1214年 (建保2年 甲戌)
 
 

7月1日 甲子 霽
  民部大夫行光を以て御使いとして、大慈寺供養の導師たるべきの由、葉上僧正に仰せ
  らると。
 

7月4日 [皇帝紀抄]
  三社(春日・大原野・吉田)に奉幣使を発遣せらる。南都衆徒の事に依ってなり。
 

7月27日 庚寅 終日甚雨
  今日、大倉大慈寺(新御堂と号す)供養なり。巳の刻尼御台所(御輿)彼の寺に渡御
  す。午の刻将軍家(御束帯)御出で。
  供奉人行列
   前駈(下臈を先と為す)
    橘三蔵人       伊賀左近蔵人仲能   三條左近蔵人親實
    蔵人大夫国忠     左近大夫朝親     相模権の守経定
    右馬の助範俊     前の筑後の守頼時
   殿上人 右馬権の頭頼茂
   御車(御車副え二人、牛童二人、雑色十八人)
   御劔役   小野寺左衛門の尉秀道
   御調度懸け 加藤左衛門の尉景長
   後騎
    相模の守義時     武蔵の守時房     修理の亮泰時(以上一行)
    前の大膳大夫廣元   前の駿河の守惟義   遠江の守親廣
    伊賀の守朝光     筑後の守有範     三浦九郎右衛門の尉胤義
    中條右衛門の尉家長  葛西兵衛の尉清重   嶋津左衛門の尉忠久
    佐貫兵衛の尉廣綱   大井紀右衛門の尉實平 宇佐美右衛門の尉實政
    江右衛門の尉範親   加藤右衛門の尉景廣  江兵衛の尉義範
   随兵
    相模の次郎朝時    武田の五郎信光    結城左衛門の尉朝光
    佐々木左近将監信綱  伊豆左衛門の尉頼定  若狭兵衛の尉忠秀
    下河邊の四郎行時   塩谷兵衛の尉朝業   大須賀の太郎道信
    東の平太所重胤    三浦左衛門の尉義村  筑後左衛門の尉知重
   検非違使 山城判官行村
  寺門に到り御車を税く。右馬権の頭参進し御沓を献る。御堂に上るの後、導師葉上僧
  正栄西伴僧二十口を率いて参入す。供養の儀有り。その後晩に及び御布施を引かる。
  被物三十重・御馬二十疋なり。