1214年 (建保2年 甲戌)
 
 

8月7日 己亥 甚雨洪水
  大倉新御堂の惣門顛倒す。

[皇帝紀抄]
  武士等多く宇治並びに淀・勢多等に向かう。南都大衆の入洛を相防がんが為なり。去
  る四日春日の御榊を移殿に移し奉る。
 

8月13日 丁巳
  大夫判官惟信の使者参着す。申して云く、去る四日、南都の衆徒欝訴の事有りと称し、
  春日の神木を木津の辺に移し奉る。今日(七日、この使者出京の日)入洛せんと欲す
  るの由その聞こえ有るの間、在京の士卒、悉く以て勅定を奉り、これを防禦せんが為
  宇治・勢多の両途に向かいをはんぬと。
 

8月15日 丁未 霽
  子の刻月蝕正見(九分)す。今日鶴岡の放生会なり。蝕の間、払暁将軍家御出で。経
  会・舞楽早速遂行せらるなり。
 

8月16日 戊申 晴
  将軍家御参宮昨日の如し。
 

8月29日 辛酉 陰
  去る十六日仙洞秋十首の歌合わせ。二條中将雅経朝臣写し進す。将軍家殊にこれを賞
  翫せしめ給うと。