1202年 (建仁2年 壬戌)
 
 

9月9日 庚戌 晴
  鶴岡祭例の如し。将軍家御参宮。
 

9月10日 辛亥 霽
  三嶋社祭、江間の四郎主奉幣の御使いたり。今日御鞠三箇度有り。人数北條の五郎時
  房・紀内行景・肥多の八郎宗直・比企の彌四郎・源性・義印等なり。員朝二百七十・
  百六十。昼二百八十・二百三十。夕百三十・三百九十・五百五十なり。
 

9月11日 壬子 晴
  荏柄社祭なり。廣元朝臣奉幣の御使いたり。
 

9月15日 丙辰
  御鞠有り。員二百三十・百六十の後、秉燭の程、将軍家また石の御壺に出御す。屏中
  門の内に行景を召し、小鞠を以て勝負を争わしめ給う。二三足の後行景に給う。行景
  また献上す。度々に及びすでに員百五十を揚げるの処、壱岐判官知康座を起ち、件の
  鞠を打ち落とすの間、将軍家入御す。行景退出の期に臨み、知康云く、君落とせしめ
  ば、公私互いに恥辱たるべし。仍って知康これを打ち落とすと。行景即ち御台所に参
  り、知康が所為指して尾籠の所存を催すに非ざるの由、女房を以て申すの間、頻りに
  御入興と。
 

9月18日 己未 晴
  将軍鶴岡宮に御参り。北條の五郎時房御劔を役す。中野の五郎能成御調度を懸く。
 

9月21日 壬戌 陰
  将軍家伊豆・駿河両国の狩倉に下向し給う。数百騎を召し具せらる。而るに内外の勢
  子を定めらる。内に候ずべきの輩、小笠原阿波の彌太郎・比企の彌三郎・和田の三郎
  ・細野兵衛の尉・中野の五郎能成なり。各々弓箭を帯せず、竹笠行騰を着し鞭を差す。
  但し能成一人弓矢を聴さる。この外の輩皆外に候ずべし。これまた弓箭を帯せず。帯
  せしむの者射手十人ばかりなり。射手と謂うは、和田兵衛の尉常盛・榛谷の四郎重朝
  ・和田の平太胤長・海野の小太郎幸氏・望月の三郎重隆・小坂の彌三郎・鎌田の小次
  郎・笠原の十郎・新田の四郎忠常・工藤の小次郎行光等なり。
 

9月29日 庚午
  将軍家漸く鎌倉に還らしめ給う。而るに今日新田の四郎忠常が宅に渡御す。終日小笠
  懸有り。忠常懸物十物を献ず。而るに件の懸物十が九は、幸氏・重隆・重朝・胤長・
  能成・行光等、箭数有るに依ってこれを給う。