日が暮れて漸くカミューは解放された。その際のマイクロトフの言葉が「腹が減った」などというものだったから、カミューは笑おうとしたが、結局失敗した。
斜陽も消え失せ、部屋の中はもう暗い。
一人取り残されてカミューは暫く横たわったままぼんやりと壁の一点を見詰めていた。そして、ゆっくりと身を起こす。
「……っ」
女性ではない身で男の情欲を受けるのは、随分な痛みと負担を伴うのだと充分に思い知った。
身体の奥に感じる痺れるような鈍痛に顔を顰めて、カミューはやっとの思いで上体だけを起こすとそのまま壁にもたれる。深く息を吐き出すと途端に重い疲労が肩に圧し掛かった。
「くそ……」
無茶をしてくれたじゃないか。
片手で目許を覆うとカミューはがっくりと項垂れた。
「いったい何なんだあいつは」
口をついて独り言が漏れ出る。
「勝手にいなくなって、勝手に化け物と遭遇して、勝手に―――」
―――変わって。
前はあんなふうでは無かった。
カミューの知っているマイクロトフは、あんな甘い声は出さなかったし、あんな暗く笑ったりしなかった。時々無茶はしたが、こんな風に相手の…ましてやカミューの気持ちを無視するような真似はしなかった。
「…違う」
呟いてカミューは奥歯を噛んだ。そして目許を覆う手の指先で強くこめかみを押さえ、胸の奥から込み上げてきそうになる何かをこらえた。
だが。変わったと思うのは自分だけなのだろうか。
ずっとその想いを押し隠してきたように、あれもまたマイクロトフの隠されたものの一つだったのだろうか。
だとしたら。見誤っていたと言うのか。
だがそんな事は、もう。
喉の奥から深くこもった吐息が漏れ、そして低い呟きが唇から滑り落ちる。
「失えない」
もう、マイクロトフを失えないのだ。二度と。
そう自覚したばかりなのだ。
2000/11/19
独り、闇の中で「失えない」と呟いた青年の心情とは。
のろのろとベッドから降りたカミューだったが、直ぐに膝から力が抜けて床の上に座り込む羽目となった。
あぁ、もう、と呟いてクシャリと前髪を掻き揚げる。
「身体がもたないとは、なるほどこう言うものなのかな」
苦笑してそのまま前屈みに項垂れた。垂れた前髪が床に触れるほど深く身体を折って、そして吐息を吐き出した。
「だが―――」
床に囁いてカミューは顔を顰めた。
こんな身体的苦痛など、実はそうたいした事ではないのだ。
カミューは思う。マイクロトフが秘めていた想いと、それに伴ったはずの苦しみはいったいどんなものだったのだろう。妖花との遭遇でいったい何を得て、何を失ったのだろう。その結果の変化とはいったいどんなものなのか。
見極めなければ、と心の奥深くで呟いた。
自覚した想いに決着をつけるために、身体を張ってでもマイクロトフを見極める。
カミューは決意し、そして上体を起こした。
「…とはいえ、流石に今日は動けないな」
ひとりごちて背後のベッドを振り返った。
「カミュー様」
顔を上げると副官が心配そうな顔をして、傍に立っていた。手には何やら書類がある。
「僭越ながら、一度医師に診て頂いた方が宜しいのではありませんか」
次の日の事。当然ながら悲鳴をあげる身体をおして執務に出たが、やはり不調は隠し切れなかったらしい。それでもだからと言って休息を望む気にはなれなかった。
「平気だ。それより、新しい仕事かい?」
軽く応えて書類を受け取ろうと手を差し出すと、副官は渋面も露わにむっつりとしてそれを差し出した。
「…ご無理はなさいませんように」
呟いて副官は渡した書類の文面を指した。
「もう直ぐ今年度の騎士の叙位式がございますので、その式次第の下書です」
言われてカミューはぽかんと目を開いた。
「あぁ、もうそんな時期か。うっかり忘れていたな」
「忘れられては困ります。今年、騎士の名を受ける者は例年に比べて多めです。赤騎士団に入る者もまた然り。今から感銘を与える訓示のひとつも考えておいてください」
仕事は出来るが普段から素っ気無く言葉少ない副官に、こうほど事細かに指示を受けるとは。カミューは苦笑を浮かべると頷いて応じた。
「あぁ、分かったよ。心配をかけてすまないな」
「全くです」
慇懃に応えて副官は踵を返した。その背を一瞥してカミューは直ぐに手元の書類へと視線を落とした。
騎士の叙位式。
気付けば書類の上に溜め息を落としていた。そんな自分に呆れて苦笑を漏らすとカミューは軽く瞑目した。
最初に騎士を見たのはこのマチルダ領に入る関所でだった。それから己が騎士となる日を目指して剣の腕を磨き、様々を学んだ。親友が出来、共に騎士の叙位を受けた日は今も尚忘れがたい。
マイクロトフは覚えているだろうか。
いや、どんな事があろうとあの男があの記念すべき叙位式の日を忘れる事など有り得ないだろう。もしかすると、何よりも鮮明にあの日の事を覚えているやもしれない。共に騎士と名乗れる事が決まって、そして胸にそのエンブレムを飾った時の喜びはカミューにとってさえ何にも優るものだったのだから。
不意にカミューは目を開くと瞬いた。
「いつから…」
そんな呟きが無意識に零れた。
緩々とカミューの瞳に動揺が広がる。
いったいマイクロトフはいつからカミューをそんな風に想っていたのだろう。今よりずっと未熟だったあの頃なのか、それとも騎士となってからか。
いつからでも良い。だが、騎士の叙位を受けたあの日だけは、何故だか親友の想いであってくれと願いたかった。
あの晴がましかった日。真新しいエンブレムを付けて幾分緊張したように歩くマイクロトフの姿に宿っていたもの。今日から騎士だなと頷き合った瞬間。その時だけは純粋に友人としての喜びに満ちていてくれと―――。
男の想いを否定する気は微塵もない。だが、マイクロトフは「拒絶を何度も思い浮かべた」と言っていた。それでも断ち切れなかった想いを抱えつづける苦しみを、今はカミューも理解できる。相手の事を想うだけでこんなに、身も心も焼けるような気分になる。
叶うなら男の味わった苦しみが短ければ良いと、都合の良い事を願わずにいられない。
「頼むから……」
カミューのそんな呟きは、足元に落ちて虚へと溶けて消えた。
やたらと疲れる一日が漸く終わり、カミューは私室に辿り着くなりベッドに仰向けに倒れ込んだ。胸の奥から搾り出すような息を吐き出して、ごろりと転がる。頬をシーツに押し付けるときつく目を閉じた。
刹那、鼻腔をかすめた微かなものにハッと目を開き飛び起きた。
「…くそ」
ベッドに残っていたマイクロトフの微かな体臭は、一も二もなく前夜の悲哀を思い出させ、カミューは泣きそうに顔を歪め、片手で頭を抱えるとそこに突っ伏した。
だが、ほんの一時しかそうして哀しみに耐える事を許されなかった。
夜も更けた城内。行き交うのは見回りの騎士しかいないだろう時刻にもかかわらず、部屋の戸が叩かれたのである。
その控えめな来訪の音に、カミューはぴくりと全身の強張りをといて身を起こした。ゆるゆるとベッドから降り、まるで老人のように緩慢な動作で扉まで進む。
「誰だ?」
無理やり吐き出した声は酷く掠れていた。だからなのか、返ってきた声は驚きを含んだものだった。
「カミュー?」
思わずぎくりとした。
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2001/01/21
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