月灯館殺人事件/北山猛邦
本書では、登場する密室トリックがすべて過去作品の盗用だったという、メタミステリ/アンチミステリ的な趣向が用意されています。物干嵐『セムヤザの死』や北山猛邦自身の『『瑠璃城』殺人事件』といった“元ネタ”の作品を早い段階で示しつつ、ミステリの見立てに見せかけてあるのは巧妙ですし、後述する“箱舟計画”と方向を重ねてあるところも含めて興味深いといえなくもないのですが、端的にいえば“最終的には解明の手順を放棄しているだけ”とも受け取れるので、個人的にはあまり面白いとは思えません。
もっとも、ハウダニットに関しては、(基本的には)“候補者”の中から真相を選択する形になるフーダニットと違って、真相を構築する必要がある(*1)こともあって、我が身を振り返って考えてみても“解決待ち”になりがちなところがあるのは確か。また一方で、状況の(見かけの)不可能性が高ければ、その不可能を可能にする仮説が一つ示されただけで納得してしまうところがある――示された真相そのものがある程度の説得力を備えている(*2)ので、フーダニットのように解明の手順で読者を説得するまでもない、といえそうなところもあります。
それを念頭に置いて考えてみると、本書における密室トリックの解明の放棄は、“ハウダニットは答さえわかれば満足でしょう?”という問いを読者に突きつけているようにも思えてきますし、個人的にはそれに対して返す言葉がなく、居心地の悪さを覚えずにはいられません。実際に、そのような問題意識に基づいて書かれたものかどうかはわかりませんが……。
いずれにしても、“思いついたトリックを実行してみたかった”とはやや似て非なる、“既存のトリックの実行可能性を試してみたかった”という密室トリックの動機が、過去作品の盗用という趣向に裏付けを与えているのは確かですが、一般的な“見破られないためのトリック”の対極にある、“(一応は“元ネタ”の本を隠してあるものの)見破られることを辞さないトリック”であるという意味でまずまず面白いと思います。
*1: 拙文「ロジックに関する覚書#謎とロジックの対応」……というよりも、そこで引用したMAQさんの文章を参照。
*2: 実際には、有栖川有栖が「除夜を歩く」(『江神二郎の洞察』収録)で提示した、“別のトリック問題”――“作中で別のトリックが使われた可能性を消去する方法がない”――もありますが……。
次に個々の密室トリックについて。
- ・第一の密室(天神人殺し)
食堂の密室トリックは、特徴的な十字架形のドアノブ、両側のドアノブを同時に回す特殊な施錠、昇降するシャンデリア、そしてシャンデリアを動かす音声アシスタント(130頁)と、いかにもトリックに使えそうな道具立てが揃っているので、おおよその見当をつけるのはさほど難しくないのではないでしょうか。むしろ、ノアが見抜けないのがやや不思議にも思えますが、これは解明の放棄という趣向のためにやむを得ないということでしょう。
元ネタとされている『セムヤザの死』が、他ならぬ月灯館をヒントに書かれたというのがポイントで、『セムヤザの死』のトリックに使われた特殊な調度がほぼそのまま備わっているため、実質的に月灯館でのみ再現可能なトリックになっているのが面白いと思います。
- ・第二の密室(夢川殺し)
図書室の密室は、作中でも説明されているように、作者自身の『『瑠璃城』殺人事件』で使われているトリックの一つ(*3)ですが、それ自体が過去作の盗用とされているのが何というか。これはもちろん、
“トリックをそっくり丸ごと『盗作』している作家”
(288頁)の例とするためでしょうが、そこまで体を張らなくても(苦笑)と思えてしまいます。というわけで、本のドミノ倒しによって時間差で窓を施錠するトリックですが、ドミノの部分以外にも本を並べて大きな五芒星を描く――しかも本棚を間に挟むことで、ドミノ倒しという真相を隠蔽してあるところがなかなか面白いと思います。正直、『『瑠璃城』殺人事件』がなければ解明は難しいようにも思われますが、それを前提としているために(現場に存在し得る)手がかりが描写されていない、ということもあるでしょうか。
- ・第三の密室(日向寺殺し)
現場が“雪密室”――というか“氷密室”であるため、脱出経路の問題であることはわかりますし、ポセイドン像が何らかの形で使われたことまでは予想できるのですが、アトリエの窓とポセイドン像の間を埋めてつなぐものが見当たらないのがネック。そこで、一階の渡り廊下のカーテンを横から持ってくる発想が面白いと思いますし、アトリエの窓の方には何も仕掛けがないので、犯人が脱出後に窓を閉めることができる(*4)ところもよくできています。
現実的には、いくら何でも足場として脆弱すぎるのが苦しいところで、カーテン自体が持ちこたえたとしても、渡り廊下の側でそれを支えるカーテンレールが破損してしまう可能性が高いでしょう。とはいえ、本書の密室トリックの中では個人的に一番面白く感じられます。
- ・第四の密室(金友殺し)
積雪の中に隠されたトンネルからの脱出は、某国内短編(*5)を思い起こさせるところがありますが、それはさておき、周到な準備が必要になるとしても、本書の密室トリックの中で最も実現可能性が高いのは間違いないでしょう。しかし、手がかりが皆無に等しいのは、やはりミステリとしては難があるように思われます。
もっとも、このトリックは困ったことに“解明する”のが難しいのも確かで、トリックに使ったドラム缶などを速やかに回収することがまず不可能なため、窓の外をしっかり確認すれば――それこそ雪を
“少し掘るだけで”
(316頁)トリックが露見してしまうので、犯人が窓から脱出したことを示唆するわけにはいかず、“容疑者がドラム缶をいくつも購入した”ことを示すくらいしか思いつきません……が、本書の状況からするとそれも難しいでしょう。そう考えると、本書でのトリック解明の放棄という趣向は、この扱いにくいトリック(*6)を何とか生かそうとしてひねり出されたのではないか、とも思えてきます。もちろん実際のところはわかりませんが、少なくとも、比較的わかりやすい第一の密室トリックから始まって、元ネタの存在とともに解明の放棄という趣向を次第に明かしていきながら、読者が察してきた(あきらめた?)頃にこの解明困難なトリックを持ってくるという構成は、よく考えられているといえるのではないでしょうか。
(“解明”でこそないものの)密室トリックが明らかになることで、それを実行できる犯人の条件が浮かび上がってくる、という手順はなかなか面白いと思います(*7)が、“・日常的に天神人の部屋に入ることができた人物。”
(319頁)などの条件や、そこから導き出される〈メイドの白百合が犯人〉という真相は、作家たち以外の人物が犯人ということもあって今ひとつ面白味に欠ける感があります。
……と思いきや、“白百合久生”の名前から久生十蘭を経由して〈夢川蘭が犯人〉という結論が出てきますが、これは驚きというよりも、主に動機の面で納得感があります。また、第二の密室では夢川の名前がほぼ(*8)登場人物の台詞に出てくるだけで、第三の密室でも地の文には“人間の生首”
(212頁)と書かれているのみと、別人の死体である可能性が匂わされている(*9)ところからも納得です。
*3: 『『瑠璃城』殺人事件』がすぐに発掘できないので細部の確認はできませんが、トリックはこれだけではないので、未読の方は安心して(?)お読みください。
*4: (弧木が持ち出した)アトリエの窓と渡り廊下の窓をロープで結ぶトリックに対する、ノアのダメ出し(216頁~217頁)を参照。
*5: (作家名)泡坂妻夫(ここまで)の(作品名)「亜愛一郎の逃亡」(『亜愛一郎の逃亡』収録)(ここまで)。
*6: 元ネタとされている物干嵐『八尺美人』ではどうかといえば、“作中作”
(316頁)としての“ほんの五ページほどの掌編”
(317頁)という設定が絶妙で、雪に埋もれたドラム缶が見つかってトリックが明らかになる、といったような形でも許されそうです。
*7: また、ノアが自力での解明をあきらめてもなおトリックを知ろうとすることに、意味が生じているのも見逃せないところです。
*8: 地の文に“盗作騒動によって一度死んだ夢川蘭は、これで二度目の死を迎えたということになる。”
(146頁)という記述がありますが、これはセーフではないでしょうか。
*9: “夢川蘭の首”が後で出てきているので、“だから二番目の密室だけ、被害者はバラバラにされていたのか。”
(323頁)というノアの独白の意味はよくわかりません……と思いましたが、これはあらかじめ切断しておいた死体を館に持ち込んだことを想定しているのでしょうか(その後の“発見時にもっとよく調べておくべきだったのだ。”
(324頁)も、“夢川蘭本人かどうか”(これは誰もわからないはず)ではなく、死亡推定時刻の問題であればまだわかります)。
事件の背景であり犯人の動機にもなっている天神人の“箱舟計画”――月灯館に滞在する作家たちの作品を含め、既存のミステリのトリックを奪うために、著作権の保護期間が経過するのを待つという、あまりにも気の長すぎる計画にはやはり唖然とさせられます(*10)。しかしこの“箱舟計画”、どうしてもその有効性に疑問を覚えずにはいられません。
まず、私も十分に理解しているわけではありませんが、著作権法はアイデアではなく表現を保護するものなので、そもそもトリックの盗用だけでは著作権侵害に当たらない可能性が高く、少なくとも裁判で勝つのはかなり難しいでしょう(*11)。もちろん道義的な問題はありますし、元ネタに気づいた読者による“パクリ認定”が広まるダメージのおそれもありますが、どちらも著作権の保護期間とは無関係。つまるところ、保護期間が過ぎたか否かで大きな違いがあるとはいえないので、著作者の死後五十年を目指す計画にあまり意味があるように思えないのが難点です。
また、そもそも五十年以上前のトリックが(ほぼ)そのまま使えるのかどうか、というのも気になるところです。天神人が使ったような未発表の創作ノートであればいざ知らず、発表された作品のトリックであれば、五十年以上の間に何らかの形でバリエーションが生み出される可能性が高く、それよりも“素朴”な形であるはずのオリジナルのトリックが“新作”として発表された場合には、バリエーションを知っている読者にとっては面白味に欠けるものになってしまうでしょう(*12)。まあ、天神人と夢川蘭の場合には、面白さは二の次で粗製乱造になるのも辞さないスタンスだった、ということかもしれませんが……。
というわけで計画そのものには疑問がありますが、いずれにしても、作中の年代が“二〇一六年”
(15頁)に設定されているために、“事件後”の2018年に著作権の保護期間が著作者の死後七十年に延長され(*13)、夢川が“七十二歳”
(337頁)ではなく九十二歳になるまで保護期間が続くことになり、計画が破綻してしまうというオチが何ともいえません。
*10: 気の長い犯人といえば某海外作品((作家名)フィリップ・マクドナルド(ここまで)の長編)が思い浮かびましたが、年月という点ではそちらを遥かに超えています。
*11: ただし、文章だけならともかく、現場の見取図やトリックの説明図などの図版については、著作権侵害を回避するのが難しくなってくるように思います。
*12: このあたりの問題については、「占星術&異人館村に関するやりとり(暫定版) - posfie」(8ページ目)の冒頭あたりの私のツイートと、その少し前のMAQさんによる「トリックの一生」理論をご覧ください。
また、加えて当然ながら、前述の“パクリ認定”の問題も拡大する――元ネタ認定される作品が増える――ことになります。
*13: 「著作権の保護期間#日本国における著作権の保護期間 - Wikipedia」を参照。
月灯館が消滅したカタストロフの後の「終章」では、唯一生き残った犯人の独白を経て、最後の一行で“夢川蘭=弧木雨論”――“メイドの白百合”も含めて“一人三役”――という驚愕の真相が示されます。まさに青天の霹靂といったところでインパクトは強烈ですが、しかしこの真相、にわかに受け入れがたいのが非常に困ったところです。
確かに、「終章」に入ってすぐの“私の『最初の』デビュー作”
(332頁)という言葉で、夢川が再デビューしたことが示されています――月灯館の住人の中では(*14)、夢川より後にデビューしたのは弧木だけです――し、著者近影の問題について編集者が“声だけでは判断できなかった”
(333頁)としているので、逆に声だけで写真の女性とは別人と判断できる可能性があったわけですから、夢川が男性(*15)であることも示唆されているといえます。さらに、“その屍体の服装にも見覚えがあった。/ノアが最も信頼していた男の着ていた服だ。/「う、うう……弧木さん……」”
(327頁)という、第二の密室と同様の微妙な記述によって、“その屍体”が弧木ではないことが匂わされています(*16)。
とはいえ、いずれも“夢川=弧木”という真相を示す決定的な手がかりとまではいえない一方で、あまりにも“騙し”が強力すぎるのが大きな問題で、個人的にはかなりアンフェア感が拭えないものになっています。
まず現実的な話をすると、“夢川”はほぼ部屋にこもりきりで、“白百合”は派手なメイクに眼帯やマスクで顔を隠してほとんどしゃべらず、さらに“コンプレックスだった私の容姿や声”
(334頁)もある――とはいえ、ほぼクローズドな環境でそれなりの期間にわたって(*17)女装を含む“一人三役”を通すのは、いささか無理があるように思われます。特に“夢川”については、著者近影が別人ということもあるわけですから、“目を患って”
(334頁)いた天神人はともかく、他の作家たちやノアと顔を合わせる機会はなかったのか、気になるところです。
それは“お約束”としてスルーするとしても、“一人三役”という真相を念頭においてみると、色々と叙述が怪しいところが目につきます。まず細かいところでは、弧木が“弧木雨論”として初めて天神人と顔を合わせる場面の、“その部屋は、想像よりはるかにこぢんまりしていた。”
(22頁)や“想像に思い描く姿よりずっと小柄に見えた。”
(23頁)のような“想像”と比較する描写は、“夢川”や“白百合”としてすでに実態を知っているはずの立場としてはかなり不自然――ここで“想像”が出てくるのがおかしい――と感じられるのは否めません。
*14: しかし単に再デビューしたというだけでは、まったく別のペンネームの可能性もあり、“転生先”が月灯館の住人とは限りません。
*15: 弧木が鏡に向かって話しかける場面、“鏡に映る男”
(55頁)は弧木自身だと考えるよりほかないので、弧木が男性であることは間違いないでしょう。
*16: この部分、堂々の屍体に弧木の服を着せてあるのはもちろんとして、堂々と黒巻の首を入れ替えただけであるにもかかわらず、それまでの“首のスライド”という趣向が効果的に利用されているのが巧妙です。
*17: 弧木が月灯館を訪れたのが十一月――“今から二か月ほど前(中略)の九月”
(15頁)――で、メイドの白百合は“九月頃”
(43頁)、夢川はその少し(?)前(333頁~334頁)から月灯館にいるので、“十二月二十一日”
(55頁)までは、“一人三役”が始まってからでも一か月程度が経過していることになります。
そしていうまでもなく、読者に対して“一人三役”を成立させる仕掛けの中心である、(やや表現は悪いかもしれませんが)悪辣な叙述トリックがあまりにも強力にすぎるがゆえに、読者が真相を見抜くことが著しく困難になっています。以下、順不同でいくつかの場面を引用しながら、この叙述トリックについて検討してみます。
〈場面1〉夢川の部屋の扉だ。
(略)
弧木は用心深く扉に近づく。
(略)
そして静かに、ゆっくりと開いた扉の、わずか数センチの隙間に――
夢川蘭の瞳がさまよい泳ぐ。
その目には警戒の色が窺えた。(略)
(40頁)
これは“夢川”が初めて“登場”した場面で、“弧木”が夢川の部屋の扉に外から近づく様子に、“開いた扉の(中略)隙間に――/夢川蘭の瞳が”
と続けることで、“夢川”の方は部屋の中から覗いているように思わされますが、仕掛けのメインはもちろん、“弧木”と“夢川”を別人に見せかける名前の使い分けです。この“夢川蘭の瞳がさまよい泳ぐ。”
の部分は、“夢川蘭”自身の視点とは考えにくいので客観視点だと思われるのですが、客観視点においてこの人物を“弧木”ではなくあえて“夢川”と表現する合理的な理由が見当たらないのが困ったところ。
実際には同一人物なので、地の文に“弧木”と書いても“夢川”と書いても“事実”には違いない――と考えれば、地の文に“嘘”はないということで、“地の文に嘘を書いてはならない”にとらわれすぎると(*18)“問題なくフェア”と思ってしまいそうになりますが、いってみれば“事実”の方がガバガバな扱いになっているわけで、二つのペンネーム(*19)を持っているからといって、多重人格もののようにアイデンティティの自認の変化があるとも考えられない一つの場面の中で、作者が恣意的な使い分けをしているのは、読者からすると常識的には想定できない“反則技”といわざるを得ないように思います。
地の文に“事実”を書くことで読者を騙すという点で、いわゆる“逆叙述トリック”(*20)が使われた、(一応伏せ字)作者が以前に発表した(ここまで)某作品(*21)を思い起こす方もいらっしゃるかもしれませんが、そちらと違って書き分けにルールがないのが難点。また、そもそもこの場面には他の登場人物が存在せず、ただ読者が誤認するだけなので、“逆叙述トリック”ではなく単なる“一人二役”の叙述トリックにすぎない――と考えてみると、問題がわかりやすいのではないでしょうか。
また、“夢川蘭の瞳がさまよい泳ぐ。/その目には警戒の色が窺えた。”
の部分、夢川=弧木自身の視点ではあり得ないとして、客観視点だとすると少々おかしなことになります。“扉の、わずか数センチの隙間”
を通して夢川=弧木の目を描写しているのですから、この部分だけ視点の位置と視線の方向が部屋の中から外へと唐突に限定されていることになりますし、“窺えた”
は主観を通した描写のように受け取れる――そのために客観視点ではなく“弧木の視点”だと思わされることになっている――のも気になります。
*18: “地の文に嘘を書いてはならない”はフェアプレイの十分条件ではないことに注意(個人的には、必要条件とも(必ずしも)いえないと考えています)。
*19: ニックネームとの違いについて少し考えてみましたが、通常のニックネームは本名でないことが明らかなので、ペンネームに比べて“見かけの別人度(?)”が低いということがあるように思います。また、ニックネームと通常の名前が“共存”できる――例えば、“コーギー”は“弧木雨論”でもある――のに対して、二つのペンネームは状況により使い分けられて“排他的”――“夢川蘭”と呼ばれる状況では“弧木雨論”ではない――という印象があります。
*20: 拙文「叙述トリック分類#{H}逆叙述トリック」を参照。
*21: (作家名)北山猛邦(ここまで)の長編(作品名)『『ギロチン城』殺人事件』(ここまで)。
弧木はそこで足を止めた。 (注:弧木視点?)
弧木の部屋の前で、ゴスロリ姿の白百合が慎重に周囲を窺う。白百合はそのまま、弧木の部屋に入った。(略) (注:客観視点?)
弧木はすぐさま自分の部屋の中を確認した。 (注:弧木視点?)
誰もいない。
この部屋で人が隠れられそうな場所は、(略)
(略)
にわかにさむけを覚える。弧木は元の服に着替えて、(略)もちろんメイドの白百合の痕跡はどこにもない。(略) (注:弧木視点?)
(47頁~48頁)
同一人物という真相が明かされてみると、これは“ゴスロリ姿の白百合”
=弧木自身が“弧木の部屋に入った”
というだけのことで、部屋の中に(他に)“誰もいない”
のは当然です(*22)し、弧木が“元の服に着替えて”
扮装を解いてしまえば、“メイドの白百合の痕跡はどこにもない”
ことになるのもその通りです。
しかし何もわからない状態で素直に読むと、“弧木の部屋に忍び込んだメイドの白百合が即座に消失した”という不可能状況になっているのですが、ミステリ作家の割に弧木の反応が薄いことが、弧木にとって“謎でも何でもない”ことを示唆する手がかりになっている……とまでいっていいのかどうか。ミステリでは定番ともいえる不可能状況は、“後に解かれるべき謎”として読者の頭に刷り込まれていることもありますし、少なくともそこから“一人二役”にまでたどり着くのは相当難しいのではないでしょうか。
ところでこの場面の前半、弧木は“メイドの白百合”の姿をしているわけですから、客観視点で“白百合”と表現してもおかしくはないかもしれません。そう考えると、(注)として書き加えたような形で弧木視点と客観視点が入り混じっていると解釈すれば、名前の使い分けも〈場面1〉よりはまだ恣意的ではないといっていいでしょう。
*22: 弧木がちょうどタイミングよく侵入者の存在を疑っているのはご愛嬌。
起き出してきた作家たちを引き連れて、紐野と白百合は食堂へ戻った。
(略)
日向寺が低い声で呟く。
彼の背後には、弧木。
(略)
続けて夢川が、(略)後ずさり、いつの間にか廊下から姿を消していた。(略)紐野が気づいた時には、白百合に続いて、金友までエントランスホールへと逃げ出していた。
(80頁)
天神人の屍体が発見されたこの場面では、弧木は終始“メイドの白百合”の姿をしているはずですが、そのまま地の文に“弧木”と“夢川”の名前も出てきます。このあたりはほぼ全体が紐野視点と考えてもいいのかもしれませんが、“弧木”と“夢川”の名前は紐野視点では出てくるはずがないので、そこは客観視点だと考えられます(*23)。ということで、ここでも〈場面1〉と同じく名前の恣意的な使い分けになっています。
ちなみにこの場面では、〈場面1〉や〈場面2〉と違って他の登場人物も存在し、読者との間に認識のずれもある――登場人物が“白百合しかいない”と認識するのに対し、読者は“弧木と夢川もその場にいる”と認識する――のですが、人数の違いも含めて(*24)認識のずれが特に効果を生んでいない(*25)ので、やはり“逆叙述トリック”とはいいがたいものがあります。
*23: “弧木の前には、日向寺。”
であれば弧木視点といってもよさそうですが、“彼の背後には、弧木。”
では弧木視点の描写とはいえないでしょう。
*24: そもそも全員が揃っているわけでもない(堂々は寝ていて(107頁)不在)こともあって、その場の人数は作中でもまったく問題になっていません。
*25: しいていえば、読者の視点ではその場にいたはずの弧木に、すぐ後で日向寺が“なんだお前、いたのか”
(83頁)と声をかけているところに、認識のずれが表れているといえるかもしれませんが、日向寺が“背後”
にいた(“白百合”の姿の)“弧木”を認識していたかどうか微妙です。
弧木がそのテーブル席に着いた時にはもう(略)
「おせーよ、コーギー」
隣で堂々が喚き立てる。
(略)
テーブルには椅子が左右に四つずつ、合わせて八人分の席がある。
堂々巡の隣には夢川蘭。(略)少し遅れて参加したせいもあってか(略)
さらにその隣には、金友まりあ。(略)
テーブルを挟んでその向かいには、奥から天神人、日向寺深偵、黒巻古龍と並んで、一つ席が空いている。
そしてホール係として紐野通が部屋の隅に控えている。(略)
食堂にいるのはこれで全員だ。ゴスロリのメイドの姿はない。
そして天神ノアの姿もなかった。
「(略)今夜は全員出席とはならなかったが(略)」
(略)
金友がグラスを向けてきたので、弧木はそれを受けてグラスを合わせた。(略)
(58頁~60頁)
この夕食会の場面では、“白百合はいない”ではなく“ゴスロリのメイドの姿はない”
という表現で、地の文の嘘を回避してあるのはうまいところですが、堂々の呼びかけからみても明らかに“弧木”の姿をしているにもかかわらず、(おそらく客観視点の)地の文に“夢川”の名前が出てくる(*26)のは相変わらず。しかしこの場面に、ほぼ唯一の手がかりが用意されています。
前半の描写だけをみると、席順は[弧木・堂々・夢川・金友]のように読めますが、この並びでは弧木と金友の席が離れているので、意地の悪い読み方(*27)をしない限り、引用した最後の行での金友と弧木の乾杯が不可能になってしまいます。弧木が[堂々の隣]かつ[金友の隣]だとすれば、弧木は“夢川”の位置に座っていると考えざるを得ないのですから、弧木=夢川ということになるでしょう。しかしこの手がかり、乾杯のさりげない描写があまり目立つものではなく、最初から疑ってかからなければ気づくのは難しいように思います。
またもう一つ、天神人の“全員出席とはならなかった”
という言葉も、作家たちだけを対象としたものだと考えれば、地の文には作家たち全員の名前が出ているのであからさまな矛盾となるのですが、しかしこれについてはノアの不在が微妙なところ。この場面だけでも、天神人が指しているのがノアのことだと解釈する余地はありますし、後に“箱舟計画”が明らかになるとなおさら、天神人が“未来の作家”たるべき(*28)ノアを勘定に入れていたように思えてくるので、はっきりした手がかりとまではいえないのではないでしょうか。
このように、弧木と夢川が同一人物という真相につながる手がかりがないわけではないのですが、前述のように“反則技”ともいうべき叙述による強力すぎるトリックに対しては、あまりにも“力不足”なのは否めません。“手がかりが示されてさえいれば十分”というスタンスであればフェアといえるかもしれませんが、個人的には――特に叙述トリックに関しては、“フェア/アンフェアは手がかりとトリック(ミスディレクション)の“力関係”によって定まる”(*29)と考えているので、本書はかなりアンフェア気味といわざるを得ないところです。
*26: ここだけではなく、“夢川がグラスを手に取ってワインを飲む。”
(62頁)・“夢川が震える声で呟く。”
(66頁)・“夢川が消え入りそうな声で呟いて”
(70頁)などがあります。
*27: 例えば、金友が席を立って(全員と)乾杯している描写が省略されている、という解釈もできなくはないでしょう。
*28: “お前はこの館で起きた出来事を文章にして出版社に持ち込め。”
(289頁)という指示をみると、少なくとも“箱舟計画”を実行する際には、“告発”を体験させるためにノアを夕食会に参加させる必要があるわけで、天神人がノアを夕食会のメンバーに含めていた可能性は高いのではないでしょうか。
*29: “読者が謎を解くことができるかどうか”という観点からすると、フェアプレイは定性的な問題ではなく定量的な問題ととらえるべきではないか、と考えています。
……と、長々と書いてきましたが、どう考えても作者はかなりのところまで自覚的にやっているので、“ネタにマジレス”感がなきにしもあらず(苦笑)。
2022.09.05読了