突然の抱擁のさなか、カミューはマイクロトフの囁きを聞いた。
「後で会えるか?」
「え…?」
身を離すと深い色合いの瞳がある。その常なら容易く感情の読めるそれは、今は疲労の色濃く、他の感情は表れてはいない。
「これからゴルドー様へ報告をしなければならん。それから留守にしていた間の事を色々と―――それからになるから随分と遅くなるが、カミュー、おまえに話したい事がある」
長い言葉をゆっくりと語る男の言葉に、カミューはあっさりと頷いた。
「分かった。なら部屋で待っている事にしよう。用が済んだら訊ねてきてくれるか」
「あぁ」
低く短い応えにカミューは仄かな微笑を浮かべると、副長と医師と目を合わせ、微かに会釈すると扉へと身を翻した。
「それではわたしは仕事に戻る。―――分かっているだろうが、無理はするなよマイクロトフ」
振り向き苦笑まじりにそう言うと、マイクロトフは「あぁ」と頷いた。それを見てカミューは扉に手をかけたのだった。
カミューが赤騎士団の団長となったのは、マイクロトフのそれよりも随分と前のことだ。しかし、互いに地位を上げて役職による隔たりが出来たとしてもその付き合いが変わる事は無かった。
初めて騎士としてエンブレムを胸につけたその前からの付き合いであるが、いついかなる時もカミューはマイクロトフを、マイクロトフはカミューを親しみを込めてその名を呼び、気安く酒を酌み交わし談笑し、他愛の無い時を過ごしたものだった。
だから、カミューが団長として城内に立派な私室を持ったとしても、他団の隊長に過ぎなかったマイクロトフはやはりカミューの元を訪れ、その背後にあるものなどは無関係だと言うかのように、酔いつぶれ部屋で一夜を過ごすなどということもあった。
マイクロトフの訪れ慣れた、城内のカミューの私室。
もしかすると先日与えられた青騎士団長の私室よりもすごし慣れているのかもしれないその部屋に、マイクロトフが訪れたのは夜も更けてからだった。
「待たせたか」
慣れた仕草で入ってくるマイクロトフは、そんな事を言って後ろ手に扉を閉めた。
「それほどは。それよりも何か飲むか?」
カミューが薄く微笑んで戸棚を示すと、マイクロトフは首を振って卓についた。
「何も要らない。ただ話しがしたい」
その真っ直ぐに見つめてくる瞳を受けて、カミューはぱちりと瞬いた。それから苦笑して「なら」と水だけを持ってマイクロトフの向かいに座る。そして少し痩せて精悍な顔つきになった男の姿を見つめ返した。
「久しぶりだな、マイクロトフ」
「ああ……」
「痩せたな。まだ休養は必要なのか?」
「いや、問題無い」
それきり、沈黙が降りる。
もともとマイクロトフ相手に流れるような会話は望めない。それでも何故だか気の合う者同士、例え会話が途切れてもそれもまた自然体であり、気になることなど無かった。
しかし今のこの沈黙の気まずさはどうだろう。
居心地の悪さにカミューは立ちあがった。
「やはり何か飲もう。酒は飲んでも平気だろう?」
そして卓を離れようとした時、素早く伸びたマイクロトフの手がカミューの手首を掴んでそれを引き止めた。
「…マイクロトフ?」
「何も要らん。座ってくれ」
「しかし―――」
「座ってくれ」
強く言われてカミューは首を傾げながらも、「分かった」と再び椅子に腰を落とした。途端にマイクロトフは卓上に肘をつき身を乗り出してきた。
「おまえに、妖花にとらわれていた間の事を聞いてもらいたい。酷い体験だったが、部下には全てを話せない。だがおまえになら話せる」
カミュー、頼む。聞いてくれるか。
その真剣な口調と眼差しを受けて、カミューが断れるはずも無い。ごくりと唾液を嚥下すると、カミューは頷いた。
「ああ。わたしでよければ―――」
そしてマイクロトフは、それがカズラーの変種に寄生した別の妖花の仕業だったのだと話し始めた。
「妖花は女性の姿をしていて、常に俺の傍らにいた。実際その花園は妖花が俺に見せた幻影の世界で、俺はずっとそのカズラーの中にいたわけだが」
つい、カミューは目を閉じて唇を噛む。だが直ぐにそんな自分に苦笑を漏らした。
「あまり気持ちの良い話ではないね」
するとマイクロトフも頷いて返した。
「あぁ、俺も今思うと身震いがする。だが、そんな中でも俺はずっと生かされていたんだ。その妖花に」
蜜を与え実を与え、力の限りマイクロトフを慈しみ生かそうとしたその妖花。
「俺の思い違いでなければ、妖花は俺を好いていてくれたのではないかと思う……」
「モンスターがおまえを?」
「普通ならとっくにカズラーの中で溶けて食われていてもおかしくなかった。大体小さなカズラーでもほんの少し、吸いこまれただけでダメージを受けるだろう?」
「確かに」
グリンヒル市付近にはカズラーが多く生息し、そこに通じる森にもいるために、そのモンスターと相対する機会は少なく無い。一度や二度ではないその戦闘を思い出してカミューは頷いた。
「実は、あまり良くは覚えていない。どうやらずっと幻覚を見せる妖花の花粉のようなものを吸わされていたらしい。村にいた医者がそんな事を言っていたからな。だがおぼろげに覚えている。花園の中で妖花は俺を愛しい者と呼んだ―――」
語るマイクロトフの視線は、何かを思い出しているのか、ぼんやりと卓の上に組んだ己の手を見つめている。そして再びその唇が開く。
「だからなのか、とらわれた最初の方はまだ良く覚えている。俺は必死で逃れようともがいていたんだ。こんな場所で果てるわけにはいかんと思ってな。だが……―――」
そこで言葉を切ったマイクロトフは、ぼんやりとしたまま顔を上げカミューを見た。
「そのあとからが記憶が混乱して良く覚えていない」
その言葉にカミューは瞳を細める。
尋常ではないマイクロトフの精神力をもってしても、妖花の惑わしは回避できなかったと言うのか。しかし、それならばどうやって退治し、その魔手を逃れたと言うのか。
ところがカミューのそんな疑問をよそに、マイクロトフはふと口許を歪めると言葉を続けたのだった。
「そしてそのうちに、自分のことすら分からなくなってきて、むせ返るくらいの花の匂いの中でぼんやりとひとつの事だけを思うようになった」
ひた、と漆黒の双眸がカミューの瞳に定められた。
「おまえだ、カミュー」
ごくりと唾を飲む音がやけに大きく響いた気がする。
カミューは微かに息を飲むと瞬いてマイクロトフの目を見返した。
「わたし……?」
するとマイクロトフは視線を逸らさぬまま、口許を片手で覆って小さく笑い声をたてた。
「あぁ、おかしいだろう? 騎士団の事や自分の命の危険すら忘れて、ただひたすらおまえの事ばかり考えていたんだ」
喉の奥で笑う声がして、カミューははっとする。
「マイクロトフ……?」
何故だか嫌な気配を感じて、そっと呼び掛ける。だがマイクロトフはいつの間にか目を伏せていて、口許を覆ったまま笑い続けている。そして緩く首を振った。
「まったく、我ながら感心する」
笑いを含んだ声は、しかし低く暗くカミューの耳に触れた。
「自分の名前も分からん状態で、おまえの事だけをずっと考えていたんだ―――おかげでそれを妖花に利用された」
語尾の言葉は強く吐き捨てるような言い草だった。
そして再び合わさった視線は、一切の感情を宿さぬ昏い眼差しから発せられたものだった。無意識にカミューは顎を引いてそれを受けていた。
「今思い出しても、怒りが消えないんだカミュー」
だがその声音は淡々としている。
「あの化け物は俺の中を暴いてそれを利用した。そして俺はまんまとそれに騙された」
滑稽だ。だが許せない。
呟いた声は、まさしくマイクロトフの声。
変わらぬ低く落ち着きのある声。
だが―――。
「妖花はカミュー、おまえの姿を写し取って俺を惑わしたんだ」
卓の上に組まれたマイクロトフの手は、変わらず組まれたままそこにある。だが眼差しは―――その昏い眼差しはいっそうの翳りを増してカミューを見つめてきた。知らず背に伝った冷えた感触にカミューは眉を寄せる。
「だから、俺は、許せなかった」
一語一語、噛んで含めるように言う。そしてマイクロトフは薄らと微笑を浮かべたのであった。
「惑わされた俺も、惑わせた化け物も許せなかった。だから俺はカミュー、おまえの姿をした化け物を切り伏せたんだ」
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いやっ 怖いっ(笑)
ここからは怖いの痛いの嫌いな方は引き返しましょうね…
なんたって本来なら暗涙置場に置くべきものですからね
こんなノリが大好きで、でも暗涙置場って何? なんてお客様はいるのでしょうか
何度かメールや掲示板でお問い合わせありましたけど
もう、いないだろーな(笑)
でももしいたら遠慮無く聞いてくださいね(たいしたもんは置いてませんけど)
2000/08/31
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