1228年 (安貞2年 戊子)
 
 

6月6日 丁未
  辰の刻御所贄殿の竈鳴ると。

[百錬抄]
  山門の悪徒去る夜日吉の神輿を中堂に捧げ奉り、只今下京せらるの由風聞す。武士に
  仰せ、これを防がる。これ多武峯焼亡の事に依ってなり。
 

6月9日 [百錬抄]
  神輿本社に還御す。武士各々帰洛すと。
 

6月22日 癸亥
  来二十六日将軍家相模河の辺に御逍遙有るべし。頃に駿河の前司義村の田村の家に御
  一宿有るべきの由思し食さる。而るに件の日、彼の所鎌倉御所より乾方、太白方たる
  かの旨人々これを申す。仍ってこれを決られんが為親職・晴賢等を召し尋ね仰せらる。
  晴賢申して云く、彼の所未だ行き向かわず。暗に定め難きと雖も、伝聞の如きは、乾
  方に当たりべからざるかと。親職戌方に当たるの由を申す。然る間御一宿の條子細有
  るべからざるの趣、義村に仰せ含めらると。
 

6月23日 甲子 晴
  辰の刻、将軍家百日招魂祭の御撫物、鼠これを食い損ずと。
 

6月25日 丙寅 陰
  明日田村の舘に入御有るべきの由、兼日定めらるるの処、家主義村軽服の事出来する
  の間、延引せしめ給う。他所の御遊覧有るべきの由その沙汰に及ぶ。明日は延長年中
  清涼殿霹靂の日なり。随って先々必ず雷雨有り。定めて御出の煩いたるかと。仍って
  明日雨降るべきや否や占い申すべきの旨、籐内左衛門の尉定員書状を陰陽師等に廻ら
  す。晴賢・泰貞・国継等、雷雨有るべからざるの由これを申す。親職・晴職、雨下る
  べきの由これを申す。文元、晩に及び小雨降るべきの旨これを申すと。
 

6月26日 丁卯 天霽
  将軍家御遊興の為杜戸に御出で。遠笠懸・相撲以下の御勝負有り。
   射手
    相模の四郎 同五郎       越後の太郎     小山の五郎
    結城の七郎 佐原三郎左衛門の尉 上総の太郎     小笠原の六郎
    城の太郎  佐々木の八郎    伊賀六郎左衛門の尉 横溝の六郎
  武州椀飯を献らる。また長江の四郎以下御駄餉を進す。盃酒の間管弦等有り。夜に入
  り船由井浦に還着するより、御輿をこの所に儲く。幕府に入御すと。
 

6月28日 己巳
  北の小庭に於いて小格勤等を召し出し、相撲の勝負を決せらる。武州候ぜらる。五明
  を以て勝輩に賜うと。
 

6月30日 辛未
  御所に於いて、去る二十六日杜戸の遠笠懸の負態有り。相模の五郎等所課を献らる。
  武州以下人々参らる。舞女等を召し加え、有興有感と。