カミューがマイクロトフの言葉に眉をひそめたのは当然の反応だろう。
「マイクロトフ…」
だが眉をひそめたカミューの前で、マイクロトフがぐらりと上体を傾げた。卓上で組んでいた両手がずる、と力なく流れる。
「…おい?」
「すまん…少し無理をしたようだ……眩暈がする」
「……ばっ…」
低い声で唸る男に目を見開いて、カミューは慌てて立ち上がる。それを辛そうな目で見上げて、マイクロトフは卓に手をついてなんとか重い身体を支えようとした。
「…横にならせてもらえるか」
冷や汗を浮かべた蒼白い顔色を見ては、言われなくても、と言う奴である。カミューは素早く周囲を見まわし、それから寝室に通じる扉へと目を向けた。
「ベッドまで行けるか」
傍のソファに横たわるよりは無理にでもベッドまで行った方が良いだろう。それから医師を呼んで診てもらおう。いくら平気な素振りをしていても、死にかけたと聞いた。それを思うとマイクロトフ以上に蒼ざめるカミューだった。
頷いて自力でたちあがろうとするマイクロトフの腕を取り、カミューは扉を開ける。
「大丈夫か」
そして傍らのマイクロトフの顔を再び覗き込んだ。
「マイクロトフ…?」
見開かれた黒瞳。蒼白と言うよりは蝋のように作り物めいた白さに変化していたその顔色に、カミューはそろりと呼びかけた。だが、何気なくその黒い双眸が凝視する先に気付きそちらに視線を巡らせた。
寝室の窓辺に揺れる赤い花……マイクロトフが買い求め、そしてカミューに託したその花は、萎れ掛けてはいたがまだ枯れるまでには到っていなかった。
「…あの花は……」
カミューが呟いて、そしてもう一度マイクロトフを見た。だが―――。
「あ、おい」
カミューの横からスッとマイクロトフの身体が前へと流れる。そして何かに引かれているかのように窓辺へと歩み寄ったその手が花瓶の花へと伸びた。―――その一瞬後、なんとカミューの目の前で男の大きな手が躊躇なく赤い花を握り潰して散らせた。
「マイクロトフ!」
カミューはその光景に驚き、悲鳴のような声でその名を呼んだ。だがそれに反射で振り向いたらしいマイクロトフの視線に射抜かれた瞬間、息を飲んだ。
それは、憎悪と呼ぶような眼差しだった。
「……っ…」
カミューの喉の奥で、声にならない悲鳴が漏れる。
そんな眼差しをマイクロトフから向けられたのは、初めての事だった。そのあまりの衝撃にカミューの感情もまた凍りつく。恐怖ゆえにか悲哀ゆえにか。
カミューは足許の地が抜け落ちるような感覚にとらわれて、一歩後退する。一瞬にしてその白い頬が色を失う。
だがマイクロトフはそれを見て益々その瞳に憎悪を滾らせた。いや、実際にはカミューのその向こう側、遥か遠くの記憶の果てにある、人外の存在を見て憎しみを蘇らせたのだが、今それはカミューを憎悪しているようにしか見えない。
当然、その憎悪の眼差しを真っ向から向けられて、カミューは声も出せず、指先ひとつ動かせないでいた。それほどまでに、マイクロトフの眼力は強く烈しい。
背筋を這い登る震えが立つ力を奪おうとする。
だが、カミューの足が力を失う前に、マイクロトフの身体が前のめりに倒れた。
「……!」
ハッと我に返ったカミューが、慌てて床に倒れたマイクロトフの傍らに膝を付く。
「マイクロトフ」
呼びかけに返事は無い。見ると真っ青な顔色に胸が冷えるような冷や汗をびっしりと浮かべて、マイクロトフは浅い呼吸を繰り返していた。
―――わけが…わからない。
結局マイクロトフはそのままカミューのベッドへと運び上げた。それから医師を呼んで、本来なら安静を必要とする身で無理をしたための結果で心配は要らないと聞いて安堵し、このまま目覚めるまで待ち、意識が戻れば自室のベッドへ運べば良いということになった。
その、マイクロトフが眠る自分のベッドに顔を突っ伏してカミューは吐息をついた。そして僅か顔を上げて、男の寝顔を一瞥すると、右手を引き上げて目の前で閉じていた拳を開く。
「何故……」
散らされた赤い花弁―――寄せ集めたそれを何枚かだけ拾いあげた。渇きかけたそれは手の中でかさりと音を立てた。
何故マイクロトフは花を握り潰したのか。そしてあの身が凍るような眼差しは―――。
カミューは知らない。妖花の精の本性が、血のような赤い花であったことを。
それを大剣で切り伏せたときに舞い上がった無数の赤い花弁。そのさなかで男が耐え切れない怒りに身をひたしていたことを。怒りと憎しみに心を抉られながら、身にまつわる花弁をむしり取りながら意識を失ったことを―――。
カミューは再び拳を閉じると、顔をまた伏せる。
「何かが―――あったのだろうが…」
カミューが知るよしもない、マイクロトフの体験であった。
再び深い吐息が漏れ、寝具へと染み込んで行く。そうして息をひそめると、しんとした静寂がおりマイクロトフの浅い呼吸だけが聞こえる。
「………」
これまでマイクロトフの、その猪突猛進ぶりに冷や冷やさせられた事は無数にあるが、あれほど得たいの知れぬ恐ろしさを感じたことはなかった。
「一体何があったんだマイクロトフ……」
力なく呟いて、カミューは目を瞑った。
どうやら、そのまま寝入ってしまったらしい。ふと目覚めると室内はいつの間にか燃え尽きたらしい蝋の火も消え、闇の中に落ち込んでいた。窓からさしこむ外からの星明りだけがかろうじて室内の輪郭を浮かび上がらせている。
ベッドに肘をついて顔を上げると、髪を掻き揚げながら身を起こす。ふう、と細く吐息をついて何度か瞬くと、直ぐに室内の暗さに目が馴染む。と、そこでマイクロトフの存在を思い出し、ハッとそちらに目をやった。
「―――……」
変わらず静かな寝息を立てているその姿に、緩々とつめていた息を吐き出した。
いる。
それだけでこれほど安堵する。そんな自分にはもう驚きはしない。掛け替えの無い、とは良く言うが、失った後のことなど考えも出来ない存在があるのだと言うこと。
伏せられた目蓋は、ぴくりとも動かない。薄く開いた唇から本当に微かな呼吸音が漏れているだけで、まるでひっそりと寝ているその姿。ふとカミューはそろりと手を伸ばした。
指先が、その頬に触れるか触れないかほど近付く。そして指の腹がその肌に触れた刹那、カッとマイクロトフの目が見開きその手首を強く取られた。
「―――っ」
息を飲んだのは果たしてどちらか。僅かに首を浮かしたマイクロトフの目が反射的に身を引こうとしたカミューを凝視する。一時、空気が凍った。
「……マイクロトフ」
小さな声が、固まった空気を破る。
「起こしてすまない……が、手を、…離してくれないか」
軋むほど強く握られた手首が痛い。顔をしかめこそしないが、喉が強張って言葉が妙にたどたどしい。更には耳奥に響く自身の鼓動が強く大きい。どこか遠くに聞こえる自分の声が、きちんとマイクロトフに届いたのかどうかさえ分からないカミューだった。
「マイクロトフ」
もう一度呼びかけると、カミューを凝視していた黒い瞳が揺らいだ。
「カミュー……」
渇いた声が応えて、次にじわりと手首の拘束が緩んだ。だが完全に解き放たれるでもなく、闇の中、射貫くように定められた眼差しはそのままだ。そしてカミューが呆然とそれを見返していると、再び手首を掴むマイクロトフの手に力が入った。
なにを―――と思う間もなく引き寄せられ、より間近にマイクロトフの闇色の瞳にゆきあたる。そして、微かな呻き声がカミューの耳をくすぐった。
「…カミュー?」
掠れて上がった語尾に、カミューが「え?」と瞬く。するとマイクロトフのもう一方の手がカミューの髪へと伸びた。指がさしこまれ、ぎこちなく撫で梳かれる。そして。
「ああ、カミューか…」
低い、首の後ろにじんと響くようなその声に、知らずカミューの背が粟立った。いや、それよりも今現在の体勢にうろたえる。片手を掴まれて、横たわるマイクロトフに身を寄せるようにしているのだ。
カミューはハッとして身を引こうとした。だがその時、握りこんでいたその拳が解け、その掌にあった数枚の赤い花弁がそこへ散った。
「……つっ!」
突然その手首に感じた強い痛みに、つい声をあげたカミューだった。
握り込まれていた手首が更に強くぎりぎりと締めつけられる。驚いて見上げるとそこにはマイクロトフの顔が間近に迫っていた。
「……カミュー」
「な……」
気付けば鼓動が耳奥で割れ鐘のように大きく響いている。自分の呻き声が遠くに聞こえる。だが、その髪に置かれていた暖かな掌が動いてカミューは更に目を見開いた。
「どうしたカミュー?」
絡み合った視線の先、その眼差しはひどく優しく、そして慕わしげなものに変わっていた。
「…マイクロトフ……」
「うん?」
マイクロトフはカミューの髪にさし込んだままの指で再びゆっくりと撫で梳き始めた。そのとても友人に触れるようなものではない、ある種の親しさを思わせる仕草は、それを施される青年の思考を混乱させた。そして一方では容赦無く握り込まれた手首にも更に困窮する。
「どうしたんだ?」
その低い染み込むような声さえも……あまりの違和感にぞくりと肌が粟立つ。
カミューの中で、無意識に唾液を嚥下した音が深く反響した。そして目の端に、散った赤い花弁がやけに印象的に映えたのだった。
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2000/08/13
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