1228年 (安貞2年 戊子)
 
 

5月1日 癸酉
  将軍家六浦より還御す。去る夜六浦に御止宿と。
 

5月6日 [百錬抄]
  興福寺別当(實尊僧正)寺務を停止せらる。多武峯の大事に依ってなり。
 

5月7日 己卯
  去る月二十五日、南都の悪僧等重ねて多武峯を焼きをはんぬ。山門殊に蜂起す。公家
  頻りに宥めの御沙汰に及ぶの由飛脚到来す。

[百錬抄]
  多武峯の事に依って、山僧等蜂起す。南都知行の江州庄園没収の由を称し、是非無く
  寺牒を成し抑留せしむの間、興福寺衆徒いよいよ以て忿怒す。洛中物騒なり。
 

5月8日 庚辰 晴
  将軍家馬場殿(御所の東御門)に出御す。五番の競馬有り。佐々木の加地三郎左衛門
  の尉・印東の八郎以下その勝負を召し決せらると。今日竹の御所の姫君御不例と。
 

5月10日 壬午 快晴
  今日また同所に出御す。駿河の次郎・小笠原の六郎・小山の五郎等流鏑馬を射る。次
  いで五番の競馬の勝負有りと。今日竹の御所の姫君御不例。相州の御沙汰として御祈
  り等を始めらる。
 

5月13日 乙酉
  印東の八郎御所に於いて御厩の御馬(栗毛)を賜う。これ強力に感ぜしめ給うに依っ
  てなり。
 

5月14日 丙戌 霽
  姫君の御不例御減の間、今日午の刻、竹の御所に於いて御沐浴有りと。
 

5月15日 丁亥
  戌の刻大地震。
 

5月16日 戊子 晴
  巳の刻相模の五郎時直主の女室(三浦三郎左衛門の尉家連の女なり)男子平産すと。
  今日後藤左衛門の尉基綱申して云く、去る月二十九日、前の右宰相中将(實政卿)越
  前の国に於いて薨ず(三十)と。これ去る元仁元年彼の国に配流せられをはんぬ。基
  綱は守護人なり。
 

5月21日 癸巳 晴
  天文博士維範朝臣地震祭を奉仕すと。今日戌の刻、御所の辺騒動す。御家人等多く以
  て競走す。武州、尾藤左近入道・平三郎左衛門の尉等を以て、殊なる事に非ず、各々
  退散すべきの旨、加制し給うの間、夜半に及び静謐す。これ誅せらるべき輩有るの由
  巷説出来すと。
 

5月22日 甲午 霽
  御祈り等を始行せらる。
   薬師護摩(大進僧都)   一字金輪法(信濃法印)
   八字文殊法(宰相律師)  十一面護摩(加賀律師)
   五大尊法(念行)     北斗供(助法印珍誉)
   本命星供(師法橋珍瑜)  天地災変祭(親職)
   螢惑星祭(国継)
  今日六波羅の使者参着す。申して云く、去る月十七日・同二十五日両度、南都の衆徒
  多武峯を襲い合戦するの間、堂舎・塔廟火災に及ぶ事、公家宥めらるると雖も、山門
  の蜂起猶以て静謐せざるに依って、綸旨を武家に下さると。
 

5月23日 乙未 晴
  南都と多武峯と合戦の間の事評定に及ぶ。出羽の前司家長を以て御使と為し、京都に
  申せらるべしと。
 

5月28日 庚子 陰
  午の刻千葉の介胤綱他界す。年二十一。