つきたちの花


「私に触れて…抱き締めて……そのしるしを残して……」
 甘い香りに翻弄されながらも、マイクロトフは肯定する。
 ―――おまえがそう望むのなら。
 すると妖花の精はいっそう喜びにうちふるえるのだ。
 もっと、もっとと貪欲に与えられれば与えられるほどに妖花はそれ以上を望む。
「離さぬ……決して離さぬ」
 例えこの身を偽りに変えようとも、どんな姿に成り果てようと。
 妖花の願いは果たして聞き入れられ、成就するのか。
 幻惑に彩られ、己を失いかけたマイクロトフに、その願いを打ち破る気力は残っているのだろうか。



 妖花の精の根本となるのは、やはりあまた存在する妖物、モンスターの類いである。そしてその性質は人食いのそれに属していた。植物系の食中花の変幻なのだ。
 植物系のモンスターは年経れば経るほど、その力を増しより強力なものへと成長していく。
 この妖花の精もまた、永くを生きていつしか自我を持った。
 そのうちに新たな力を身につけ、こうして人間やその他の生物を取り込む術を持ち、たわむれに人を養分としていた。しかし―――、

『綺麗な花だ』

 妖花に音を聞き分ける耳など無いが、人の心の波は身を打つ風のように漂って伝わる。
 低く穏やかな色の波は、そうして妖花に届いた。
 その心の波は、妖花の中にいつしか芽生えた感情を、ひどく揺さぶった。

 ―――いつか。遠い昔のいつかに感じた気のする波ではないか?
 それはまだ妖花が可憐で力無い野花であった頃に、道行く何者かが同じ事を言ってくれた。一人だけではない幾人もが、野に咲く花々を愛でる心を持つ人間が、そんな言葉をかけてくれていた。
 そんな言葉の波を感じると、力無い頃の妖花は必至で根を張り水を吸い、一生懸命花を咲かせようと、そんな気になったものだった。
 だがいつからか。
 いつの頃からか、ぱったりとその波を感じなくなった。
 代わりに花の身には余る力を手に入れていた。そうして、次第にそんな波があった事など忘れていたのだ。なのに―――。

『綺麗な花だ』

 切なく哀しいのに情に満ちていて穏やかで優しい心の波。それを感じた瞬間、もうたまらず嬉しくてならなかった。
 己の持つ全ての力を使って、その心の波を発した者を捕えた。
 そうして、本来なら人食いであるはずの身を、人を慈しむものにした。だがそれは妖花の身にはひどく負担を強いる行為であり、また取り込んだ人の身にもただならぬ消耗をもたらすのだ。
 その事実を、この年経た妖物が知らぬわけもなく、最大限の妖力をはらっても、所詮ただの植物に過ぎない妖花が人を慈しみ共に生きられるわけもない。その結果、妖花はひとつの結論に辿り着いていた。

 妖花の精は、心中を望んだのである。

 永い悠久とも思える時空を孤独に過ごし、他の者との交わりといえばただそれを殺し養分にする時だけであった妖花の精。
 それが、何の因果かマイクロトフが何気なく発した言葉によって、己がまだ力無かった野花の頃を思い出し、ただの野花であったなら咲けば枯れ行くだけの身であったと知り、妖物でありながら過去への逆行を望んだ。

 ―――この世の摂理に従って、ゆるゆると枯れましょうなぁ。

 妖花の精は、金茶の髪を揺らして琥珀の瞳でそうマイクロトフに微笑みかけたのだった。





 震える睫毛は、狂おしい眼差しは、恋しい者に向けられたものでしかない。熱い吐息が漏れる唇は赤く、それが紡ぐのは愛の言葉である。
 触れて、抱いて、愛して……離さないで。
 その尽くにマイクロトフは応えた。ああおまえが望むなら、と。
「愛しい方……どうか抱き締めて離さないでくださいませ…」
 するとマイクロトフはぼんやりではあるが、一度瞬きすると頷いた。そうして重く気だるい腕に力を込めて、愛する者の背をきつく抱き締めた。
「ずぅっと傍にいてくださいませな」
 これにもやはりマイクロトフは声無く肯定した。妖花の精はそんな騎士の態度に満足そうな表情を浮かべると、より深く寄り添った。そして、愛しい男の頬にしっとりと重ねて語りかける。
「そうして、どうか共に滅びましょうな……」

 ―――どうかこのまま共に……。

 それに気付かず、ただ妖花の精の与える愛撫に身をまかせていれば、マイクロトフは夢のような心持ちのまま死に到る事が出来ただろう。

 だがマイクロトフはそれに気づいてしまった。

 ―――共に…滅びる?

 俺が? 誰と?
 この愛しい髪と瞳の者となのか。
 この美しい、硝子細工のように煌く瞳の持ち主となのか?

 おかしい。
 この瞳はそんな事は言わない―――共に滅びようなどとは決して言わない。言ったとすればそれは、偽りに満ちた嘘の言葉だ。
 俺の知る、琥珀の瞳は絶対にそんな死を望むことはしない。

 刹那、世界が歪んだ。

 そして突如思考にかかっていた甘い靄が薄れて行く気配がする。
「…くっ……」
 ゆるりと指先に意識を集中させると、それはそこにあった。実際に固いそれに触れて握り締めてみると、夢の世界のような花園が幻惑のようにどんどん柔らかく歪んでくる。
 声を出そうとすると、喉の奥に粘液が絡んだようで息苦しく発声はままならない。だがそれも、力を抜いて人形のように横たわっていれば、なんの不自由も無い。しかしマイクロトフはその安楽さを否定した。
「…か……」
 無理矢理に声を出すと、世界が更にぐにゃりと歪んだ。その中で美しい青年の面立ちをした者は相変わらず狂おしい恋慕の眼差しでマイクロトフを見つめている。
「ちが……う…」
 その目はそんな感情を宿しはしない。そんな眼差しで自分を見はしない。

 そう―――マイクロトフにとって、その瞳は決して信頼と友愛以外の感情を宿しはしないのだ。
 共に死を望むなど……それこそ有り得ない。

 急速に覚醒してくる意識の中、マイクロトフは同時に込み上げてくる怒りと絶望に打ちのめされた。そしてそれらをどこかにぶつけるために、手に握り締めたそれ――― 愛剣ダンスニーを持つ手に力を込めたのだった。





 初めにそれを発見したのは、近在の村に住まう狩人だった。驚くほど太い蔓が地面にぐったりと横たわり、道行きを封鎖しているのだ。決して踏み越えられない大きさではないが、見た事もないほどの巨大さゆえに狩人は慄き、蔓の先を興味本位で辿っていった。
 辿るほど蔓の直径は巨大さを増し、狩人はいつしかそれがカズラーに似た植物系のモンスターなのだと知った。似た…というのは人間の大人を一人、ゆうに飲み込むそのモンスターと言えども、これほどの巨大さは類を見ないからだ。
 狩人は底冷えのする恐怖を胸に抱きながら、びくりとも動かないやや茶色に変色した蔦を慎重に辿っていった。そしてそれはそこにあった。
 袋状の花弁……毒々しいまでに大きいそれは、赤茶けた色をしていた。だが異様であったのは、その袋状のものを囲むように、また別の植物が絡むように寄生している様だった。
 その寄生植物もやはり蔓状の植物で、到る所に大小の赤い花をつけていた。しかしそれは今や無残にも散り乱れ、力なく地面の上に果てていた。
 狩人は恐る恐るそれに歩み寄った。
 そしてその袋状のそれが囲む蔓状の花々諸共、鋭利な刃物で真っ二つに裂かれたものなのだと見とめた。
 一体何処の英雄がこんな化け物を退治したのか。狩人は今更ながらぞっとして自身を抱きかかえると周囲を見回した。そして草むらから僅かに見えた青い布地と地面を掻く男の手を見つけたのだった。

 それは奇しくも、青騎士団の副長の命を受けて派遣された騎士たちが、その近くの村に辿り着いたのと同じ頃だった。





 マイクロトフ無事、との報せは直ぐにカミューの耳に届いた。
「カミュー様!」
 青騎士団の副長は柄にも無く目尻に涙を溜めてカミューに報告してきた。
「ありがとうございます! これもあなたのもたらした情報のおかげです」
「いえ、わたしは……見つかったのなら、何よりです」
 そうして彼の口から詳しい情報を知るに及んで、カミューの眉が僅かに寄せられた。
「カズラーの変種、ですか」
「然様。おそろしく巨大な奴で、そいつが近隣の村人や旅人を飲み込んでおったようです」
 それにマイクロトフも呑まれていたとはぞっとしない話だ。その上にそんな化け物に更なる妖物が寄生して強力な妖魔と化していたと聞けば尚更。
「ですが近隣の村人はマイクロトフ様に多大なる感謝を込めておるのです。おかげで、どうやら背任の疑いは逸らせる事ができそうですぞ」
 思わぬところで自団の団長が活躍を果たしたと聞いて、副長は今回の失踪事件にそれを前面に押し出してうやむやにする腹積もりらしい。
「何しろとんでもない化け物を退治したわけですからな。いや、それにしても早くお戻りになられると良いのに」
「…えぇ」
 マイクロトフの帰還は何より嬉しい。
 実際足元から力が抜けて崩れ落ちそうになるほど、全身を安堵に呑まれた。しかし、それと同時にカミューの胸中には一抹の不安が育ちつつあったのだ。
 ―――マイクロトフが戻ってくる。
 想いに気付いた自身に、まだ折り合いをつけていない。これまではマイクロトフの安否ばかり気遣ってそれどころではなかったのだ。
 戻ってきた男にどうやってこの想いを伝えれば良いのだろう。もしかすると拒絶されるかもしれない。
「何か、心配な点でもありますかな」
 ぼんやりとしていたのだろう。副長の声にハッとしてカミューは苦笑を漏らした。
 我ながららしく無いと思う。
 ―――ご婦人相手ならば思う煩う事など無いのだがな。
 しかし、基本的に思い悩むのは性に合っていない。その時にならなければ本当の事など分からないのだから、今は純粋にマイクロトフの帰還を待ち望む事としよう。
「いえ―――今度こそ、無事に帰ってくるのかと思うと、どうやって叱りつけてやろうかと今から考えてしまいましてね」
「なるほど、ならばあの無鉄砲の大きな御仁を叱る役目はカミュー様にお任せしましょう。わたくしどもは青騎士団の団長としての心得を一から叩き直させていただく事とします」
 穏やかな笑みが零れた。
 それは青騎士団の副長と、赤騎士団の団長としては、久方ぶりにわだかまりの無い笑みといえたのだった。


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次でやっとマイクロトフ帰還
これから鬼畜道まっしぐら、になるかどうか…(暗)

2000/08/18

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