1228年 (安貞2年 戊子)
 
 

7月5日 丙子 天晴
  越後の守(朝時)、日来の不例減気に属くに依って、今日沐浴すと。将軍家狩野籐次
  兵衛の尉為光を以て賀し仰せらると。
 

7月8日 己卯 晴
  馬場殿に於いて競馬・相撲の御勝負有り。当出仕の人々の郎従等を召し出し、その雌
  雄を決せらると。
 

7月16日 丁亥 天晴、南風烈し
  申の刻、松童社の傍らより失火出来す。東西四町の内人家化燼しをはんぬ。竹の御所
  纔に一町ばかりを相隔て、余焔を免がると。武州参らると。
 

7月18日 己丑 天晴
  御所内の御厩、本は三ヶ間なり。御意に相叶うの龍蹄出来するに依って、これを立て
  飼われんが為、今また二ヶ間造り加えらる。狩野籐次兵衛の尉奉行たりと。
 

7月19日 [百錬抄]
  南都衆徒の間の事、関東に仰せらる。
 

7月20日 辛卯
  駿河の前司義村軽服の日数すでに過ぎをはんぬ。今に於いては田村山庄に入御有るべ
  きの由案内を申す。日来彼の家修理を加え、御所一宇を新造せしむ。その砌より門田
  に至り渡廊を造る。草花員を尽くし東南の両庭に殖ゆと。

[皇帝紀抄]
  去る夕より大雨降り、賀茂の辺の在家多く流失す。永承以後第一の洪水と。
 

7月22日 癸巳 陰、南風吹き、時々小雨下る
  明日田村に渡御有るべし。而るに今日天気陰噎有り。若くは雨降るべきや否や。泰貞
  を御所に召し、籐内左衛門の尉忠行を以て尋ね下さる。天陰と雖も雨下るべからず。
  御行の為最上の日たるべきの由占い申すと。
 

7月23日 甲午 陰
  将軍家駿河の前司義村の田村山庄に渡御す。これ田家の秋興を遊覧せんが為なり。辰
  の刻出御す(御水干)。御輿を用いらる。金洗澤の辺より御騎馬。御日旱笠を奉る。
  去る夜・今晩、宿老数輩彼の所に行き向かいをはんぬ。これ供奉に漏れる人々なり。
  御出の行列、
  先ず随兵十二騎(左右に相分つ)
   三浦の次郎           長江の八郎
   結城の七郎           上総の太郎
   城の太郎            小笠原の六郎
   大須賀左衛門の尉        佐々木太郎左衛門の尉
   足利の五郎           河越の次郎
   陸奥の四郎           相模の四郎
  次いで御引馬三疋
  次いで御弓袋差一人
  次いで御鎧着一人
  次いで御乗替二人
  次いで御駕
   駿河の次郎(御劔を持つ)    佐原十郎左衛門太郎(御笠を奉る)
   佐原の四郎           高井の次郎
   多々良の次郎          印東の太郎
   遠藤兵衛の尉          土肥の太郎
   稲河の十郎           伊佐兵衛の尉
    以上左方に列歩す。
   大河戸太郎兵衛の尉       下河邊左衛門次郎
   梶原の三郎           佐貫の次郎
   波多野の小六郎         佐野の小五郎
   佐々木の八郎          春日部の太郎
   海上の五郎           阿保の三郎
   本間次郎左衛門の尉
    以上右方に列歩す。
  御調度懸け 長尾の三郎
  御後(水干・野箭)
   越後の守        駿河の守       陸奥の五郎
   大炊の助        相模の五郎      助教
   周防の前司       加賀の前司      三條左近大夫
   駿河蔵人        左近蔵人       伊賀蔵人
   結城左衛門の尉     小山の五郎      修理の亮
   白河判官代八郎     佐々木判官      同三郎
   長沼四郎左衛門の尉   後藤左衛門の尉    伊豆左衛門の尉
   伊東左衛門の尉     宇佐美左衛門の尉   佐原三郎左衛門の尉
   宇都宮四郎左衛門の尉  伊賀四郎左衛門の尉  同六郎左衛門の尉
   土屋左衛門の尉     中條左衛門の尉    信濃次郎左衛門の尉
   籐内左衛門の尉     隠岐次郎左衛門の尉  狩野籐次兵衛の尉
   天野次郎左衛門の尉   遠山左衛門の尉    加藤左衛門の尉
   江兵衛の尉       葛西左衛門の尉    相馬の五郎
   東の六郎        三浦の又太郎     足立の三郎
   嶋津三郎左衛門の尉   遠藤左近将監     海老名籐内左衛門の尉
   豊嶋の太郎       長江の四郎      氏家の太郎
   善太次郎左衛門の尉
  最末
   相模の守        武蔵の守       相模の小太郎
 

7月24日 乙未 陰
  将軍家田村に御逗留。遠笠懸・小笠懸等有り。人々埒際に候し見物す。この間、三浦
  の次郎泰村と佐々木太郎左衛門の尉重綱と口論す。互いに過言に及ぶ。泰村(笠懸の
  射手)馬に乗りながら、埒の内に於いて箭を挟む。重綱(見證)埒の外より進み寄り
  太刀を取る。各々雌雄を決すべきの形勢なり。未だ弓を引き、太刀を抜かざるの以前、
  宿老の類両方を相宥めるの間、無為静謐すと。
  射手
   相模の四郎           陸奥の五郎
   小山の五郎           相模の五郎
   小笠原の六郎          筑後の十郎
   長江の八郎           伊賀六郎左衛門の尉
   佐々木判官三郎         城の太郎
   佐々木の八郎          氏家の太郎
   宇都宮四郎左衛門の尉      三浦の又太郎
   三浦の次郎           結城の七郎
  晩に及び田家の御遊興有り。舞女数輩群集すと。
 

7月25日 丙申 陰晴
  鎌倉に還らしめ給う。義村御引出物を献る。
   御劔   陸奥の四郎これを持参す。
   御冑   佐原三郎左衛門の尉 遠藤兵衛の尉
   御野矢弓 結城左衛門の尉
   御行騰  三浦の次郎
   砂金   城の太郎
   一の御馬(鴾毛、鞍を置く)駿河の三郎 同四郎これを引く
   二の御馬(葦毛駮)    佐原の四郎 高井の三郎
   三の御馬(黒)      上総の太郎 稲河の十郎
  秉燭以前幕府に入御す。
 

7月26日 丁酉
  駿河の前司御所に参る。入御の事を賀し申す。また盃酒・椀飯等を献る。武州以下参
  会すと。今日籐内左衛門の尉定員を以て、御扇を泰貞に賜う。雨降るべからずの由占
  い申すに依って纏頭すと。
 

7月29日 庚子
  新調の御車京都より到来す。武州の御方に在り。而るに来月十五日は鶴岡放生会なり。
  御出有るべきに依って、この御車を用いらるべし。然れば兼ねて召し始むべきや否や、
  彼の亭に於いてその沙汰有り。尤も召し始めらるべきの由これを申せしむるに依って、
  陰陽道の勘文を召すと。