本人とは、人とは違う」
 薄闇にしんとマイクロトフの声が落ちた。その声音に微かな嘲笑を感じるのはカミューの気のせいだろうか。
 なにやら疲れ果て、声を出すのも億劫に感じ、カミューはさっと踵を返すと部屋の中を探って新しい蝋に火を灯した。じわりとした仄かな揺らめきが室内を照らし出す。目線だけ振り返るとマイクロトフもベッドの寝具を退けて起き上がっていた。そしてその手がベッドの上に散った赤い花弁を寄せ集めている。しかし集めたそれは直ぐ脇の屑篭へと入れられてしまった。
「……」
 それを見たカミューの胸に落ちた痛みは、あまりに冷たく重く、やはりカミューから言葉を奪い去る。ただ微かに溜まった唾液を嚥下して無言で俯くが、直ぐにマイクロトフの身じろぎする気配を感じて息を飲んだ。
「カミュー」
 静かに呼びかけられて、緩々と顔を上げると目が合ったマイクロトフがベッドから立ち上がった。
「世話をかけたようだ。おまえのベッドを占領してすまなかった」
「…いや。少しは楽になったか?」
 訊ねながらもつい視線を逸らしてしまう自身に気付いて、カミューは誤魔化すように火を灯したばかりの蝋を取り上げると、壁に設えられているランプにも火を移した。一瞬後に灯油を吸い上げて煌煌と輝き出した安定のある燭光に、室内は益々明るくなる。それにつれて気が軽くなる己をカミューは不意に自覚した。
 闇を恐れたことなど一度たりと無かったのに。
 眉をひそめて息を詰めた。だがそんな憂慮を振り払うように前髪を掻き揚げるともう一度マイクロトフを見た。
「戻れるようなら、おまえの部屋に戻るといい。医師は無理のし過ぎだと言っていたから、大人しく休め」
「ああ」
 マイクロトフは軽く頷くと、傍にあった自分の上着を取り上げた。そして慎重な足運びでやってくる。
「言う通り部屋で大人しく休養する事にしよう」
 世話になった。と言いカミューの横を通り過ぎると扉に手をかけ、それを開く。しかしそこをくぐり抜けるその刹那。
「また明日―――」
 呟きにカミューが振り向いた時にはもう、扉は閉じられていた。



 それから数日。マイクロトフは訓練の指導や執務に携わっていたが、それも決して無理はせず大人しくしていた。以前のマイクロトフと比べればそれはいっそ不気味なほど静かであった。しかし大抵の者がそれを不調からによるものだろうと判断していた。カミューを除いて。
 マイクロトフという男は、例え不調であってもそれをおして騎士たる役目を果たそうとする男だ。大声を張り上げず、城内を猛進の如く駆けず、ただひたすら安静に歩くか座るかしているマイクロトフの姿など、異様とさえ思えるカミューだった。
 しかしそんなまやかしのような日々も、ほんの数日に限られた事だった。

 丸一日の休暇が取れた日のことだった。定期的に鍛えに出しているユーライアを、先日馴染みの鍛冶職人に手渡したのがもう仕上がっていると聞き、カミューは朝から城下の街へと赴くため、城内を私服で正門へ向かって歩いていたところだった。
「カミュー」
 唐突に降ってきた声に視線を巡らせると、傍らの階段の上にマイクロトフがいた。そしてカツンと足音を響かせてカミューの許へ下りて来る。
「街へ行くのか?」
 問うてくる声に「ああ」と微笑む。
「察しが良いな」
 肩を竦めて答えると、不意にマイクロトフの視線が逸れた。そのらしくない態度に笑みを引っ込めたカミューは「おい?」と声をかける。だが横顔を向けたマイクロトフはどこか暗い表情で黙り込んでいる。
「なんなんだ、マイクロトフ」
 まさかまた具合が悪くなったのかと、胸にひやりとしたものを感じた刹那、不意にマイクロトフが思いもかけない言葉を吐き出した。
「あの女性の所に行くつもりか」
 忍びやかな険のあるマイクロトフの声。だが良く耳を澄ませばそれが押し殺したゆえの声なのだと、それを聞きなれたカミューには判断がついた。だが何故マイクロトフがそんな声を出すのか分からない。だいたい女性とは誰のことだ。
 そうして首を傾げたカミューに、ちらりとマイクロトフが一瞥をよこした。
「帰城の日に、馬車の窓から見えた。おまえに寄り添うように立っていたのは確か今のおまえの恋人だろう」
「…フィーナの事か? 彼女は―――」
「ああ、そんな名だったかな。おまえは相手を良く変えるから覚えるのに苦労する」
 カミューの言葉尻を取ったマイクロトフの声に薄い笑いが重なる。そして、言葉を切った男の眼差しがカミューを見た。
「今度はどんな生業の女性だったか。確か以前はどこぞの令嬢だった筈だが、遠目にはそう上品な出で立ちでは無かったな」
 暗にフィーナを見下すような響きを感じてカミューはわずかに目を眇めた。フィーナは屋敷の奥に畏まる世間知らずの令嬢と、その身分や生活を比べてみて良いような女性ではない。何よりもマイクロトフ探索に貴重な情報を寄せてくれたのは彼女自身だというのに。
「彼女はこのロックアックスでは一、二を競う見事な歌姫だよ。それにマイクロトフ…何を誤解しているのか知らないが、彼女はとても尊敬できる人物だ。実際おまえが行方不明の間色々と力を貸してくれたんだぞ」
 やや強い口調でそうフィーナを庇護したカミューだった。しかし、それは結果的にマイクロトフの心象をより悪くしたらしかった。
「色々と、か。なるほどカミュー。おまえが女性に心を砕くのは今にはじまったことでは無かったな」
「…なっ……マイクロトフ!」
「何を気色ばむ事がある。実際、俺の帰城の日にもおまえはああして変わらず足繁く女性の許を訪れていた」
「あれは―――」
「とても親密そうに寄り添っていたように見えた。今更隠す必要などないだろう。そうだな、そんなところを引き止めて悪かった。早く彼女の許へ行くと良い」
 そして、今しがたおりてきたばかりの階段を、再びのぼろうとするマイクロトフの背を、カミューは信じられないものを見る目で見た。しかしこのままではいけないと、心のどこかで鳴り響く警鐘に突き動かされるようにカミューは手を伸ばしていた。
 衝動のままにその青い服の一部を掴む。すると、抵抗を感じてかマイクロトフは振り返り、カミューの顔を見て動きを止めた。
「カミュー……」
「街へは明日行くことにするよ。それよりもマイクロトフ、わたしがどれだけおまえの不在を気に病んだか、それを教えてやりたいね」
 色を濃くしたカミューの琥珀の瞳が、マイクロトフの視線を受けて淡く揺らいだのだった。



 だが実際に立ち戻った自室にマイクロトフと二人きりになると、どうにも居心地の悪さを感じてしまうカミューだった。だいたい行方不明の間いかに心配し胸を痛め心をすり減らしたかなど、ここで敢えて語るのも気恥ずかしく妙なものだ。
「だいたい誤解も良い所だ。わたしはただ剣を取りに行こうとしただけなんだけどね」
 苦々しく呟きながらちらりとマイクロトフをうかがうが、卓を挟んで向かい合って座ったまま、ひと言も発しようとはしない。自然と、直ぐに沈黙に支配される室内だった。以前はマイクロトフとならば言葉を交わしても交わさなくても居心地良かった筈が、今はひどく重苦しい。なんとかこの停滞する嫌な空気を取り払いたかった。
 そうして言葉を探していると、やにわにフィーナの事が思い出された。マイクロトフ不在の間、彼女がどれだけカミューの心を和ませてくれたか知れない。もう、恋人とは呼べない相手だが、彼女を庇うのになんの躊躇いも無いカミューだった。
「フィーナのことだが……」
 呟くとぴくりとマイクロトフの肩が震えた。それを目の端でとらえながら、カミューは言葉を続けた。
「青騎士団の方に事実は伝えていないから、おまえが知らなくとも無理は無いが、おまえの居所をあの村かも知れないとつき止めたのは、彼女の、フィーナのもたらした情報があったからだ」
「………」
「それに彼女はあの歌をわざわざ歌って聞か…―――」
 自分で口にした言葉に、胸を抉られたカミューだった。記憶の底から鮮やかだった赤い花弁が蘇り、声が詰まって肩が震える。と、そこへマイクロトフの低い呟きが届いた。
「歌だと?」
 顔を上げると不審そうに首を傾げる男の姿がある。
 ―――何故、と感じた。
 いくら人の心の機微に疎くとも、日常のそうしたカミューとのやり取りを失念するようなマイクロトフでは無かった。
 そうして今更ながら握り潰された花束の事が思い出される。
 花に、妖花によって散々な目に合わされたとはいえ、それを握り潰してのち、なんの弁明も無いとはらしくない。あの時はあまりの驚きに問い掛けられずにいたカミューだったが、今こそそれを聞く時だと心を決めた。
 ごくりと唾液を嚥下すると、唐突に汗が滲み出た。
「マイクロトフ。何故あの花を握り潰したんだ。何故…捨てたんだ」
 言葉にすると、否応無く花にたいして抱いていた愛惜が込み上げた。同時に花を見るたび積み重ねた自らの想いの行き所を失くした気にもなる。惑って、そこに何らかの救いを見つけたくてそろりとマイクロトフの目を見た。しかし―――。
 返された眼差しと言葉にはなんの救いも無かった。
「あの、忌々しい赤い花か。悪いがその話をしたくは無い。思い出しただけであの妖花を思い出すんだ」
「…そ、うなのか―――」
 忌々しいと言うのか。そう胸の中で繰り返し、更に気落ちする自身に気付いてカミューは自嘲の笑みを浮かべた。これではまるで慕う相手の言葉に一喜一憂する若い娘か少年ではないか。たかが花如きとどうして割り切れないのか。
「…たかが」
 呟いてカミューは痛みを覚えたかのように顔をしかめた。そして唇を噛むと拳を握り締めた。

 ―――違うだろう。

「たかが…などと―――そんなものではなかった」
 震える声で、自らに言い聞かせるようにカミューは言った。当然、それは相対するマイクロトフの耳にも届く。
「なんの事だ」
 問われてカミューは軽く瞑目すると、ゆるりと息を吐き出した。
「『つきたちの花』の事だ。忘れたとは言わないでくれ。他の誰でもない、おまえがそれをわたしに託したのだからね」
 そうして目を瞑るとフィーナの深い歌声が蘇る。そして赤い花束とマイクロトフの笑顔と声。明らかに今目の前にいる同一人物のそれとは思えない、穏やかでどこか寂しげなもの。
 忘れて良いものでは無いはずだ。有耶無耶に、なし崩しに無かった事に出来るようなものでは無い。
「おまえがそれをわたしに語って聞かせ、そして約束を残したものだったじゃないか。戻るまで枯れさせないでくれと、そう言ったのに、おまえはそれをその手で握り潰してしまった。何故だ? マイクロトフ」
 たかが花如き、などと決して言えはしない。
 あの花は束の間、マイクロトフとカミューを繋ぐ唯一のよすがだった。カミューにとって、ただの花束ではなかったのだ。そしてマイクロトフにとっても、ああして捨ててしまって良い花では決して無かったはずだ。
「妖花との遭遇は確かに歓迎すべきものではないだろう。忌々しい出来事なのかもしれない。だが思い出してくれ、妖花と出会う前、おまえはどうだった?」
「妖花と、出会う前」
 漸く問い掛けに答えた呟きはどこか虚ろだった。何かを思い出しているのか、焦点の合わない眼が何度かカミューの瞳を行き過ぎる。それが、大きな手によって塞がれた。
 マイクロトフはそうして顔を片手で覆って暫らく、彫像のように固まって動かなくなった。

 ところが不意に機械仕掛けのような動作で顔から手を離すと、マイクロトフはじっとカミューを凝視した。そして一度だけ瞬く。
「妖花と出会う前の俺は……愚かな真似を繰り返していた」
 ぼんやりと告げる男の目はどこか虚ろだ。
 そこに先日の怖気を覚えたものと同質のものを感じてカミューは眉をひそめた。
「マイクロトフ?」
 しかしカミューを見詰めるマイクロトフの、その身体から発せられ始めた空気はどんどんと濃さを増していく。
「叶わぬ夢なのだと、自ら限界を作って狭い檻の中で愚かな夢想に身を浸していた」
 がたりと卓を押し退けマイクロトフの脚がカミューの方へと進み出る。その手が、気付けば間合いに入り込んでカミューの髪へと伸びた。
「ほら。こんなにも容易かった。俺は…何を怯えていたと言うんだ」
 指が、髪に絡んで僅かに引っ張る。
「こんなに……!」
 押し殺した叫びと共に髪ごと頭部を引かれ、カミューはマイクロトフの腕の中へと抱きこまれた。
「ちょ、マイクロトフ!」
 慌てて押し戻そうと伸ばしたその手さえ、もう一方の手で絡め取られ抱きこまれる。そしてカミューは項に熱いほどのマイクロトフの吐息を感じて身を強張らせた。
「これほど身近にあったというのにな。自律する事こそ正しいのだと信じていた」
 自嘲の響きがカミューの背筋に震えをおこす。
「…マ―――」
 引き攣るような声はだが、間近に迫ったマイクロトフの唇によって遮られた。

 気付けば、カミューはすっかり全身をマイクロトフにとらわれていたのだった。そんな現状にただ愕然としてカミューは力づくで唇を合わせてくるマイクロトフの顔を引き離した。
「―――マ、イクロトフっ…!」
 しかし、マイクロトフはカミューの腕を捕らえたその手を離すどころか、握り込まれた髪ごと頭をその肩に抱え寄せられ、一層強く深く抱き締めてきた。
「カミュー……俺は、ずっとおまえに触れたいと思っていたんだ」
 痛いほど強く抱き締められながらそんな言葉を聞き、カミューはたまらず目を閉じた。
「離せマイクロトフ」
「何故だ」
「……っ…」
 瞬間的に言葉に詰まった時、掬い上げられるようにつま先が浮いた。ハッとして目を開けると横倒しに床の上に押し倒されている。そのカミューの顎をマイクロトフの手がとらえた。
「こうして漸くおまえに存分に触れていられるのに、何故それを離さなくてはならんのだ?」
 かかる息にうぶげが総毛だつような感覚を受けて、カミューは目を見開いた。
「やっと本物のおまえに、生きて出会えたというのに」

 ―――生きて。

 その言葉がカミューの中の何かに触れた。刹那、マイクロトフのいない間に感じた焦燥感や喪失感を思い出して、指先までが凍るように強張った。
 そんなカミューの反応をどう感じたのか、マイクロトフはそれから無言で再び唇を合わせてきた。
 暫らく、濡れた音が室内を這う。そしてそろそろと息が上がってきた頃に漸くマイクロトフはその身を離した。そして酷く穏やかに微笑んで見せると、顎を掴んでいた手でそっとカミューの白い頬を撫でた。
「………やはり違うな。安心した。おまえが、俺の愛した本物のカミューだ」
 低く告げられた言葉の裏に妖花の影を見つけて、カミューは何故だか哀しさを覚えた。
 そして次に、ああそうか、と納得する。

 深く確かめるような口付けは、だから確認の作業だったのだと。
 マイクロトフが妖花に受けたそれが、どれほどの苦難だったかはカミューが理解することなど一生無いだろう。だが、その苦難がマイクロトフにもたらした影はこうして見ることが出来る。
 妖花はカミューに化けてマイクロトフを惑わせたと聞いた。それは事実なのだろう。それによってマイクロトフが感じたものは怒りだったらしいが、果たしてそれだけだったのか。どこまでもカミューには窺い知れないことばかりだった。

 そうして、再び落ちてきた濡れた唇を、カミューはぼんやりと受け止めた。
 未だ、強く握り込まれたままの手が痛い。先ほど押し戻そうとしたきり動かせなくなったその手は、確か甲に淡い痣の痕が残っていた方だ。その痛みなどとっくに消え失せている筈なのに、何故かその部位がぼんやりと疼いた。
 刹那、胸の奥底から込み上げた感情にカミューは強く目を閉じた。

 濡れた口付けに相反するように、心がどんどんと渇いていく。
 変化してしまった互いの心の行き先はどこなのだろうと、カミューは遮られた視界の中をあてどなく探すのだった。


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2000/08/24

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