つきたちの花


 城に戻ったカミューは、真っ先に部屋の中央にある花瓶の水を変えた。
 そしてぼんやりとそれを見つめ、何処にいるとも分からない男の事を考える。
「マイクロトフ……」
 何処にいるんだ?

 カミューの吐息を受けて、赤い花がゆらりと揺れた。





 花散る里に囚われてもうどのくらいの時が流れたか。一晩や二晩ではなかろうと、長年で培われた体内時計がそう告げている。
 ――― 己がまだ在る。
 意識が戻ってから、ぼうと目蓋をあげて視界を開くと、そこには絢爛豪華な花の園。天国かと見紛うような美しさと穏やかさで、己の重い身体の下にも手を伸ばしたそこにも、見上げる天にも咲き乱れ常に散っては蕾をつける花の群れがある。
 噎せ返るような華の波に埋もれた身を、マイクロトフはゆらりと動かした。起き上がろうと、腹筋に力を込めるが、そうして浮いた肩をそっと押し戻す手が在る。
「蜜をお持ちしましょうや? それとも甘い花の実?」
 蕩けるような声が耳朶を震わせる。
 この声に―――強い魔の威力を秘めた声だろう―――何度も意識を飛ばしかけた。それが目覚めて直ぐに襲い来る。
「………水…」
 声を絞り出す。決して魔性の声の主に告げたわけではない。水でももってして、霞みがかった意識を何とか保とうとしたかった。だが、マイクロトフが声を発したことで、辺りを取り巻く気配そのものが歓喜に打ち震えたのがわかる。
「花のひらに留まる露をお持ちしましょうなぁ」
 ふわりと肩を押さえていた手が離れた。そして身体の上をすれすれに、艶やかな色を纏った女性が浮揚して行き過ぎた。そうしておこる僅かな微風さえ、華の香りに満ちていてマイクロトフの意識を更なる混濁へと落し込む。
 花の化生。
 この花園の主だ。

 要人を国境まで送り届けての帰路。ふと道端に咲く可憐な赤い色の花が目に入った。小振りで野に咲くなんの変哲も無い花だったが、先日聞いた花売りの唄のために、それは大きくマイクロトフの心を揺り動かした。
 そしてぽつりと呟いた。
 綺麗な花だ、と。 その時、どこからか声が聞こえた。―――やれ嬉しや。
『誰だ…?』
 誰何の声はだが、舞い上がった無数の花弁の渦に巻かれて消えてしまった。そして気付けばこの閉ざされた花の園に横たえられ、飽く事無く花の化生に見つめられ、喉が乾けば蜜を与えられ、腹が鳴れば果実を持って満たされた。そして始終酔うような花の香りと、化生の声に思考する意識までも囚われているのだった。

 恐らく四日ほど過ぎたろうか。この園には朧げながら昼夜の区別がある。しかしそれも僅かに明るいか、僅かに暗いかの差だけで明確な境がない。数時間も明るい間が続いたかと思えば、暗い状態が一瞬で終わる事もあった。だが、多分四日だ。何故だかそんな確信があった。それは騎士として数年間、規則正しい生活を続けてきたマイクロトフだからこそ感じる、時間感覚なのかもしれない。
 だが、そんな事を考える思考も、またいつの間にか戻ってきた化生の振り撒く香りに惑う。
「さぁ召し上がれ」
 唇に生ぬるい雫が落された。誘われるように微かに唇を開くと、薄い花弁が唇に差し込まれ、つぅと喉の奥にまでぬるい雫が滑り落ちる。ごくりと喉を鳴らしてそれを飲むと、花弁が離れてふわりと両頬を冷たく柔らかな手に挟まれた。
「愛しい方」
 そして花のような唇が降りてきて、マイクロトフのそれを覆った。

 ―――合わせて五日。

 マイクロトフは声無く呟いて吐息を漏らした。
「愛しい方…?」
「………」

 ―――カミュー……。

 痺れるような感覚の中で、マイクロトフは必死でその名の青年の姿を思い浮かべる。
 それだけが、今のマイクロトフにとって外界を想う唯一のよすがだった。



 カミュー。

 すらりと立つ様は優美で凛々しく、その白い肌と赤い派手な色の騎士服が、際立った対照を示して見る者の心を奪う。而してその本質は雄雄しく峻烈な剣士のそれ。
 涼やかに見えて右手に宿す紋章の如く、さながら焔のような気性は果たして生まれ持った性質なのか。だがさとい者ならば、その奥底に眠る透き通る清水にも似た清廉な魂魄を見出すだろう。
 どこまでも清雅な、友―――赤騎士のカミュー。

 最初からその引き立つ存在に目を奪われた。
 自然と、並ぶ剣の腕に親しくなった。
 いつしか無二の親友と呼べる仲になったのは、望んでの事だったか。
 今となってはそんな関係になった事を後悔して止まない。

 ―――愛しているんだカミュー。

 何度、そう告げた事か。心の中で。
 知れば知るほど、その尽くに好感を持った。近しくなるほど、その存在に欲望を覚えた。そんな、無意味な明かされる事の無い情を持て余す事に、いい加減疲れ果てたのはいつ頃からか。だが、さりとて離れようなどとは考えもしなかった。
 傍に在る事。
 それは精神の疲労よりも、それに伴う身体の不調よりも、何を置いても自らを至福たらしめる事実であったから。騎士の、自虐的とも思える自律の精神において全てを覆い隠す事は、ある程度可能であったから。叶うならば永久にその傍らに在りたいと願うのだった。



 視界の片隅に赤い花が在る。友を象徴する色に似た、鮮烈な紅い色。
「…つきたちの……」
 あぁ、生命を宝と思えとあの唄は歌っていた。
 ならばこんな場所で朽ち果ててなるものか。
 傍らに在ると願って尚、そうなるように努力を重ねてきたこれ迄を、無に帰すような真似は出来ない。
 マイクロトフはその紅い色を睨み付けて、思考にかかる靄を追い払う。
 だが頬に、頚に、肩に胸に腕に、柔らかく触れては離れ、甘く痺れる香りを残す存在がそれ以上を許さない。

 ―――カミュー。

 いつしか、友の顔さえ遠く霞み始めてくるのだ。

「か……」
 その続きは果たして友の名か、帰還の言葉か。
 幻惑の花園は、唯人にはあらゆる術の届かぬ無法の地であった。
 ただの花と侮る無かれ。
 妖花の強力な幻惑は、この屈強な騎士を囚われ人として逃れる術さえ与えない。
 そして純粋な化生であればこそ、一途に想う彼の騎士を永遠に想い続けて離さぬ事もまた、可能であるのだ。



 妖花の化生は女身だった。
 白蝋のような肌の細く滑らかな肢体で、ゆったりと腰まで伸びた豊かな髪は赤茶けた色をしている。そして血の様に赤い唇はぷっつりと小さく、ばっさりと長い睫に覆われて常に潤んだ大きな瞳は暗い紫紺だった。
 まるで人間ばなれしたその美しさは、だがマイクロトフを通常の男が虜にされるように、夢中にさせることは出来なかった。ただ、その幻惑的な声音のみがマイクロトフの思考能力を奪い、その場に縫いとめているに過ぎない。
 だからマイクロトフは、夢うつつのような状態でありながら、目前の化生から逃れる事を、ただ現世への帰還を望んでいたのである。
 そして、そんな男の態度は、純粋なる化生にもそれなりの苛立ちと変化を余儀なくさせた。

 ふと、マイクロトフは異変を感じた。
 頬にかかる髪が、いつの間にか赤茶けたものから薄明るい栗色に変化している。
 その色を認識した途端、ドクン、とマイクロトフの鼓動が跳ねた。
「か………」
 言葉がそれ以上続かなかった。
 ただ無性にその髪の色合いが愛しく思えた。
 それに触れたいと、触れてくちづけたいと、そんな衝動に突き動かされてマイクロトフは手を持ち上げた。指先がそれに触れたとき、しっとりと濡れた感触が伝わって胸に落ちる。見た目通りそれは柔らかく、細かった。微風になびく先端は向こう側の明かりに透けて金にも見える。
 そうだ。
 この髪はいつも風を受けて、硝子細工の覗きからくりのように色を変え、マイクロトフの胸を子供のそれのようにときめかせていた。だが、息がかかるほど傍にあっても、決して触れる事の叶わぬ憧れだった。だが―――

  いったい誰の髪だっただろう?

 しかし、今その髪に触れている。焦がれた髪に。
 充足の息を付くと、再びしっとりとした手が頬に触れた。
「……愛しい方」
 耳をくすぐる声がまたマイクロトフを惑わせていく。

 その最中ぼんやりと霞みがかった視界の向こうに、吸い込むような眼差しでマイクロトフを見ている双眸は、いつの間にか柔らかな琥珀の瞳と色を変えている。
「……っ…」
 それが間近にあって己を狂おしさが溢れんばかりの眼差しで見ていると、そう気付いた時にはもうマイクロトフは胸にせまる感情に目蓋を熱くさせていた。
 覗き込む角度によって色を変える光彩は、日の光りに透かすと例えようも無く綺麗に輝いていた。だが、それがマイクロトフを見つめる時は、いつも穏やかさを含んだ理知的な色を宿しているばかりで、こんな風に―――狂おしいほどの感情を乗せて見つめてくる事などありはしなかった。どれほどそうなれば良いのにと夢想したとしても。
 どれほど望んでもそれは叶わぬのだと、その瞳を見るたび絶望に打ちのめされた。
 だが……それでも、どんな宝石よりも綺麗な瞳は、何よりもマイクロトフの愛しい宝物だった。それを見ているだけで、幸福だった。幸福と、思い込もうとしていた。
「……なん…て…」
 込み上げるものに溜まらず声を出して、マイクロトフはその瞳をもっと間近に引き寄せようと、そこにある両頬に手を寄せた。
 その瞳にこんな風に感情が宿るだけで、これほど喜びに打ち震える己がある。
 見ているだけで幸福だなどと―――そんな事があるわけが無いというのに、己に嘘を付き続けていた日々が遠く虚しい。

 こんなにも愛しい存在。

 だがマイクロトフはもう、それがいったい誰の髪と瞳であるか、名どころかその思い出さえ呼び起こす事が出来なかった。ただ無性に愛しくて、その瞳に視線の先をとらわれながら、濡れた感触の髪に指を絡めた。



「…愛しい方……嬉しい…」
 化生は、初めて騎士の方から自身に触れられて、喜びに陶然と微笑んだ。
 そしてそれに呼応するかのように、花散る里に咲き乱れる花々は一層その色彩の鮮やかさを増し、狂い咲きの如く散っては蕾をつけるという嬌態を繰り返すのだった。





 ふと、花から目を逸らしてカミューは窓の外を見た。
「マイクロトフ」
 帰ってきたら、おまえに伝えたい事がある。まだ上手く纏まってはいない複雑な感情。自覚したばかりのそれをどうしても伝えたい。

 窓の外に見える空は徐々に水平に白みはじめている。
 長い夜が、明けようとしていた。


NEXT


■選択肢(A-1)に戻る



続いております

妖花の精は直ぐに化けの皮が剥がれる予定
だから青を責めちゃやですよぅ

2000/08/04

企画トップ