1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

6月1日 甲戌 朝陽快晴 [明月記]
  午の時ばかり少将伊成朝臣来臨す。病重きの由を称し謁せず。普賢寺殿去る夜遂に事
  切れ給う。定めて暫く事の憚り有るかの由存じて来たる由示さる。当時の柄臣に非ず
  と雖も、国家の元老・貴人の畏家、世間の歓娯暫く憚るべし。
 

6月8日 辛巳 晴
  京都の使者参着す。五月晦日丑の刻近衛禅定殿下普賢寺殿に於いて薨ず(御年七十四)。
  日来御不例なり。去る一日火葬。御骨は高野山に奉納すべし。御遺言に依って御追善
  並びに葬家有るべからずと。相州・武州御所に参り給う。沙汰有り政務二七ヶ日を閣
  かるべし。御訪の為御使を進せらるべしと。
 

6月12日 乙酉 霽
  禅定殿下の御事に依って、修理の亮泰綱使節として上洛す。
 

6月13日 丙戌 朝天遠晴 [明月記]
  去る夜金吾の雀乱纔に落居すと。左近大夫親賢(馬)少将に逢う。實任無礼を咎むか。
  飛礫を以てその後を打つ。親賢禅亭より退出す。白昼大炊御門東洞院に於いて實任朝
  臣の侍等凌礫し頭を打ち破り小刃傷に及ぶ。相門驚かれ、永く来寄すべからざるの由
  追放す。奇怪の由奏聞せらると。この羽林悪遠江の聟なり。縁者を習うか。
 

6月19日 壬辰 晴
  六波羅の使者到着す。仍って武州駿河の守の状を御所に持参し給う。彼の詞に曰く、
  去る十一日少将實任朝臣(公雅卿一男)出行の処、大炊御門東洞院の辺に於いて、入
  道相国の祇候人左近大夫親賢(騎馬)参会す。羽林頻りに下馬すべきの由を示す。然
  れども承引せず馳せ過ぐ。仍って同日戌の刻青侍等を以て、一條殿より退出の期を伺
  い、親賢を蹂躙するの間、入道相国御欝念有りて、氏を放ち解官せらるべきの由奏聞
  せらると雖も、急速の聖断無し。次いで彼の下手人淡路の国の武士たるの上は、武家
  尤も沙汰を致すべきの旨触れ仰せらると。
 

6月20日 癸巳
  出雲の国杵築の神主眞高刃傷狼藉に及ぶの由、彼の国の守護隠岐太郎左衛門の尉政義
  注進するの間、その張本を召し進すべきの旨、今日仰せ下さるるの上、神職を改め内
  蔵孝元を以て新補せらるる所なり。

[明月記]
  立后日と。(略)長政朝臣来たり談る。實任朝臣解官せらるべしと。

[百錬抄]
  前の斎宮持明院殿に於いて立后の事有り。これ母后の儀に准うなり。
 

6月25日 戊戌 晴
  炎旱すでに三旬に及ぶ。州民皆西収の儲けを失う。仍って弁僧正定豪並びに鶴岡の供
  僧及び大蔵卿法印良信等に仰せ、祈雨の御祈りを始めらる。
 

6月27日 庚子
  申の刻より亥の四点に至り雷鳴甚雨。上綱已下御巻数を捧ぐ。周防の前司親實これを
  執り進す。先ず御馬・御劔を以て両人の宿坊に送り遣わさる。籐内左衛門の尉・信濃
  左近将監御使たり。
 

6月28日 辛丑 [明月記]
  武士六條川原に於いて斬罪を行う。雑人聚見すと。鎧を以て質物として鵝眼を借り、
  借物を返さずして打ち殺し鎧を取り返すの犯人と。