つきたちの花


 どっぷりと全身が泥沼に沈み込んでいくような重いだるさの中で、マイクロトフは飽きる事無く目の前の愛しい髪を撫で白い肌に触れ、琥珀の瞳を見詰めていた。
 そして何度も間近で呟き漏れる声音に、マイクロトフの耳奥がかすれるような痺れに襲われる。
 この心地よさが夢か現実なのか、そんな判別さえつかない至福の世界に、マイクロトフが堕ち込むまで、あともう幾ばくかの余裕を残すのみだった。あと僅かで屈強な騎士は妖花の魔性にすっかり取り込まれるのだ。
 あと僅かで―――。





 昼であっても採光の少ない店内は薄暗い。
 宵から開店の人気の無い店内には、中央の舞台の脇に奥の楽屋へと通じる扉がある。軽いノックを響かせると中からゆるりと扉が開かれた。
「忙しいのに呼びたててごめんなさい」
 そう詫びながら姿を見せたのはフィーナだった。
「いえ」
 答えたのはカミューである。微かに額に汗を滲ませているのは、昼の僅かな空き時間に城下のこの店まで駆け付けたからに他ならない。密かに人伝に届けられた封書には、一行の言葉とこの店の名前だけが記されていた。しかしそこにあった言葉は多忙の騎士団長を動かすだけの威力があった。
「マイクロトフの事と、そう手紙にありましたが」
 余裕の無い口調で青年は扉に手をかけたままフィーナの目を覗き込む。
「待って、お昼まだなんでしょう? 用意してあるからこっちのテーブルに来て。食べながら話をするわ」
 フィーナが促した部屋の奥には、その通りに簡単な食事が用意してあった。
「分かりました。でも何故ここで?」
「ここなら誰かに盗み聞きされる事が無いもの。それにあなただけに教えてあげたいのよ。……でも、そう言えば楽屋に入るのは初めてかしらね」
 実際カミューがフィーナのこの店に来たのは最初の一度きりである。それを分かっていながら言う歌姫も意地が悪い。カミューはただ苦笑を漏らすだけだった。
 そして黙って椅子に座るとすかさず温かい紅茶で満たされたティーカップが目前に置かれた。
「別に誰に聞かれても構わないのかも知れないけれど、やっぱり騎士団内って色々と複雑そうだから」
 予めそう断っておいてからフィーナはその艶のある声で語り始めた。
「私の店にね、国境付近の村から来たっていう男の人が来たのよ。でね、その人が言うには最近村で行方不明者が出るんですってよ」
「行方不明者」
 呟くカミューにフィーナはええと頷いた。
「騎士団に何度も調査をお願いしたのだけど、全く取り合ってくれないからこうしてロックアックスまで直接掛け合いに来たんですって。でもやっぱり相手にして貰えなくて、それで私の店で腐っていたのよ」
「……そんな話は聞いていません」
「ええ、聞いたらその人、白騎士団に掛け合ったらしいわよ」
「………」
 国境付近や辺境の方々は騎士団の内実も知らないし噂も届かないものね、とフィーナは苦笑を浮かべた。
「頼りになるのは一番偉い白じゃなくて赤なのに」
 それと青も。
 フィーナは呟いて真正面に座るカミューと目線を合わせた。
「それでね。ここからが大事」
 カミューの琥珀の瞳をひたと見詰めてフィーナは小さく息を飲んだ。
「その人の村はね、青騎士団長さんが姿を消したって噂に近いところなの」
「………っ!」
 腰を浮かしたカミューに、フィーナはふと笑いかけた。
「分かる? 手掛かりよ」
「フィーナ」
 カミューの声は細く震えていた。だが、立ち上がって乱れたマントを寄せて払うに到って、青年のそれは強い響きと変わっていた。
「ありがとうございます」
「いいのよ」
 そしてティーカップを持ち上げるフィーナに、軽く礼をするとカミューはいてもたってもいられないとでも言う風に、やはり風のようにその場を去って行った。
「あぁもう。どうして私ってこんな事ばっかり」
 やはり少しは未練の残る青年を見送る、そんな歌姫のぼやきは幸い誰の耳にも届かなかった。

 さて歌姫の店をあとにして、急ぎ足で城下の通りを城に向かって歩くカミューは、奥歯を噛み締めながらアレコレと考えをめぐらせていた。
 意外なところからもたらされた事実。限りなく信憑性が高いその有力な手掛かりを、果たして白騎士団は分かっていながら隠蔽したのか、それとも街角の歌姫でさえ気付くような関連性を、ただ単に見出せなかっただけなのか。どちらにせよ早急に動かねばなるまい。
 それにしても―――手掛かりは直ぐそこに、白騎士団にあったというのに。
 そうして思い出されるのは先日何気なく聞きとめたゴルドーの言葉。
 ―――農民ノ家出人騒ギナドニカマケテナンゾオレン。
「くそっ」
 秀麗な赤騎士団長は、その容姿にそぐわぬ悪態をついて城まで駆け戻ったのであった。





 案の定、カミューが急ぎ青騎士団の副長にその情報を告げると、彼は頭髪を掻き毟って唸り声を上げた。
「白騎士団の情報を鵜呑みにした我等が愚かだったのか……!」
 しかし広範囲にわたる捜索と、団長不在の不安定な状態では、他団の情報の裏取りまでは到底手が届かないだろう。しかし彼の立ち直りは早く、直ぐ様その行方不明者を出していると言う村へ数人の騎士を派遣した。
「それにしても……あなたにはいつも助けられているような気がします、カミュー様」
 団長の気持ちが分かりますな。
 副長はそう言って軽く声を立てて笑った。
「いつもあなたの存在を有り難く思っていると、そう漏らすマイクロトフ様の言葉が身に染みてしまいます」
「マイクロトフが……」
 ひとつ年下の親友は、いつも何かとカミューがフォローに回るたび礼は言うものの何処か悔しそうに唸ることが多い。副長が言うように素直な有り難味を告げてくる事など無かった。
「ええ。団長はカミュー様に助けられるたび、いつも猛烈に反省なさいます。ですが反面何処か嬉しそうにあなたの事を話されるのですよ。あなたと知り合えて良かった。あなたを友人に持って幸せだと。得難い親友だと、そんな事を仰います」
 ―――得難い、親友……。
 声無く呟いてカミューは何処か痛いような顔をした。
「どうか、なさいましたか」
「…いえ」
 胸に鈍く重い痛みを感じながら、カミューは緩やかに首を振った。
「この手掛かりが役に立てば良いのですが」
「然様でございますな」
 副長の応えを最後に、カミューは彼に別れを告げ自室を真っ直ぐ目指した。



 室内に一歩足を踏み入れ、完全に他者から隔絶されたと認識するなり、カミューの表情から装いが消えた。
 そしてふらふらと窓辺に飾っている赤い花の傍まで行くと、それを横目に壁に背を向けて脱力する。その青年の唇から重い吐息が漏れた。
「わたしがマイクロトフを助けるのは、親友だからじゃない……」
 俯いてカミューは呟く。そうして、声に出すと実感がいや増した。
「マイクロトフ……おまえがわたしにそうさせるんだ」
 おまえと言う男が。
 そして実感した時、わけの分からぬ憤りを感じてカミューは壁を叩いた。
「おまえが、おまえだから…!」
 この憤りを何処にぶつければ良い。今までそうやって散々人を振り回して、手を煩わせて置きながら、突然姿を消すなんて卑怯だ。
 落とし前をつけろ。こちらの感情をこれだけ掻き回しておいて、あっさり置き去りにするつもりなのか。―――理不尽な怒りが込み上げて、カミューはもう一度壁を叩いた。いや、殴りつけた。
 薄れかけていた拳の痣が再び鈍い痛みを取り戻す。
 そして拳を痛め付けて壊してやりたいほどの衝動を感じて、無理に押し殺せば代わりに込み上げた嗚咽がどうにもならず僅かに漏れた。
「……く…」
 噛み締めた歯がぎりりと不快な音を立てた。だが―――。
 ふと目の端に止まった赤い花がその力みを和らげた。

「マイクロトフ……花が、枯れてしまうじゃないか…」

 力なく壁にもたれた身が沈む。
 そして胎児のように丸めた青年の身から、密かな哀しみの息が漏れ出たのだった。


NEXT


■選択肢(A-1)に戻る



再会まで続く

ずっと役職名でしか呼ばれていない青騎士団の副長
結構な登場回数なのに名前をつけ損ねてしまって
どうやらこのまま最後まで通すつもりらしい(笑)

2000/08/15

企画トップ